(※写真はイメージです/PIXTA)

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退職金が入ったら、まず住宅ローンを完済したい」。長年ローンを払い続けてきた人ほど、そう考えるかもしれません。ところが、「借金がなくなる安心」と「老後のための現金を手元に残す安心」は別物です。夫を突然亡くした61歳女性が悔やんだ、3年前のある決断とは――。FPの三原由紀氏が解説します。

新築戸建てを購入、住宅ローン返済は順調だった

「繰上げ返済なんて、しなきゃよかったんです」

そう話すのは、夫を亡くした佐藤智子さん(仮名・61歳)です。

夫の直樹さん(仮名・享年63歳)はメーカー系企業に長く勤め、現役最後の年収は約700万円、60歳の定年後は再雇用で年収約300万円、65歳まで働く予定でした。65歳から受け取る年金の見込額は月約17万円。智子さんは近所の会社でパートとして働き、月収は約10万円です。2人の子どもはすでに独立しています。

夫婦が首都圏郊外に3,800万円の新築戸建てを購入したのは、直樹さんが37歳のとき。頭金760万円、借入額3,040万円、35年返済、固定金利2.8%程度。月々11万円を超える返済が始まりました。

直樹さんは「増えるかわからないものより、減らさず持っているほうが安心」という堅実なタイプ。一方、智子さんは、夫ほど稼げないからこそお金について調べるのは自分の役目だと考えてきました。

2017年、低金利が続くなか、智子さんは住宅ローン金利が借入時より大幅に低下していることに気づき、FPに相談して夫を説得。残債約2,000万円を全期間固定・金利約1%に借り換え、返済期間19年、毎月返済額は約9万6,000円まで軽くなりました。

順調だった住宅ローンの返済。転機は直樹さんが60歳で定年を迎え、退職金2,000万円を受けとったときです。この時点で、住宅ローンはまだ約1,400万円残っていました。

退職金2,000万円を手にした60歳夫の決断

退職金でローンを全部返そう」

直樹さんは迷いませんでしたが、智子さんは反対しました。

「金利は低いし、全部返さなくてもいいんじゃない? これから収入も減るんだから、現金を残しておいたほうが安心でしょ?」

当時、夫婦には退職金とは別に約700万円の預貯金があり、合わせて約2,700万円。1,400万円を返済にあてれば、残る金融資産は約1,300万円です。

智子さんは50代半ばから実母の通院や買い物を手伝い、子どもの独立後も思うようにパートを増やせずにいました。働くつもりでも、家族や自分の状況次第で収入を増やせないこともある。だからこそ、手元の現金を大きく減らすことに不安があったのです。

それでも直樹さんには計算がありました。

「1,300万円も残る。俺もまだ働くし、お前にもパート収入がある。ローンさえなくなれば、十分やっていけるだろ」

結局、智子さんが折れ、退職金から約1,400万円を出して住宅ローンを完済しました。

借金がなくなった。これでやっとスッキリしたよ」

直樹さんは笑顔で、安心した様子だったといいます。

ところが、ここから夫婦の家計は少しずつ変わっていきました。

定年後、直樹さんの年収は約300万円に減少。智子さんのパート収入を合わせても、世帯収入は現役時代に比べて大幅に少なくなりました。住宅ローンはなくなったものの、食費や光熱費などの生活費が消えるわけではありません。さらに、築20年を超えた自宅では外壁塗装や給湯器の交換など、まとまった修繕費も必要になりました。

「ローンがなくなったから、生活は楽になると思っていたんです。でも、収入が減ると、毎月の生活費だけでも少しずつ預金が減っていきました」

そして3年後、直樹さんが不慮の事故で突然亡くなりました。63歳でした。

借金をなくせば安心」という思い込み――妻が知った「団信」の意味

葬儀などの支出も重なり、智子さんの手元に残った預貯金は700万円ほど。ローンのない家は残りましたが、61歳からの老後を支えるには心もとない金額でした。

智子さんの頭をよぎったのが、3年前の繰上げ返済です。

「もし1,400万円を一括返済せず、毎月返済を続けていたとしたら――」

試算上、直樹さんが亡くなった時点でも、住宅ローンは約1,100万円残っていました。ただ、この住宅ローンには、団体信用生命保険(団信)が付いていました。契約者が死亡するなど所定の状態になったとき、保険によって残債が弁済される仕組みです。

