「撃たれる、と覚悟しました」「テロリストの車に押し込まれて」マラリア感染で死を覚悟したことも…戦場カメラマン・渡部陽一(54)が何度も“命の危機”を乗り越えられたワケ
〈「目の前で人が殺され、失禁してしまった」「自分は死ぬのかも、と…」戦場カメラマン・渡部陽一(54)が乗り越えてきた、いくつもの“死線”〉から続く
取材先でマラリアに感染し、イラク戦争の現地では砂漠でギャングのような謎の男たちに銃を突き付けられ……戦場カメラマンの渡部陽一さんは、これまで何度も命の危機を乗り越えてきた。
【衝撃】マラリアに罹患した際の写真や、戦地でのショットなどをじっくり見る
これまでのエピソードとともに、常に死の危険と隣り合わせにある仕事を続ける中で貫いている「仕事の流儀」を聞いた。

マラリアに罹患したこともあるという渡部陽一さん ©釜谷洋史/文藝春秋
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気絶を繰り返しながら、「ああ、自分は死ぬのかも」と涙
--日本にいるとあまり想像もつかないですが、マラリアにかかるとどんな症状が?
渡部陽一さん(以下、渡部) ジャングルの中にあるコテージで、蚊帳で寝ていたのですが、羽虫が大量に飛び交っていたんです。予防薬も高かったので飲んでおらず、殺虫剤も効き目がない状態で数日過ごしたら、異変が起こったんですね。頭が割れるほどの痛みに、39度以上の熱が出て、呼吸もままならない。解熱剤や鎮痛剤も効かずに、意識が朦朧としていきました。
それから難民キャンプに運ばれ、医師から「熱帯性マラリアに感染しているから、万が一のことも考えておくように」と。この時は「ああ、自分は死ぬのかもしれない」と涙が出てきては、激痛の中で何度も意識を失いました。
結局、医師が現地の闇市で購入した抗マラリア剤を服用し、その場では一命を取り留めました。が、成田へ向かうフライトでも再発して、日本に着いた頃には意識を失い、成田赤十字病院で入院もして。無事に退院できたのですが、当時は国内でマラリアの治療薬が手に入りにくかったので、いまでも僕の肝臓には原虫が潜伏している可能性があると言われています。
そうした経験を重ねていくと、当然ですが健康への意識も変わりますし、現地での処世術も身に付きます。予防接種など医療面への意識に、寝床や食料の確保の仕方などのノウハウを現地で会得していくんです。
--写真を撮るだけが戦場カメラマンの仕事ではないんですね。
渡部 駆け出しの頃は、とにかく長く滞在していたので、現地に住んでいるような感覚で雑な部分もありました。体力も有り余っていて、若さゆえの無鉄砲なところもありましたから。ザイール、ルワンダ、ブルンジ、ウガンダ、ナイジェリア、マラウイ、モザンビーク……。カヌーでジャングルを移動したり、マラリアに罹患したり、葉っぱをテントにしたりと、アフリカでの生活は間違いなく僕の土台になっています。
今はもう家庭もあるので、とうていあんな無茶な暮らしは出来ないですが(苦笑)。
「ゆっくりとした喋り方」は戦場取材での“生存戦略”
--何度も戦場に行った際、現地ではどのように過ごされていたのでしょう。
渡部 20代から30代前半までは、取材のノウハウやコネも今より全然なかったので、とにかく滞在して現場勘を磨くことを意識しました。
そこでお世話になったのが、格安のゲストハウス。大体どの地域でも、20代の絵描きやミュージシャン、ジャーナリストの卵が、ビザが切れるまで滞在しているんです。
そこで誰かが買ってきた、地元の5ドルぐらいの格安ウイスキーをちびちび飲みながら交流するうちに、現地の生々しい日常に触れることができて、結果的に取材に生きる情報や知恵につながっていくんです。タクシーの値段交渉や、ヒッチハイクのやり方、光熱費を抑えられる調理方法、宗教上のタブーなど……。情報交換を重ねて、現地で実践してみることが、戦場を渡り歩く血肉になりました。
--戦場だけじゃなく、現地で過ごす期間も大事になると。
渡部 戦場取材は、現地入りして、すぐ写真を撮れるわけではないんです。そもそも戦場報道とは「待つ」ことが仕事みたいなものです。ジャーナリストの間では、戦局が一気に動き出した状態を「弾ける」と言いますが、この緊迫する状況は突然訪れるんですね。
その瞬間を捉えるために、拠点近くの激安ゲストハウスに何ヶ月も潜り込みながら、情勢が動くのを待つ。その間に、現地民や避難民の食事、宗派、言語、季節の変化、インフラの確保の仕方などから、地域柄を掴んで、どうやって取材を組み立てようか考えるんです。
--ちょっと意外です。
渡部 ある意味、人々の暮らしを追うこと自体が取材になる。相手から連絡先や名刺を交換できたら、取材はある程度クリアしたと言っても過言ではありません。だからこそ、現地での人間関係づくりが大切なんです。ゲストハウスをはじめ、知り合った世界各国の人とじっくり会話しようとすると、自然と話し方がゆっくりになるんですよね。
--渡部さんと言えばゆっくりとした喋り方が特徴ですが、そんな経緯があったんですね。
渡部 もともと性格も穏やかと言われることが多くて、喋り方もおっとりしていたのですが、より拍車がかかっていった感覚です(笑)。
「心が壊れた」イラク戦争で味わった危険とは?
