「月9」はトレンディドラマの代名詞、では「金曜8時」と言えば? かつて視聴率64%を叩き出した“伝説の枠”を振り返る
伝説の「金曜8時」
2013年1月、トップアイドルだった渡辺麻友(AKB48)は言った。
「プロレス中継というもの(自体)を知らなかったので。それが凄くビックリしました」
【写真で見る好勝負】高視聴率に貢献した「初代タイガーマスクvs小林邦昭」の名場面
世代間ギャップがテーマのバラエティ番組でのことだった。司会の今田耕司がかぶせる。
「もうゴールデンでやってないもんね。金曜夜8時と言えばプロレス中継だったんよ、ずっと」(フジテレビ「ジェネレーション天国」)
余談ながら、プロレス中継が金曜夜8時からの放送でなくなった当時、筆者が相当数の友人に言われた言葉はこうだった。
「プロレスって、終わったの?」

実際には放送曜日が移行しただけだったし、件のプロレス中継「ワールドプロレスリング」(テレビ朝日)は現在も続いている。来る10月12日(月・祝)には、夜11時15分から全国ネットでの特番も組まれており、勢いも感じさせる。だが、上記のやり取りに見られるように、“金曜夜8時”の威光は、今もって強い。初代タイガーマスク、猪木vsはぐれ国際軍団、藤波と長州の抗争etc……未だありありと思い出せる読者も多いだろう。
今年は1986年9月に“金曜8時”の「ワールドプロレスリング」放送が終了してから、40年という節目となる。果たして、“金曜8時”のプロレス中継は、なぜ終了したのか? その背景と原因に迫りたい(文中敬称略)。
金曜夜8時の黄金期
テレビ朝日によるプロレス中継番組「ワールドプロレスリング」は、1969年7月にスタート。当初は日本プロレスを放映していたが、同団体の弱体化により、73年4月より、新日本プロレスに鞍替えした。現在、テレビ朝日では2番目の長寿番組となっている(最古は「題名のない音楽会」。1964年~)。しかし、この2番組を遥かに遡るのが、“金曜夜8時のプロレス中継の歴史”なのである。
1958年、隔週の金曜夜8時に日本プロレスの中継がスタートした。放送局は日本テレビだったが、72年5月に放送を終了。するとその時間帯に、テレビ朝日が「ワールドプロレスリング」を移動させたのだ(それまでは毎週月曜夜8時の放映)。いかに「プロレスと言えば金曜夜8時」のイメージが視聴者に浸透していたかがわかる。なにせ、日本で放送されたテレビ番組の歴代視聴率4位(64.0%)の力道山vsデストロイヤーも、視聴率51.2%の豊登vsデストロイヤー(1965年。歴代35位)も金曜夜8時に放映されているのだ。
そして1980年代前半、「金曜夜8時のプロレス中継=新日本プロレス」は黄金期を迎える。好勝負はもちろん、会場から生中継できるという利点もあり、創始者であるアントニオ猪木の言葉ではないが、「一寸先はハプニング」を地で行き、「これからどうなるんだろう?」と、視聴者を釘付けにした。
小林邦昭による初代タイガーマスクのマスク剥ぎ(22.2%)(括弧内は視聴率、以下同)。抗争の最終決着戦として、猪木とはぐれ国際軍団(ラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇)の1vs3のハンディキャップマッチ2連戦(25.9%※2戦目)。ハルク・ホーガン相手の、猪木の失神KO負け(23.6%)、藤原喜明による、長州力へのテロ襲撃(17.2%)etc……。翌日は土曜日で、小学校では授業が半日ある時代だった。教室後方での“プロレスごっこ”の思い出含め、学校で話題にした子供たちも多かったのではないか。
放送日変更の理由
しかし、その熱狂から3年も経ないうちに、新日プロにテレビ朝日からの非情な通告が届く。
「『ワールドプロレスリング』は、1986年10月より、毎週金曜夜8時の放送から、毎週月曜夜8時の放送とする」
この一報が噂として流れたのは、同年5月の1週目。怪情報の類いに過ぎぬと当時は思っていたが、後年、関係各位に取材を重ねたところ、この時期には既に内定していたようだ。となれば、その直近、半年間の視聴率は芳しくなかったのか……。
先ず、前年の85年10月から12月まで、3ヵ月間の「ワールドプロレスリング」の平均視聴率を見てみると、14.5%。黄金期に比べれば良い数字ではないが、当時はブルーザー・ブロディをエース外国人にプログラムを組んでおり、期間中に2度おこなわれた猪木とブロディの一騎打ちは、いずれも視聴率15%を超えていた。
