美輪明宏がコシノジュンコに一言「私は、本物でなければ舞台に立てない」「日本のアングラ演劇」2
前回とりあげたアートシアター新宿文化で、1967年、寺山修司主宰の演劇実験室「天井桟敷」が「毛皮のマリー」という芝居を上演しました。このとき衣装を担当したのは、新進気鋭のファッションデザイナーだったコシノジュンコです。コシノは公演のため、少ない予算をやりくりして洋服の仮縫い用紙を何色にも染め分けてデザインしました。しかし主演の美輪明宏(当時は丸山明宏)はこの衣装が気に入らず、「私は、本物でなければ舞台に立てない」と言って、何と自前でジバンシーのシルクのドレスをつくってしまいます。
このエピソードは、寺山の当時の妻で、ともに「天井桟敷」を設立した九條今日子(当時の名前は映子)が著書『回想・寺山修司』で書いていることです。九條はこの本が角川文庫で復刊されてからほぼ1年後の今年4月30日に亡くなっています。
寺山と離婚したのちも劇団の運営に従事した九條は、彼の没後にいたっても、作品の管理や記念館の設立などその遺志を次代へと引き継ぐため精力的に活動しています。もともとは松竹歌劇団(SKD)出身の女優で、美輪とは当時から親しくしていました。それを知っていた寺山は彼女に、天井桟敷の旗揚げ公演「青森県のせむし男」に際して美輪への出演交渉を任せます。ただ、このときの美輪の役は「醜悪の老女」というものでした。それだけに九條は困惑しながら美輪のもとを訪ねたものの、「面白いねえ、引き受けるわ」と快諾され、拍子抜けしたといいます。
天井桟敷の第3回公演となった前出の「毛皮のマリー」の上演前には、美輪とコシノの一件のほかにもトラブルがあいつぎます。舞台美術は、「天井桟敷」の設立メンバーでもあったイラストレーターの横尾忠則が手がけたものの、その美術装置が大きすぎて、劇場の搬入口から入らない。そこで演出の東由多加が小さく切って入れようとしたところ、横尾に見つかってしまいます。怒った横尾はそのまま降板、急遽美輪の家からアンティーク家具一式を運びこむなどして、装置をつくったそうです。
のちに「東京キッドブラザース」を設立する東由多加は、この当時まだ22歳の駆け出しの演出家でした。そもそも寺山が天井桟敷を結成するきっかけは、東由多加の言葉がきっかけだったといいます。東はそれ以前、早稲田大学の劇団「仲間」を主宰し、寺山の戯曲「血は立ったまま眠っている」を演出していました。これを観に来た寺山本人に、東は打ち上げの席で「寺山さん、絶対に劇団をつくるべきですよ。僕が『仲間』の連中も連れていきます」と興奮しながらすすめたそうです(九條今日子『ムッシュウ・寺山修司』)。
その言葉どおり、天井桟敷が設立されると東は仲間を引き連れて合流したのでした。そして旗揚げ公演から演出を任されたのですが、「毛皮のマリー」の初日直前、突然行方をくらまします。東はその少し前から、寺山や美輪の言っていることがわからないと九條に弱音を漏らしていました。まだ若く、寺山たちと10歳も離れた東はそうとう無理をしていたのでしょう。みんなが探し回るなか、彼は東京駅から「田舎に帰ります」と電話をかけてきます。それでも急いで駅に行った九條の説得で、どうにか劇団に戻ったのでした。
■虚構か、現実か? 「市街劇」という体験
本来は歌手である美輪明宏をはじめ、横尾忠則やコシノジュンコ、またべつの公演では音楽にイラストレーターの和田誠を起用したことなどからもうかがえるように、寺山は自分の劇団に、演劇という枠にとらわれずさまざまなジャンルから才能を集めました。そもそも当の寺山からして、天井桟敷以前より、気鋭の歌人・詩人・放送作家・評論家としてすでに脚光を浴びる存在でした。
60年代に登場した小劇場系劇団のほとんどが、大学の学生劇団か、新劇の劇団・養成所か、いずれかの出身者たちによるものだったのに対し、天井桟敷はまるっきり出自を異にしました。それだけに、寺山は一貫して、既存の演劇の枠組みを揺るがし続けることになります。
