9年間もの医学部浪人を強要され、監視と束縛の地獄を生きた娘は、なぜ就寝中の母を刺殺し、遺体を解体したのか。単純な「支配と憎悪」の結末と思われがちなこの事件の裏には、誰もが経験しうる「愛と呪縛のパラドックス」、そして日本の制度が抱える致命的な欠陥が隠されていた。(全2回の1回目)

【動画を見る】「自分が死ぬか、母が死ぬか」医学部9浪を強要された娘が、母殺害の果てに語った“愛と呪縛”のパラドックス

(初出:「文藝春秋PLUS」2026年5月3日配信)

無罪主張を捨てた「異例の展開」

 2018年1月に起きた「滋賀医科大学生母親殺害事件」。一審で懲役15年を宣告された娘のあかりさん(仮名)は、控訴審で異例の行動を見せる。否認していた殺害の事実を認め、詳細な供述を始めたのだ。無罪を主張するための控訴審で、なぜ自ら罪が重くなるかもしれない「認め」に転じたのか。 

 文藝春秋PLUSの動画番組「+BOOK TALK」に出演したノンフィクション作家の齊藤彩氏は、あかりさんとの手紙のやり取りなどを通じて見えてきた「逆説」を静かに語る。

「自分が死ぬか、母親が死ぬしかなかった、という言葉も犯行前に残されているんですけれども、やっぱりお母さんが本当に100%憎かったら、自分が死ぬという選択肢ってなかったと思うんです」 


齊藤彩氏

「お母さんのことを捨てきれないところもあった」

 あかりさんは長年、連れ戻されながらも家出を試み、高校の恩師に相談するなど外部へ助けを求め続けていた。にもかかわらず、なぜ逃げ切れなかったのか。齊藤氏が指摘するのは、あかりさんが抱えていた「母への愛情」と「期待に応えたい」という感情だ。犯行に至るまでの記録を細かく辿ると、第三者から見ても「お母さんのことを捨てきれないところもあったんだろう」と思える行動が残されているという。 

 親として子どもに期待してしまう愛情と、それに応えたい子どもの心。そこには誰もが経験しうる感情の構造があるからこそ、この凄惨な事件は多くの読者に「自分ごと」として受け止められた。 

悲劇を生んだ「親権という密室」

 また、このいびつな関係を外部から断ち切ることはできなかった。日本の民法では「親権」が強く守られており、第三者が介入するハードルは高い。あかりさんが18歳のころ、無断で就職面接に合格しながらも、当時の成人年齢は20歳だったことから未成年ゆえに母親の同意を得られず連れ戻されたエピソードは、その構造的限界を象徴している。 

 齊藤氏は「親子のどっちが悪いというものではなく、社会のルールや仕組みが追いついていなかった」と語る。愛されたい、愛したい――そのごく普通の感情が、閉ざされた「親権という密室」の中でいかにして殺意へと変貌したのか。齊藤氏があかりさんとの30通を超える文通を通して見届けた彼女の“変化”の全貌は、動画の後半でさらに深く語られている。

殺害の引き金は「秘密のスマホ」…医学部9浪を強要した母が囚われていた恐るべき“世代の呪縛”〉へ続く

(「文春オンライン」編集部)