ところがブロディがこの12月を最後に、新日本プロレスから離脱(※1)。ちょうどその時期、新日本が提携したのが前田日明、藤原喜明らを擁す、元第一次UWF軍団で、翌年1月からはこちらとの抗争が柱になった。すると、平均視聴率は12.3%に下がってしまった(1986年1月から3月までの平均)。首都圏では圧倒的な人気を誇り、後の団体、第二次UWFではブームを巻き起こしたUWF軍団だが、鋭いキックと高度な関節技に裏打ちされたその格闘性の高さは、少なくとも茶の間受けはしなかったのである。独立団体として稼働していた第一次UWF時代の、前田日明のこんな述懐も甦る。
「東京の後楽園ホールでは満員になっても、地方に行くと客入りは散々。山口県の荻でやった時なんて、20人も客がいなかった」(※2)
しかし、この数字だけでUWF軍団が放送曜日変更の戦犯とは言えない。というのは、同時期の「ワールドプロレスリング」のメインは、あくまで猪木組vs外国人組のタッグマッチだったのである。この外国人勢がビリー・ジャックや新顔のマッド・マックス1号&2号という、ピンと来ない面々であったことにも原因がある。
4月に入ると、3回の放送中、視聴率が2桁を割ってしまう日が2回出る。実はこの後、6月の藤波辰巳vs前田日明は15.3%、IWGP決勝戦(猪木vsディック・マードック)は15.5%と気を吐くのだが……。
その一方で不思議なのが、テレビ朝日のスタンスだ。例えば1980年4月~9月の「ワールドプロレスリング」の平均視聴率は12.7%である(※プロ野球などの影響で深夜に放送された3回の視聴率除く)。この時は放送曜日を移動するなどという話は、全く出て来なかった。実は、テレビ朝日側の変化もあったのである。後年の関係各位への取材をまとめる。
・1986年5月に、社屋を六本木(アークヒルズ)に移転。新日本プロレスの本社も、こちらのビルに入った。
・(移転後の)月曜夜8時からでも、テレビ朝日が「ワールドプロレスリング」に払う放映権料は変わらない(※1番組、推定1400万円前後)
・それまでの月曜は、夜7時からの2時間ドラマが放送されていたが、視聴率が思うようにとれておらず、また、番組が長尺であることからスポンサーが付きにくく、1時間番組2つの体制にしようと案が進んでいた。
金曜日にたちはだかった「あの番組」
放送日移転が明らかになった1986年5月の上旬、猪木と坂口征二がテレビ朝日を訪れ、金曜夜8時の堅守を求めている。猪木は他局への(番組の)移籍もちらつかせたようだが、テレビ朝日内に新日本プロレスが引っ越した直後では、まるで説得力がなかった。テレビ朝日はソフトとして「ワールドプロレスリング」を自由に扱える立場だったし、逆に見れば、「新日本プロレスの面倒は一生、テレビ朝日が看る」という厚い恩情措置でもあるからだ。
更に重要なのが、金曜夜8時の、強力な裏番組の存在であった。伝説の「太陽にほえろ!」(日本テレビ)である。「太陽にほえろ!」は石原裕次郎を中心に配した刑事ドラマで、新日本プロレスに先立つこと9カ月前の1972年7月より放映開始。当時の筆者はプロレスにしか興味がなかったので知らなかったが、79年7月20日放送回では視聴率40.0%を達成。前掲の、「ワールドプロレスリング」の平均視聴率が12.7%の時期、「太陽にほえろ!」は22.7%だった(※1980年4月~9月)。到底太刀打ち出来ぬほどの、巨大な壁だったのである。
ところが、風向きは変わる。1981年4月に初代タイガーマスクがデビューし、その1回目の放送(5月1日)が流れると視聴率は18.3%と急上昇。その後も“タイガー効果”で視聴率は高めを維持し、10月9日、望外の時が訪れる。この日の放送の視聴率が20.5%を記録し、裏の「太陽にほえろ!」(18.2%)に初勝利したのである。カードは前日に行われた猪木vsラッシャー木村で、11月6日にも再戦し、こちらも22.2%と「太陽にほえろ!」(17.1%)に圧勝。12月末までの放送で計5回、「太陽にほえろ!」を上回ったのだ。
からくりはあった。この年の5月29日放送分より、「太陽にほえろ!」は“ボス”、石原裕次郎が、長期入院により不在に。視聴率が下がり始めていたのだ。ただ、“裕ちゃん人気”はレベルが違い、闘病を終えて「太陽にほえろ!」に復帰した際は27.2%(12月25日放送分)と、80年代全体でも「ワールドプロレスリング」が到達出来なかった視聴率を達成している。