上演場所の選択からして、劇の内容に合わせてあれこれと変えたりしています。第2回公演「大山デブコの犯罪」は、新宿の寄席・末広亭に無理を言って舞台を貸してもらいました。劇団結成時に「見世物の復権」を標榜した寺山は、子供の頃に見た見世物小屋のイメージを寄席に投影したのです。
その後、1969年には劇団の拠点として渋谷に「天井桟敷館」が完成し、公演の大半はそこで行なわれるようになります。天井桟敷館はやがてはとバスのコースにもなりました。はとバスの客相手の公演はやがて打ち切られるのですが、これが画期的なアイデアを生みます。それは、バスで観客を運びこむのを逆手にとって、街のなかの日常に演劇を持ちこもうという、「市街劇」の構想です。その第一弾として、1970年には「イエス」(竹永茂生作・演出)と題する公演が行なわれています。このとき観客は、行き先がわからないようバスに乗せられ、とあるマンションにまで着くと、一組の夫婦の部屋に“不法侵入”します。突然の集団での来宅に抗議する夫婦に、観客は驚きや後ろめたさを感じつつ、最後の最後でその夫婦がじつは“演技者”だと明かされるという趣向でした。
ただし、市街劇の発想は、当時天井桟敷を観に来ていた学生運動の活動家たちから「劇場なんかで芝居をしてないで、街頭へ出るべきだ」と野次られたのがきっかけだとの説もあります(高取英『寺山修司 過激なる疾走』)。ともあれ、客席と舞台、劇場の内と外、虚構と現実と、演劇につきまとうあらゆる境界を乗り越えようとしていた寺山は、市街劇に大きな可能性を見出します。その最大の試みが、1975年に東京の高円寺・阿佐ヶ谷一帯で30時間にわたり、同時多発的に33カ所で上演された「ノック」です。観客はチケット代わりに地図を買うと、それを頼りに各所に移動し、そこに待ち受ける“事件”を体験しました。
上演プログラムのなかには、銭湯にいきなり俳優が観客とともに侵入するものがあったりして、近隣住民から苦情も出て、新聞などでは批判的に報道もされました。けれども「市街劇っていうのは、三面記事になるのが理想的」と以前から冗談で言っていた寺山にとって、もくろみ通りだったのでしょう。彼は1983年に47歳で亡くなるまで、もう一回、市街劇をやりたいと語っていたといいます(扇田昭彦と九條今日子の対談、『劇談』所収)。
昨年、東京・青山のワタリウム美術館で開催された「寺山修司展 『ノック』」では、「ノック」の全貌が紹介されていました(その開催を記念した本も刊行されています)。それを観ていて私が印象に残ったのは、たとえば、レストランでの客と給仕の役割を転倒させ、そこに来た観客は、出される注文にすべて従わなければならない、その名も「注文の多い料理店」というプログラムです。ほかにも、バスに乗った観客たちが目隠しをされ、車中にまぎれこんだ俳優から体験の共有を仕掛けられたあげく、遠方で置き去りにされるというプログラムがあったり、一般人相手にかなり手荒いことも行なわれたようです(笑)。そこで私がふと思い出したのは、「元気が出るテレビ」や「お笑いウルトラクイズ」「電波少年」、さらに「笑ってはいけないシリーズ」へといたる日本テレビのバラエティ番組でした。まあ、これら番組で過酷な体験をさせられるのはタレントで、一般人ではないというのが大きく違いますが。
寺山の没後、肝心の演劇の世界で大規模な市街劇を展開した例を、私は寡聞にして知りません。とはいえ、最近たまたま『小豆島にみる日本の未来のつくり方』という本を読んでいたら、こんなケースが紹介されていました。
