グアルディオラ率いるマンC(上)とシメオネが鍛え上げたアトレティコ(下)。スタイルは対照的だがともに結果は残している。(C)Getty Images

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「いいプレー」

 サッカーでは、その表現が当たり前のように使われる。しかし、いいプレーとは何だろうか?

 その目的だけは、はっきりしている。試合に勝つためにあるものだ。ただ、手段と目的は必ずしも合致せず、その考察はなかなか哲学的なものとなる。

 いいプレー=ボールプレーの質の高さ=試合を支配して勝利する。それは一つの定理だろう。ボールをつなぎ、運び、イニシアチブを取る。それが一般的に、いいプレーと言われる。

 ボールを蹴る、止める――。その精度とコンビネーションの練度の高さがモノを言う。ジョゼップ・グアルディオラが率いるマンチェスター・シティは、その最たるチームと言えるだろう。

 しかしながら、ボールプレーに長けたことのみが、いいプレーを指し、すなわち勝利につながるのか?

「ボールポゼッションに意味はない」

 アトレティコ・マドリーのディエゴ・シメオネ監督はそう言って、”いいプレー”を切って捨てる。相手の良さを消し、潰し、後の先をとったカウンターを決め、あとは守りきる。屈強な戦士のような選手と、ゴールを仕留められる選手を前線に配置。効率性を重んじ、勝利を手にする。

 目的を考えれば、これも一つのいいプレー、と言えなくもない。
 
 二つのいいプレーは、アンビバレントな要素を含んでいる。相反するサッカーの捉え方。それはしばしば火花を散らす。

「彼らは、いいプレーなどどうでもいいんだろう」

 ラ・リーガ第23のレガネス戦の後、ベティスのキケ・セティエン監督は忌々しげに語った。

「レガネスは、生き残るためにこの戦い方を選んでいるのだろう。その点ではスペクタクルなほどで、その“労働”ができる選手がメンバーに選ばれている。しかし、我々のような(創造的)サッカーはできない」

 敵の良さを消し、効率的に得点を狙う戦い方で挑んできたレガネスを、キケ・セティエンはそう皮肉った。しかし、0-3で敗れた後だったことで、批判が噴出した。

「我々は戦い方に誇りを持っている。恥じることなど少しもない」

 レガネスのマヌエル・ペジェグリーニ監督は、そう反論している。
 この論争に参戦する人物がいた。“現実主義者”として知られる元スペイン代表監督、ハビエル・クレメンテだ。次々にツイッターを更新し、辛辣な意見を飛ばした。

「レガネスの監督でもない男が、なにを言っておるか。それぞれの監督にそれぞれのやり方がある」

「キケ・セティエンは(ベティスの前に指揮した)ラス・パルマスでは美しいプレーをしたんだろうが、降格しなかったのは偶然に過ぎん」

「予算に合わせた戦い方がある。キケ・セティエンは自分の心配をすべきだ」
 
 キケ・セティエンとクレメンテは水と油で、わかり合うことはない。キケ・セティエンは勝利するためにボールプレーを追求するべきという理論の持ち主で、クレメンテは勝利するためにはボールプレーなど関係ないという考えが身についている。それぞれ、いいプレー、の定義が正反対なのだ。

「いいプレー」

 その解釈は多様で、結論が出ない。
 
文:小宮 良之

【著者プロフィール】
こみや・よしゆき/1972年、横浜市生まれ。大学在学中にスペインのサラマンカ大に留学。2001年にバルセロナへ渡りジャーナリストに。選手のみならず、サッカーに全てを注ぐ男の生き様を数多く描写する。『選ばれし者への挑戦状 誇り高きフットボール奇論』、『FUTBOL TEATRO ラ・リーガ劇場』(いずれも東邦出版)など多数の書籍を出版。2018年3月には『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家デビューを果たした。