「自宅の焼け跡」を勝手に他人に転売され…20歳の女性が「露店と行商」で土地を取り戻すまでの苦労
25年前のある日、写真専門誌の仕事で東京の街を撮影していた筆者は1人の暦売りの女性と出会った。大正15(1926)年、京橋で生まれその地で育ったという女性は、戦前、戦中、戦後の東京の変遷をその目で見てきた生き字引のような人だった。そんな彼女が筆者に見せてくれた写真に秘められた物語とは--。
【前編を読む】日本橋の「暦売り」女性が見せた1枚の写真…「朝日・毎日・読売」を渡り歩いた半生
京橋の自宅が空襲で焼失
戦争はますます激しくなり、戦況が日に日に不利になってゆくのは、新聞社に勤めていれば手に取るようにわかる。やがてサイパン島、テニアン島が米軍の手に落ちると、大型爆撃機・ボーイングB-29による本格的な日本本土空襲が始まった。
昭和20年1月27日、銀座、有楽町、京橋など都心の商業地が、初めて大規模な空襲を受けた。このとき、出撃した76機のB-29は中島飛行機武蔵製作所(杉並区)を目標にしたが、相模湾上空で針路を変えて西から東京へ侵入したところ、当時はほとんど知られていなかった日本上空の強いジェット気流のためにスピードがつきすぎ、大半が目標変更を余儀なくされたともいわれる。
工場の爆撃が目的のため、この日のB-29は焼夷弾ではなく通常の大型爆弾を搭載していた。この空襲による死者は539人、負傷者は1000人を超え、被災した建物は1200棟を超えたと記録されている。京橋の國友さんの生家もこのとき焼失した。
「空襲で焼け出されて、それで千葉の父の実家に避難して、そこから省線(現・JR)に乗って東京の新聞社に通いました。でも、空襲が続いたせいで写真電送の学校にも行けなくなっちゃって。そうこうしているうちに8月15日、戦争が終わって……」
冒頭に掲げた1枚の写真は、終戦後ほどなく撮影されたものである。
終戦直後、國友さんに思わぬ災難が降りかかった。京橋の自宅の焼け跡が、何者かによって勝手に占拠され、転売されていたのだ。しかも兄が結核に罹り、東村山の療養所(保生園-現・新山手病院)に入院したために、その治療費も稼がなければならなくなった。
「このあたりは一面の焼野原になっていて、知らないうちにここの土地を全部他人にとられちゃったの。それで、持ち主だという人に、あなたがたがここを買うのに使ったお金は払いますから返してくださいと。土地を買い戻すのと、兄の治療費のために、新聞社に勤めながら休みの日は露店を始めました」
新橋や千葉の稲毛で商売をした、というから、闇屋のようなこともしていたのだろう。稲毛には復員局が設置され、出征した将兵の行方を尋ねにくる家族たちに、浜辺でとれるアサリがよく売れたという。
戦争に翻弄された若き日の、淡い恋の思い出
--ここまで話して、國友さんはもう1枚の写真を筆者に見せてくれた。国会議事堂をバックに並ぶ5台の大型オートバイと6人の青年。新聞各社の「連絡員」と呼ばれたオートバイ部隊である。取材現場から、原稿や撮影済みのフィルムをいち早く社に届けるのが彼らの仕事で、プレスドライバーのはしりといえる。当時のことだからヘルメットなど誰もかぶっておらず、なかには半ズボンの者や、戦時中のように長ズボンにゲートルを巻いた者もいる。当時は「連絡員」と「伝書鳩」とが、現場と新聞社をつなぐ有力な通信手段だった。
「私の好きな人が写ってるの。これはね、昭和21(1946)年だと思う」
と、國友さん。右から2人め、ネクタイ姿の人物が、國友さんが好きだった毎日新聞の連絡員「パンちゃん」こと「セキジマ」さんだという。
「ほんとうはその前に好きな人がいて、『クラバヤシ』さんって朝日の連絡員だったんだけど、1月27日の空襲で朝日新聞社と日劇の間に爆弾が落ちて(現在の有楽町マリオンの場所)、朝日の1階の真ん中にあった連絡員室にいた彼が死んじゃった。それで落ち込んでる私を力づけてくれたのがパンちゃんだったの」
パンちゃんも満更ではなかったのだろう。あるとき、「オートバイの後ろに乗るか?」と誘ってくれたことがあったが、國友さんは世間体を気にして断った。やがて國友さんは京橋の土地を取り返すために母と行商をするようになり、新聞社を辞めたことでパンちゃんとの接点も途切れた。戦争に翻弄された若き日の、淡い恋の思い出である。
1枚の写真といえども
國友さんは、母と2人で背負子を負って、行商に明け暮れた。食糧も物資も乏しく、金があってもものが買えない時代だったこと、終戦直後のハイパーインフレと新円切換で物価が暴騰したことが、國友さんにはむしろ幸いした。土地の所有権を主張する相手が建築費の高騰に音を上げ、建物が建てられなくなって売却に応じたのだ。物価の上昇に対して、焼け跡の土地の値段はまだ安かった。昭和21年、國友さんがまだ20歳の頃のことである。
「その頃を思えば、東京の街もずいぶん変わったわねえ」
感慨深げに國友さんはつぶやいた。
筆者はその後も一度、國友さんから電話を受けて自宅を訪ねている。だが、やがて國友さんからの連絡はプッツリと途絶え、あるとき娘の史子さんから、國友さんが2017年、91歳で亡くなっていたことを知らされた。
日曜日の日本橋で偶然出会った暦売りの女性は、東京の中心地である銀座、京橋、日本橋の生き字引のような人だった。そして、彼女が私に見せてくれた2枚の写真は、数々のドラマを秘めた歴史の証言者でもあった。
いまとなってはもっと話を聞いておくべきだったと悔やむばかりだ。
戦後81年、いまや戦争を体験した人も数少なくなった。ともすれば「後期高齢者」と一括りにされる世代だが、この人たちは例外なく、令和を生きる戦後世代の想像が及ばない経験を積んできている。もし身近におじいちゃん、おばあちゃんがいるなら、ぜひ話を聞き、できれば写真を見せてもらった方がいい。
人にはその人だけが見てきた世界があり、その人しか知らないことが必ずある。人が亡くなるのはそんな記憶の一切までもが消えてしまうということだ。そう考えれば、たった1人の人生、1枚の写真といえども徒(あだ)や疎かにはできない。
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