それは柴幸男が主宰する劇団「ままごと」の香川県・小豆島における活動です。ままごとは、島内の民家を訪ねて劇を上演しているほか、「おさんぽ演劇」を謳った「赤い灯台、赤い初恋」という公演では、観客は案内役に引率されながら島内のあるエリアを歩いて巡ります。そのなかで劇団員の演じる案内役は、「自分はこの島で生まれ育ちました」と宣言してから、島の人たちから聞いたエピソードを織り交ぜながら、嘘とも本当ともつかない話をするのだそうです。ある日の公演では、途中で偶然通りがかったおばあさんが割り込んできて島の昔話を始め、案内役が「そうですね、僕の小さい頃は……」などと話を継ぐということもあったとか。
天井桟敷の市街劇が、現実のなかに虚構を投入するものであったとすれば、ままごとのおさんぽ演劇は虚構を呼び水に現実を引き出した、とでもいえるでしょうか。寺山とは方向性は違うとはいえ、私は柴たちの活動に市街劇の新たな可能性を感じます。
■編集者としても才能を発揮した寺山
天井桟敷における寺山修司の活動はあまりにも多岐におよび、とても一講義のなかでは紹介しきれません。紙媒体を使っての活動も魅力的です。寺山は創刊まもない夕刊紙「日刊ゲンダイ」から毎週見開き2ページを与えられ、新聞内新聞ともいうべき連載「人生万才」を1976年から翌年にかけて責任編集しています。同連載では読者参加の企画が多く、市街劇の手法を新聞に応用したともいえるかもしれません。《寺山さんが編集者としても卓越していたことは、『学生証付女子大生ポルノ』とか、『あのインテリ美人はどうしている?』とか、その後の週刊誌が手がけた企画を先取りしていたことでもわかります》とは、当時のスタッフの一人で劇作家の高取英の証言です(長尾三郎『虚構地獄 寺山修司』)。
これに先立ち、天井桟敷の元メンバーだった萩原朔美と榎本了壱は、「ビックリハウス」という若者向け雑誌をパルコから創刊していました。萩原は、当時はさほど意識していなかったものの、後年振り返って、「人生万才」と「ビックリハウス」の企画に対する根本的な姿勢が合致することに気づいたと書いています。《寺山さんから受け継いだんだろう、と言われても反論出来ないほど似通っているのだ》(萩原朔美『思い出のなかの寺山修司』)。
演劇以外にもさまざまなジャンルに影響をおよぼした寺山修司。前出の「ノック」では、「コンピューターを使った質問」「有線テレビを用いた虚構の放送」という試みも行なわれました。演劇と異分野・異メディアとの融合にも熱心だった寺山が、はたしていま生きていたらどんなことをしていたのか、想像せずにはいられません。
(その3につづく)
(近藤正高)
寺山と離婚したのちも劇団の運営に従事した九條は、彼の没後にいたっても、作品の管理や記念館の設立などその遺志を次代へと引き継ぐため精力的に活動しています。もともとは松竹歌劇団(SKD)出身の女優で、美輪とは当時から親しくしていました。それを知っていた寺山は彼女に、天井桟敷の旗揚げ公演「青森県のせむし男」に際して美輪への出演交渉を任せます。ただ、このときの美輪の役は「醜悪の老女」というものでした。それだけに九條は困惑しながら美輪のもとを訪ねたものの、「面白いねえ、引き受けるわ」と快諾され、拍子抜けしたといいます。
天井桟敷の第3回公演となった前出の「毛皮のマリー」の上演前には、美輪とコシノの一件のほかにもトラブルがあいつぎます。舞台美術は、「天井桟敷」の設立メンバーでもあったイラストレーターの横尾忠則が手がけたものの、その美術装置が大きすぎて、劇場の搬入口から入らない。そこで演出の東由多加が小さく切って入れようとしたところ、横尾に見つかってしまいます。怒った横尾はそのまま降板、急遽美輪の家からアンティーク家具一式を運びこむなどして、装置をつくったそうです。
のちに「東京キッドブラザース」を設立する東由多加は、この当時まだ22歳の駆け出しの演出家でした。そもそも寺山が天井桟敷を結成するきっかけは、東由多加の言葉がきっかけだったといいます。東はそれ以前、早稲田大学の劇団「仲間」を主宰し、寺山の戯曲「血は立ったまま眠っている」を演出していました。これを観に来た寺山本人に、東は打ち上げの席で「寺山さん、絶対に劇団をつくるべきですよ。僕が『仲間』の連中も連れていきます」と興奮しながらすすめたそうです(九條今日子『ムッシュウ・寺山修司』)。