だが、「こんばんは」の挨拶とともに新日本に参戦して来たラッシャー木村率いる「はぐれ国際軍団」、そして初代タイガーマスクの活躍により、「太陽にほえろ!」は勝てぬ相手ではないことが判明したのである。その後も「ワールドプロレスリング」は高視聴率を連発。1983年3月3日には、この功績により、テレビ朝日から表彰されている。
しかし、同年8月には初代タイガーマスクが引退。翌年9月には人気を博した長州力ら“維新軍団”も退団。全日本プロレスに主戦場を移した。視聴率は漸減し、放送曜日の移動となったのは述べて来た通りだ。当時の「ワールドプロレスリング」ディレクターの、示唆に富む一言がある。
〈金曜夜8時って営業的に“商売になる”時間帯なんですよ。極端にいえば、番組の中身がわからなくても、曜日と時間でスポンサーと広告会社が興味を示すということです〉(岡田一成。朝日新聞出版『ワールドプロレスリングの時代 金曜夜8時のワンダーランド』より)
「太陽にほえろ!」を追撃する威勢の衰えた「ワールドプロレスリング」を1時間枠が望まれる月曜に移し、どんな内容でもスポンサーが飛びつく金曜夜8時を空けさせ、新番組で勝負したいといったところではなかったか。
だがしかし、皮肉な結末が待っていた。1986年10月、「ワールドプロレスリング」が月曜夜8時からの放送になった翌月、「太陽にほえろ!」が突然終了(11月14日)。理由は石原裕次郎の体調不良による、撮影続行困難というものだった(裕次郎は翌年永眠)。なお、金曜夜8時の後発番組は現在も続く「ミュージックステーション」だが、初期の視聴率は散々。3%台を記録することもあったことを付記しておく。
番組を支えたアナウンサー
前出の書籍に出て来た岡田ディレクターは過去、「ワールドプロレスリング」実況アナに言われた言葉が忘れられないという。
「ねぇ岡田さん。僕らはいつか『太陽にほえろ!』に勝って、局内の廊下の中央を、胸を張って歩きましょうよ、ね」
1977年に実況デビューした古舘伊知郎だった。彼の“過激な実況”の力もあり、その宿願は半ば達成され、1984年に古舘はテレビ朝日を退社してフリーに。しかし「ワールドプロレスリング」実況は、月曜夜8時に移行しても続けた。古舘は中学生時から、その「格闘ロマン」に魅せられた、強靭な猪木信者だったのである。リングにかぶりつきで実況する身としては、常に視聴者を驚かせ、ハプニングを是とする猪木の考え方も、最高に刺激的だったのだ。
しかし、古舘も1987年3月を最後に「ワールドプロレスリング」を卒業。4月から同番組が火曜夜8時の放送に移り、それまで同枠で放送されていた「ビートたけしのスポーツ大将」を引き継ぐことになった。それにより、内容もバラエティ番組化するとしたからと、本人が理由を明言している。
〈スタジオものとの合体でプロレスを構成するという。ボクは一時間まるごと体育館からでなかったら嫌だと言った〉(「週刊文春」1992年2月13日号)
〈私の愛したプロレスが、バラエティ番組になるという。他の番組でなら、私はよろこんで(中略)オチャラケを演じるだろう。しかし、プロレスでそれはできない〉(「週刊プレイボーイ」1987年4月21日号)
それは、誠心誠意、プロレスの魅力が伝わるよう実況し、時には強大な裏番組打倒にも携わって来た、古舘なりの矜持も含まれていたのではなかったか。バラエティ化した「ワールドプロレスリング」の初回放送の平均視聴率は5.7%と、それまでの最低の数字を記録した(※3)。
古舘の地上波プロレス実況復帰は2度。1988年8月8日、猪木が引退をかけた藤波戦と、1998年4月4日、その猪木の引退試合だった。
往時の実況とともに、「闘魂の語り部」として、今も深くファンの心に刻まれている。
※1:翌年9月にワンマッチ復帰し、その後の契約もあったが、こちらは反故にしている。
※2:1984年10月13日。山口県荻市体育館。主催者発表の観客動員数は1800人。
※3:1987年4月7日(火)夜8時~。「ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング」放送分。
瑞 佐富郎
プロレス&格闘技ライター。早稲田大学政治経済学部卒。現在、10数冊目の近著「10・プロレスのいちばん熱い日」(スタンダーズ)が重版出来中。
デイリー新潮編集部