今回のケースでは、直樹さんの死亡は団信の支払要件に該当していたため、もしローンを残していれば、約1,100万円の残債はゼロになっていたはずです。つまり、その分貯金が手元に残っていたわけです。

「ローンはなくなりました。でも、家は毎月の生活費を払ってくれるわけじゃないんですよね」

夫を亡くして初めて、智子さんはそのことを痛感したといいます。

借金をなくす」だけが正解ではない…退職金を使う前に考えたいこと

「残債がゼロになるなら、繰上げ返済をしなければよかったのでは」

智子さんがそう考えてしまうのは無理もありませんが、直樹さんの死が突然であった以上、それは結果論です。当時の直樹さんの判断が完全に間違いだったとは、言い切れません。

住宅ローンの繰上げ返済には、将来支払う利息を減らし、毎月の返済をなくせるというメリットがあります。退職金で住宅ローンを一括返済すれば、借金という「マイナス」がなくなり、家計はすっきりして見えます。

60歳時点では夫婦で年420万円ほどの就労収入があり、完済後にも約1,300万円の金融資産が残る計算でした。「これならやっていける」と考えても、そうおかしくはありません。

一方で、60代以降は収入が減りやすく、持ち家ではまとまった修繕費が発生することがあります。医療や介護など、いつ、どの程度のお金が必要になるかもわかりません。

だからこそ、退職金で繰上げ返済を検討する際は、①返済後にどれだけ現金が残るか、②今後どれくらい働けるかを確認したうえで、③団信という保障を手放すことになる点も踏まえておく必要があるのです。

10年、20年先の「予定外のこと」まで想像しておく

では、夫を亡くした智子さんは、これからどう生活していけばいいのでしょうか。

智子さんはパート収入に加え、遺族厚生年金と中高齢寡婦加算を受給しています。中高齢寡婦加算は、一定の条件を満たす40歳以上65歳未満の妻の遺族厚生年金に加算される制度です(※1)。65歳以降は自身の老齢基礎年金なども合わせ、公的年金は月15万円弱になる見込みです。

住宅ローンはありません。そのため、毎月の住居費を大きく抑えられることは、智子さんにとって支えになります。一方で、61歳の現在、手元にある金融資産は約700万円。自宅は残っているものの、自宅を売却しない限り、家そのものを日々の生活費に充てることはできません。

「家は残ったけれど、これから何十年も生活していくことを考えると、現金がもっとあればと思ってしまいます」

智子さんはそう話します。

年金を増やす手段の1つとして「年金の繰下げ」があります。2028年4月からは制度改正で、遺族厚生年金を受給している人でも、老齢基礎年金の繰下げが可能になります(※2)。

智子さんのように改正後に65歳を迎える人は、その時点の資産や働き方を見ながら、65歳から受け取るか、繰り下げるかを検討できます。ただし繰り下げ期間中は老齢基礎年金を受け取れないため、手元資金とのバランスが重要です。

老後のお金に「これをすれば絶対安心」という答えはありません。繰上げ返済をする、現金を残す、一部を運用する、働き続ける――。大切なのは、その時点の家計だけで判断せず、10年、20年先の「予定外のこと」まで想像しておくことです。

退職金というまとまったお金を手にしたとき、あなたなら「借金がなくなる安心」と「自由に使える現金が残る安心」、どちらをどのくらい残したいでしょうか。

【参考】
(※1)厚生労働省「年金制度の仕組みと考え方 第13 遺族年金」
https://www.mhlw.go.jp/stf/nenkin_shikumi_013.html

(※2)厚生厚生労働省「年金制度の仕組みと考え方 第11 老齢年金の繰下げ受給と繰上げ受給」
https://www.mhlw.go.jp/stf/nenkin_shikumi_011.html

三原 由紀
プレ定年専門FP®