その言葉どおり、天井桟敷が設立されると東は仲間を引き連れて合流したのでした。そして旗揚げ公演から演出を任されたのですが、「毛皮のマリー」の初日直前、突然行方をくらまします。東はその少し前から、寺山や美輪の言っていることがわからないと九條に弱音を漏らしていました。まだ若く、寺山たちと10歳も離れた東はそうとう無理をしていたのでしょう。みんなが探し回るなか、彼は東京駅から「田舎に帰ります」と電話をかけてきます。それでも急いで駅に行った九條の説得で、どうにか劇団に戻ったのでした。
■虚構か、現実か? 「市街劇」という体験
本来は歌手である美輪明宏をはじめ、横尾忠則やコシノジュンコ、またべつの公演では音楽にイラストレーターの和田誠を起用したことなどからもうかがえるように、寺山は自分の劇団に、演劇という枠にとらわれずさまざまなジャンルから才能を集めました。そもそも当の寺山からして、天井桟敷以前より、気鋭の歌人・詩人・放送作家・評論家としてすでに脚光を浴びる存在でした。
60年代に登場した小劇場系劇団のほとんどが、大学の学生劇団か、新劇の劇団・養成所か、いずれかの出身者たちによるものだったのに対し、天井桟敷はまるっきり出自を異にしました。それだけに、寺山は一貫して、既存の演劇の枠組みを揺るがし続けることになります。
上演場所の選択からして、劇の内容に合わせてあれこれと変えたりしています。第2回公演「大山デブコの犯罪」は、新宿の寄席・末広亭に無理を言って舞台を貸してもらいました。劇団結成時に「見世物の復権」を標榜した寺山は、子供の頃に見た見世物小屋のイメージを寄席に投影したのです。
その後、1969年には劇団の拠点として渋谷に「天井桟敷館」が完成し、公演の大半はそこで行なわれるようになります。天井桟敷館はやがてはとバスのコースにもなりました。はとバスの客相手の公演はやがて打ち切られるのですが、これが画期的なアイデアを生みます。それは、バスで観客を運びこむのを逆手にとって、街のなかの日常に演劇を持ちこもうという、「市街劇」の構想です。その第一弾として、1970年には「イエス」(竹永茂生作・演出)と題する公演が行なわれています。このとき観客は、行き先がわからないようバスに乗せられ、とあるマンションにまで着くと、一組の夫婦の部屋に“不法侵入”します。突然の集団での来宅に抗議する夫婦に、観客は驚きや後ろめたさを感じつつ、最後の最後でその夫婦がじつは“演技者”だと明かされるという趣向でした。
ただし、市街劇の発想は、当時天井桟敷を観に来ていた学生運動の活動家たちから「劇場なんかで芝居をしてないで、街頭へ出るべきだ」と野次られたのがきっかけだとの説もあります(高取英『寺山修司 過激なる疾走』)。ともあれ、客席と舞台、劇場の内と外、虚構と現実と、演劇につきまとうあらゆる境界を乗り越えようとしていた寺山は、市街劇に大きな可能性を見出します。その最大の試みが、1975年に東京の高円寺・阿佐ヶ谷一帯で30時間にわたり、同時多発的に33カ所で上演された「ノック」です。観客はチケット代わりに地図を買うと、それを頼りに各所に移動し、そこに待ち受ける“事件”を体験しました。
上演プログラムのなかには、銭湯にいきなり俳優が観客とともに侵入するものがあったりして、近隣住民から苦情も出て、新聞などでは批判的に報道もされました。けれども「市街劇っていうのは、三面記事になるのが理想的」と以前から冗談で言っていた寺山にとって、もくろみ通りだったのでしょう。彼は1983年に47歳で亡くなるまで、もう一回、市街劇をやりたいと語っていたといいます(扇田昭彦と九條今日子の対談、『劇談』所収)。
