「鑑定団」、曜変天目茶碗に2500万円 「意外と安い」と思われるワケ
テレビ東京系の「開運!なんでも鑑定団」で、番組開始(1994年)以来「最大の発見」が放送された。鑑定を依頼された茶碗について、お馴染みの古美術鑑定家、中島誠之助さんが、「世界に3点しかない」(同番組)とされてきた「曜変天目茶碗」の4点目だと断言した。
2016年12月20日に放送された同番組で、この茶碗には「2500万円」の鑑定額がついた。高額鑑定にスタジオは騒然となったが、ツイッターなどでは、意外と安いな、といった反応も出ている。「世界に3点しかない」「3点はいずれも日本で国宝」という情報を考えると、もっと高額かと思った、というわけだ。
三好長慶の子孫から買い取った
鑑定の依頼人は、徳島県のラーメン店店主(56)。持ち込んだ「天目茶碗」は、曾祖父が、戦国大名の三好長慶の子孫から買い取った骨董品のうちの一品だという。
「天目茶碗」とは、京都国立博物館サイトの説明によると、「日本での呼び名で、中国浙江省にある天目山の寺院で使われていた黒いうわぐすりのかかった茶碗を日本人のお坊さんが持ち帰ったため、そう呼ばれるようになったといわれて」いる。のちには「日本でも天目茶碗がマネして」作られ、こうした日本製のものも天目茶碗と呼ばれるようになる。
また、番組説明によると、その模様の特徴などから、「曜変天目」や「油滴天目」などに分類される。最上品とされる「曜変天目」は、「大小さまざまな斑紋が浮かび、その周りには鮮やかな玉虫色を帯びて」おり、「満天の星のごとく」という意味から「曜」の文字が使われている。「世界にわずか3点しかない」「いずれも日本にあり、国宝になっている」との解説もあった。
天目茶碗に関する説明が終わると、中島さんの鑑定儀式が始まる。依頼人の本人評価額は「100万円」。価格表示の場面になると、「一、十、百、千、万、十万、百万...」まできた所で「500万円」の表示が出ると、司会の今田耕司さんが「えっ!」と驚きの声をあげるが、表示はさらに続き、最終的に「2500万円」になった。依頼人は「何これ?」と信じられない様子だった。
中島誠之助「曜変天目に間違いございません」
中島さんの解説が始まる。番組開始以来の「最大の発見」だとし、12〜13世紀の中国の南宋時代、福建・建窯で焼かれた「曜変天目に間違いございません」と断言。曜変天目は世界に3点しかなく、「4点目が確認された」とも言い添えた。さらに、
「もし、(三好長慶から伝わった)この茶碗が、(織田)信長、(豊臣)秀吉、そして徳川家康が持っていて現在に伝わったのなら、国宝になっていたかもしれない」
と説明し、「大名品です」と太鼓判を押した。
放送をうけ、ツイッターなどでは驚きが広がった。ただ、「2500万円」の鑑定額をめぐっては
「安っ!」
「たったの2500万円らしいですね。倍額の5000万円でもオークションに出したら、即決だと思います」
「曜変天目茶碗が2500万円は安すぎる」
といった声が出ていた。中には、相続税への配慮から2500万円に鑑定額が抑えられたのではないか、といった推測を書き込む人も。「2500万円」が、生前贈与に特別控除を認める「相続時精算課税制度」の限度額である事からの類推なのかもしれない。
放送の翌21日、番組内容は新聞記事にもなり、同日付の日経新聞朝刊(第2社会面、東京最終版)などが報じた。
「国宝所蔵」美術館の学芸員に話をきくと...
また、番組内容について、放送を見たという美術関係者に21日、J-CASTニュースが話を聞くと、「番組では触れていなかったようだが、あくまで『完全な形で残る』曜変天目が3点ということ。『4分の3』など、完全に近い曜変天目は他にもある」と指摘した。
国宝の「曜変天目」を所蔵する美術館は、どう受け止めているのか。「3点」をそれぞれ所蔵するのは、静嘉堂文庫美術館(東京都)と大徳寺龍光院(京都市)、「藤田美術館」(大阪市)だ。静嘉堂文庫美術館の学芸員によると、
「番組は見ましたが、実物を見たわけでも触ったわけでもないので、勿論、『曜変天目』なのかどうか、否定も肯定もできません」
としつつも、
「とは言っても、とてもワクワクするし、楽しい話題だな、と思っています」
と、関心の高まりを好意的に受けとめている様子だった。
同館サイトによると、同館の「国宝 曜変天目(稲葉天目)」は、「もと徳川将軍家所蔵であったものが、三代将軍・家光の時代、春日局を経て、後に淀藩主となる稲葉家へ伝えられたとされる」逸品だ。現在は展示しておらず、展示予定も「未定」だそうだ。
こちらの国宝の「曜変天目」の値段は、どれくらいになるのだろうか。ある全国紙の元・美術担当記者や都内の美術関係者らに話を聞くと、「静嘉堂さんのは、3点の中でも一番美しいとされ、数十億円はするでしょうね」「10億円は、くだらんでしょうな」などと話していた。