--戦場では、危険な目に遭う機会も多いかと思います。命を守るために意識していることはありますか。
渡部 ガイドや通訳などと、基本は4人以上で前線を移動するのですが、このチーム編成や連携が取材の成果を左右します。戦場カメラマンという仕事において、最も大切なのは危機管理で、取材は二の次。現地で過ごす労力を10とするなら、8割は危機管理で、残りの2割が戦場に降り立ってからの取材や撮影技術です。
それを痛感したのが、2003年のイラク戦争でした。
--過去に出演された番組で「心が壊れた」とおっしゃっていた取材ですね。
砂漠でギャングに銃を突き付けられ……
渡部 当時はバグダッドが陥落して、サダム・フセイン元大統領が逃亡していた時期。我々は捜索取材を兼ねて、フセインの故郷であるティクリートを取材している最中でした。
そこで取材を終え、バグダッドに戻る最中の砂漠で、突然シボレーが我々の車に横付けしてきたんです。直後に窓を下ろして、ギャングみたいな男がこちらに自動小銃を向けている。この瞬間、流石に「終わった」と思いました。
その時、ティクリートなどスンニ派の多い地域では、旧政権側の人間や反米武装勢力が活動して、米軍や外国人を狙う襲撃が相次いでいました。僕自身はアジア人だと一目で分からないよう、シュマーグ(アラブ圏で使われる頭布)で顔を隠して、現地人に変装していたのですが、それでも相手に怪しまれた。直前にも同じルートで、日本人外交官が2人殺害されており、このまま撃たれるのだと覚悟しました。
--想像もつかないほど、緊迫した状況ですね……。
渡部 ただ、そこで同行していたガイドが、機転を効かせてくれたんです。
--ガイドさんはどんな行動を?
渡部 私たちがティクリート出身で、フセイン元大統領を支持するスンニ派側の人間といった趣旨を伝え続けてくれたんです。そのおかげで、撃たれずに済みました。このように同じチームに、スンニ派やシーア派の方などを配置して、局面によって交渉役を切り替えたりするんです。
結果的に、フセインが発見された時に一報を出すことができましたが、その過程でかなり危険な橋を渡っていました。当時は僕も30歳ぐらいで、野心があったのでリスクを取りましたが、いま思えば到底できないなと思うやり方でした。
--フセイン発見のニュースを、渡部さんが伝えた映像は有名ですが、そんな裏話があったんですね……。
渡部 翌2004年にも、イラクで取材中に突然後ろから首を絞められ、テロリストの車に押し込まれたことがありました。この時も、ガイド兼ボディーガードとして働いてもらっていたメンバーに助けられました。彼はフセイン政権下で、特殊部隊の元兵士だったので、戦場での立ち回りを熟知していました。
それからイラク戦争の時は、BBCやCNNをはじめメディアが殺到していたのですが、情報交換していると「検問を越えられなかった」という声が多かった。聞けば、検問で声をかけてきた人がスンニ派だったものの、チームにはシーア派の人しかいなかったので追い返されたそうです。
あの時のバグダッドでは、スンニ派やシーア派の勢力が入り乱れて、情勢が目まぐるしく変わっていった。あくまでも僕の経験則ですが、イラクを構成する民族や宗派の比率を、そのままチーム編成に反映する必要があったんです。
トレードマークのベレー帽に隠された「秘密」
--本当に、命を落としても不思議ではない状況が日常なんですね。
渡部 戦場で過ごしていると、自ら前線に近づいていくというより、気づいたら戦争に巻き込まれているという感覚なんです。つまり、戦場に突っ込んでいくというより、パパッと写真を撮ってその場から離れる。そうして撤退する際、ガイドや通訳なくしては戻れないことも多々あります。
取材中も、ガイドさんに「これ以上先へ入ってはいけない」と言われたら、必ずそれに従う。取材を欲張らずに引く勇気を持つことで、怪我をせず日本に戻ることができる。こうした匙加減も、駆け出しの頃に失敗を重ねてきた経験があったからこそですね。
--渡部さんと言えば、ベストにベレー帽がアイコンになっています。実際に、戦場でも同じような格好をされているんですか?
渡部 はい。このベレー帽は、妹からもらったもので、お守り代わりとして30年近く使っています。昔はもっと大きくてふわふわしていましたが、洗濯ネットに入れて破れないよう丁寧に洗っているうちに縮んでしまいました。でも生地が締まって丈夫になるし、意外と長持ちするんです(笑)。
それからカメラベストですが、同じものを10着持っています。ポケットがたくさんあるので、バッテリー、フィルム、レンズ、食料、パスポート、メモ帳とペンが全部持ち運べて、取材の機動性が格段に上がるんです。
--同じものを10着も! やはりこだわりがあるのでしょうか。
渡部 いえ、そこまでこだわりはないですよ。現地のブラックマーケット、いわゆる闇市で安くカメラベストを購入していたというのが大きいです。
アフリカのように、かつて欧米の植民地だったエリアでは、欧米から流れてきた古着が、現地の市場に大量に並んでいたんです。1990年代当時だと、日本円にして古着が1着5円とか10円ぐらいで売られていて。
--そんな安いんですね。
渡部 カメラベスト以外も、Tシャツやジーンズなども現地調達していましたね。そうすれば荷物も軽量化できて、手ぶらで動けますし、荷物が少ないと検閲でも止められにくくなる。若い頃は、数ヶ月単位で戦地にいたので、とにかく節約しながらの生活でした。(つづく)
〈「戸惑いは、ありました」テレビで引っ張りだこの日々から15年…『戦場カメラマン』渡部陽一(54)の現在〉へ続く
(佐藤 隼秀)