昨年、東京・青山のワタリウム美術館で開催された「寺山修司展 『ノック』」では、「ノック」の全貌が紹介されていました(その開催を記念した本も刊行されています)。それを観ていて私が印象に残ったのは、たとえば、レストランでの客と給仕の役割を転倒させ、そこに来た観客は、出される注文にすべて従わなければならない、その名も「注文の多い料理店」というプログラムです。ほかにも、バスに乗った観客たちが目隠しをされ、車中にまぎれこんだ俳優から体験の共有を仕掛けられたあげく、遠方で置き去りにされるというプログラムがあったり、一般人相手にかなり手荒いことも行なわれたようです(笑)。そこで私がふと思い出したのは、「元気が出るテレビ」や「お笑いウルトラクイズ」「電波少年」、さらに「笑ってはいけないシリーズ」へといたる日本テレビのバラエティ番組でした。まあ、これら番組で過酷な体験をさせられるのはタレントで、一般人ではないというのが大きく違いますが。
寺山の没後、肝心の演劇の世界で大規模な市街劇を展開した例を、私は寡聞にして知りません。とはいえ、最近たまたま『小豆島にみる日本の未来のつくり方』という本を読んでいたら、こんなケースが紹介されていました。
それは柴幸男が主宰する劇団「ままごと」の香川県・小豆島における活動です。ままごとは、島内の民家を訪ねて劇を上演しているほか、「おさんぽ演劇」を謳った「赤い灯台、赤い初恋」という公演では、観客は案内役に引率されながら島内のあるエリアを歩いて巡ります。そのなかで劇団員の演じる案内役は、「自分はこの島で生まれ育ちました」と宣言してから、島の人たちから聞いたエピソードを織り交ぜながら、嘘とも本当ともつかない話をするのだそうです。ある日の公演では、途中で偶然通りがかったおばあさんが割り込んできて島の昔話を始め、案内役が「そうですね、僕の小さい頃は……」などと話を継ぐということもあったとか。
天井桟敷の市街劇が、現実のなかに虚構を投入するものであったとすれば、ままごとのおさんぽ演劇は虚構を呼び水に現実を引き出した、とでもいえるでしょうか。寺山とは方向性は違うとはいえ、私は柴たちの活動に市街劇の新たな可能性を感じます。
■編集者としても才能を発揮した寺山
天井桟敷における寺山修司の活動はあまりにも多岐におよび、とても一講義のなかでは紹介しきれません。紙媒体を使っての活動も魅力的です。寺山は創刊まもない夕刊紙「日刊ゲンダイ」から毎週見開き2ページを与えられ、新聞内新聞ともいうべき連載「人生万才」を1976年から翌年にかけて責任編集しています。同連載では読者参加の企画が多く、市街劇の手法を新聞に応用したともいえるかもしれません。《寺山さんが編集者としても卓越していたことは、『学生証付女子大生ポルノ』とか、『あのインテリ美人はどうしている?』とか、その後の週刊誌が手がけた企画を先取りしていたことでもわかります》とは、当時のスタッフの一人で劇作家の高取英の証言です(長尾三郎『虚構地獄 寺山修司』)。
これに先立ち、天井桟敷の元メンバーだった萩原朔美と榎本了壱は、「ビックリハウス」という若者向け雑誌をパルコから創刊していました。萩原は、当時はさほど意識していなかったものの、後年振り返って、「人生万才」と「ビックリハウス」の企画に対する根本的な姿勢が合致することに気づいたと書いています。《寺山さんから受け継いだんだろう、と言われても反論出来ないほど似通っているのだ》(萩原朔美『思い出のなかの寺山修司』)。
演劇以外にもさまざまなジャンルに影響をおよぼした寺山修司。前出の「ノック」では、「コンピューターを使った質問」「有線テレビを用いた虚構の放送」という試みも行なわれました。演劇と異分野・異メディアとの融合にも熱心だった寺山が、はたしていま生きていたらどんなことをしていたのか、想像せずにはいられません。
(その3につづく)
(近藤正高)