電話の声は、普段よりも高くなりがち。

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筆者は仕事柄、取材テープなどで自分の声を耳にすることが多い。そして、思う。「自分の声、やたらと高いな〜」。基本的に人見知りな性格の筆者であるがゆえに、初対面の取材対象者にはやたらと気を遣い、緊張もしてしまう。そして……。情けないやら恥ずかしいやら、カン高い声がナチュラルに出てしまうのだ。

「僕の声って、高いのでしょうか?」と妻に問うてみたところ、「いや、むしろ低い」との回答を得た。普段、自分の声の高さを気にして生活することはまずないのだが、たしかに、いわれてみると、家族と話すときの声は低い。ズシっと重低音。思いのほか、ジョン・カビラ風だ。

このジョン・カビラサウンドが、なぜ取材時にはああも高音な二丁目的オネエサウンドとなってしまうのか。「取材のときだけじゃなく、気を遣う相手に“よそゆきの声”で話すとき、声が高くなるよ」とは、前出の筆者妻。ふむ。たしかに。たとえば、妻の親。筆者にとって義理の親と話すときなどにも、筆者の声はオネエと化す。

上司や先輩と話すとき。取引先の人と話すとき。仕事絡みの人と話すとき。面接のとき。面談のとき。気を遣う相手と話すとき。関係が浅い人と話すとき。そんなとき、よそゆきの声を使う。これは何も、筆者に限ったことではないだろう。

そして、よそゆきの声は、得てして高い声ではないだろうか。母親が、家の電話に出たときの声などは、よそゆき声の好例といえよう。普段はバリトンヴォイスな母親の声が、一転、麗しきソプラノボイスになる。そんな光景を目の当たりにした経験のある読者も多いのでは。

ではなぜ、よそゆきの声は高くなるのだろうか。既出コネタ「おばさんたちの『よそゆきの声』って、なぜ高くなるの?」も参照にしてもらいつつ、まず、声を出すメカニズムから見ていこう。人間は、肺からノドにある声帯へと空気を送り、これを振動させることで音を発している。そしてこの音が、鼻や口につながる「共鳴腔」と呼ばれるスペースで響きを増し、さらに口の形に伴う「フォルマント」と呼ばれる周波数の変化によって言葉が加わって“声化”する。

声の源となる音が発生する、声帯。この声帯を強く閉めることによって、高い声は生まれるのだという。そして、声帯を強く閉めるためには、声帯を支える筋肉を緊張させる必要がある。つまり、目上の人や初対面の人など、気を遣う相手と話す際に緊張することで、声帯を支える筋肉も緊張し、声帯が強く閉まり、高い声になるということのようだ。

ただ、たとえば韓国では、目上の人と話すときに、声が低くなる傾向にあるともいわれている。緊張することで自然と声が高くなってしまうのだとすれば、日本人は目上の人や初対面の人などに対し、ことさら緊張を感じてしまう国民性なのかもしれない。

日本には、公式な場やフォーマルな場、つまりは“よそゆきの場”で、高い声が用いられる文化があるとも考えられる。たとえば神社の祭礼での祝詞や、年頭に宮中で行われる歌会始なども、聞いてみると実に声が高い。よそゆきの声が高い声なのは、日本の伝統なのかも。

筆者としては、どんなときも落ち着いた声で話せたらいいなと思う。だが、相手を気遣い、緊張して出してしまう高い声ならば、聞いている相手としても不快には感じないかもしれない。むしろ、無理してジョン・カビラサウンドで話した方が不自然に思われそうだ。

人には、その人に合った声が自然と備わっているのかもしれない。緊張しいで気を遣いがちな筆者には、緊張して高くなっていることが丸わかりなよそゆき声がピッタリなのだろう。と、用事があって実家に電話をすると、母親が出た。「はい〜↑、もしもし〜↑」。高い高い、母親のよそゆき声。う〜ん。親子だなあ。
(木村吉貴/studio woofoo)