『貧困と地域 あいりん地区から見る高齢化と孤立死』(白波瀬達也/中央公論新社)

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 大阪市西成(にしなり)区の北東部に位置する「あいりん地区」は、「日雇労働者の町」や「福祉の町」として知られている。高度経済成長期からたびたび暴動が起きてきたことなどから、あいりん地区を“危険な街”として認識している方も多いかもしれない。しかし、今このあいりん地区では大きな変化が起きている。

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 今年あるニュースが流れた。それは、あいりん地区にある13階建ての「あいりん総合センター」の労働施設(1〜4階)が3月31日をもって閉鎖され、併設する病院施設の移転後に建物全体が建て替えられるというもの。新しい労働施設は、6年後に完成予定と発表された。

 だが、その6年を待てるほどの余裕が、あいりん地区の労働者たちにはないだろう。なぜなら、高齢化が進んでいるあいりん地区では生活保護受給者が増加したり、社会的孤立が拡大して身よりのない最期を迎える人も多くなっており、社会的課題が目の前に山積しているからだ。

 あいりん地区の問題を他人事のように考える人もいるかもしれないが、実はそうではないという。『貧困と地域 あいりん地区から見る高齢化と孤立死』(白波瀬達也/中央公論新社)によれば、あいりん地区が抱えている社会問題は、全国どこの地域にも起こり得るというのだ。果たして、それは一体どういうことなのだろうか。

■生活困窮者の受け皿になった「釜ヶ崎」の歴史

 あいりん地区は、もともと「釜ヶ崎」と呼ばれており、田畑が広がる農地であった。そこに貧困層が集まったのは、かつて日本一のスラムと言われていた名護町(現在の大阪市浪速区の日本橋界隈)の強制的な立ち退きがあったからだ。釜ヶ崎には、名護市から強制的に移住させられた人々を収容すべく、泊まり客が自炊して燃料代のみを払って住む「木賃宿」が作られた。

 しかし、1945年の大阪大空襲によりそのほとんどは焼失。木賃宿も数軒しか残らなかったが、下宿旅館の町として再出発を図り、1950年代には全国有数の「ドヤ街」と称されるまでになった。

 釜ヶ崎は立地条件が良かったため、他地区のドヤ街を吸収しながら巨大化。当時の住民の半数は簡易宿泊所や簡易アパートを拠点に生活しており、その内の4割は定職を持っているが、4割は定職を持たない移動労働者、あとの2割は無職であり、不就学児や長欠児も多かったそうだ。現在の山王と太子、萩之茶屋近辺では、暴力団による犯罪や、売春、麻薬密売、盗品売買なども目立つようになっていった。

 そんな釜ヶ崎といえば、過去の暴動のイメージが強いという人もいるだろうが、その背景には公共の職業機関が介在しなかったという問題点もあった。悪質な手配師や暴力団の中間搾取を受けていた日雇労働者の不満が、暴動という形で表れたのだ。

 そのため、行政は1961年の暴動が起きた後、公的に就労を支援すべく「西成保健所分室」を設置。不就学児対策として「あいりん学園」を開設した。1962年には日雇労働者の就労環境を改善すべく、事業主に労働条件を明示させることを目的とした「財団法人西成労働福祉センター(あいりん労働福祉センター)」を開設した。また、地域名を釜ヶ崎からあいりん(愛隣)に改め、医療・住宅・労働の3機能を併せ持つ「あいりん総合センター」を設けた。

 こうした行政の対応について知ると、あいりん地区が現在でも「貧困の町」というイメージで語られることが不思議に思えてしまうかもしれない。だが、そこにはバブルの崩壊が深く関係している。

■バブル崩壊があいりん地区の貧困様相に拍車をかけた

 バブル崩壊前までは、日雇労働市場が、生活に困窮する者に就労の機会を提供できていた。しかし、バブル崩壊後はそうした機能が期待できず、行政には支援や対策のコストだけが重くのしかかってしまった。

 さらに、この頃活発に展開されるようになった民間の支援活動の統制が取れていなかったことも、貧困層をサポートするセーフティネットが複雑化する原因に。多様なセーフティネットが存在したため、生活困窮者があいりん地区へ集中し、貧困の地域集中が加速したのだ。

 バブル崩壊後にあいりん地区が「日雇労働の町」から「福祉の町」と呼ばれるようになった背景には、福祉が制度として充実してきたからではなく、「生活の問題」が労働問題よりも色濃くなってきたからであった。

■あいりん地区を“課題の先進地”として捉える

 現在そのあいりん地区では、日雇労働者たちの高齢化に加えて、他地域からの生活困窮者の流入も増えているが、その中で社会的孤立に苦しむ人々は増えている。見知らぬ人同士が路上で会話したり、親しい仲間と酒を交わしたりすることはあっても、「互いのプライバシーには踏み込まない」という暗黙のルールが存在するため、社会的孤立が深まっている。

 また、2012年から進められている、子育て世帯を始めとする新しい住民層や旅行客の呼び込みを狙った「西成特区構想」が今後盛んになっていけば、これまでこの地区に住んでいた日雇労働者や生活保護受給者は生き方をさらに変えざるを得なくなる。

 現在のあいりん地区の課題とその解決策は、そんな残酷な事実を私たちに教えている。あいりん地区の貧困は決して地区固有のものではなく、全国どこの地域でも起こり得ることではないだろうか。だからこそ、それと並行して進む高齢化問題や社会的孤立の拡大も他人事ではないのだ。

 これまで数多くの生活困窮者の受け皿となってきたあいりん地区は、すでに限界を迎えている。そのため、第二、第三のあいりん地区が、日本のどこかに誕生してもおかしくはない。あいりん地区を特殊と見なすのではなく、“課題の先進地”として受け止め、自分の地域の今後を考える…。それが私たちにできる、貧困対策だろう。

文=古川諭香