【ノーベル物理学賞中村修二氏、独占インタビュー】 なぜ、中村氏は不可能と言われた 20世紀中の青色LED開発に成功できたのか?
今年、2014年のノーベル物理学賞を受賞したカリフォルニア大学サンタバーバラ校教授の中村修二氏。私は、彼の最後の自著『ごめん!』を古巣のダイヤモンド社で編集者として担当した縁で、それからも来日した際にお会いするなどし、親しくさせていただいている。当時、中村教授が起こした裁判の和解勧告を受け入れたときの記者会見をテレビで観て、大学でロボット研究をテーマとしていた理系の私としても、この和解に納得できず、ここに至った経緯を世の中に伝えるべきだと思い、その翌日、滞在先のホテルに押しかけて、書籍制作を願い入れた。
最初は「もう本は出さない」と渋っていた中村教授だったが、なんとか私の想いを聞き入れてくれ、最後の自著として発行することができた。今回、文化勲章の授賞式出席のために来日した際にお会いし、いろいろとお話を伺ったので、その内容をダイヤモンド・オンラインの読者に“独占インタビュー”としてお伝えしたい。(文/田代真人)
低予算を創意工夫で
乗り切るうちに培われた“技術”
今回改めて確認したのは、20世紀中にできないと言われていた実用的な高輝度青色発光ダイオード(高輝度青色LED)をなぜ中村氏が開発できたのか? ということだ。この件について既存のメディアではあまり伝えられていないので、簡単に説明しておこう。
中村氏は、日亜化学工業に入社してからの10年間、毎日のように実験を繰り返していた。まずは赤色LEDの原料を作る仕事。それは後に赤色LED自体を作る仕事に変わっていったが、その際に、会社に予算がなく、実験で壊した実験装置を自分で修理していた。そこで実験で使用する高温に耐えられる石英ガラスの溶接作業をはじめ、さまざまなテクニックを身につけていったのだ。
そのテクニックは、後に米フロリダ州立大学へ留学した際にも活かされ、発光ダイオードの基盤に結晶膜を作るMOCVD装置の組み立てや修理のときにも発揮された。逆にこのとき博士号を持っていなかった中村氏は“便利屋”として研究仲間から重宝されたと苦笑する。しかし、青色LEDの開発にあたって、この技術が存分に活かされることになる。