持ち味薄れた?「孤独のグルメ」特別編への違和感
『それぞれの孤独のグルメ』(写真:番組公式サイトより引用)
人気ドラマシリーズ『孤独のグルメ』の特別編と銘打つドラマ24『それぞれの孤独のグルメ』が、テレビ東京開局60周年連続ドラマとして放送中だ。
シリーズ放送開始から12年目を迎え、シーズン11作目となった本作は、主人公・井之頭五郎だけではなく、さまざまな職業の人たちの独り飯グルメにフォーカスする新機軸を打ち出している。
それはシリーズの新たな方向性になるのか。第4話まで放送されたが、確かに食事と重なる人間ドラマが繰り広げられ、井之頭五郎の名食事シーンも盛り込まれることで、同作を人気シリーズに押し上げたポイントはしっかり押さえられている。
ただ、違和感がある。情報量が増えたことで、本来の持ち味が薄れてしまっているのだ。
多種多様な主人公と井之頭五郎の独り飯
『それぞれの孤独のグルメ』は、毎話さまざまな世代や職業の主人公が登場し、“誰にも邪魔されず、気を使わず、気の向くまま好きなものを食べる”従来の孤独のグルメフォーマットで、タイトルの通り、それぞれが独り飯グルメを楽しむ。
性別も属性もバラバラの毎話の主人公たちが、街の名もない料理屋で絶品グルメと出会う場には、井之頭五郎もいる。それぞれの人生を背景に各話の主人公が自由気ままに腹を満たす姿が、井之頭五郎のいつもの食事シーンと多重的に描かれる。
『それぞれの孤独のグルメ』(写真:番組公式サイトより引用)
第1話では荒川区町屋にある昔ながらの商店街の中華料理店の大将(太田光)、第2話では長距離運転や夜勤で疲れ果てたタクシー運転手(マキタスポーツ)、第3話では救命救急センターで日々激務に追われる看護師(板谷由夏)、第4話では苦手力士の差し違えや事務仕事などで振り回される相撲行司(ユースケ・サンタマリア)が主人公になり、それぞれの孤高の幸福な時間が描かれた。
『それぞれの孤独のグルメ』(写真:番組公式サイトより引用)
各話の主人公の人生は少しずつ交錯し、それぞれの料理屋で遭遇する井之頭五郎を通してひとつの物語につながる、オムニバスグルメドラマになっている。
『孤独のグルメ』シリーズは、仕事の合間に腹が減った井之頭五郎が、そのときに訪れていた街のどこにでもありそうな料理屋にフラッと立ち寄り、独り飯を楽しむ姿をただ淡々と描く。
毎話の井之頭五郎が腹を空かす状況と、料理屋および食事は変わるが、やっていることはずっと変わらない。そのゆるさが本作の持ち味であり、シリーズ開始当初はほかの作品と一線を画す新機軸だった。それが長きにわたり支持され続け、ファンを増やしてきたゆえんでもある。
そうした流れがあるなか、本作はこれまでの形式から抜け出そうとしている。過去10シーズン守られてきたフォーマットを広げようと試みる、意欲的なドラマになっているのだ。
情報量の多さが特有のおもしろさを損なう?
ただ、そんな本作を第4話まで鑑賞して違和感も抱いた。
確かに、毎話の主人公の人生が映る独り飯グルメにはそれぞれの人間ドラマがあり、そこに井之頭五郎のいつもの食事シーンが重なることで、もりだくさんの内容になっている。充実したストーリーと捉えることもできるが、食事シーンとして見れば、毎話の主人公と井之頭五郎がかぶっている。
また、ドラマ前半の各話主人公の紹介的なお仕事ドラマのパートも長く感じる。中盤ほどでやっと主人公が「腹が、へった」とつぶやいてカットが引いていく、おなじみの“孤独3段カット”があり、そこから食事パートに入る。そして、各話主人公の食事シーンとともに、その店にいた井之頭五郎のいつもの独り飯グルメが、終盤になってようやく差し込まれる。
その情報量の多さは、いまの『孤独のグルメ』を確固たる人気シリーズの地位に押し上げた「特有のおもしろさ」=「ファンのニーズ」とのズレがある気がする。『孤独のグルメ』とは井之頭五郎そのものだ。ファンにとっては、内容がブレていて冗長的に感じるのではないだろうか。
本作は、『孤独のグルメ』の作品性を広げているが、それによって逆に本来の“らしさ”が失われている。その背景には、制作陣の脱マンネリへの意識があることが推察される。
エンターテインメントにかかわるすべての人がぶつかるマンネリの壁。同じことを繰り返していれば客に飽きられ、ほかの魅力的なものに移られてしまう。
だからつねに新しい何かを探し、それを盛り込むことで客離れを防ごうとする。一般的にシリーズが長く続けば続くほど、そこに対する内圧も外圧も強くなる。本作においても当然その議論はあっただろう。
マンネリこそが持ち味だった
しかし、『孤独のグルメ』に関しては、そのマンネリこそ視聴者が心地よく気楽に楽しむことができる持ち味であり、それが若い世代をはじめ幅広い層の心を掴んでいる。だからこそ、シーズン10まで愛され続けてきた。
お腹を空かせた井之頭五郎が街の名もない料理屋に入り、ただお腹いっぱいおいしい料理を食べる。それだけでいい。それだけの情報量のストーリーと、深夜30分(放送開始当初)のテレビドラマという枠がパッケージとなって『孤独のグルメ』が成り立ってきたのだ。
『孤独のグルメ』(写真:番組公式サイトより引用)
それをいま変えようとするのは、本作のプロデュースに参画する松重豊の意向が大きいのかもしれない。
シーズン10をひと区切りとして、さらなる未来への継続性の担保のために、作品を広げようとしているのであれば、従来のフォーマットから新規性を探ることは十分理解できる。そこには、松重豊および制作陣のシリーズへの愛の深さが表れている。問題はそれがファンにどう伝わり、どのように評価されるかだ。
もう1つ気になるのは、『劇映画 孤独のグルメ』(2025年1月10日公開)だ。これまでにも2時間枠のスペシャルドラマを年末年始に放送してきており、劇場版でテレビシリーズと同じことをやれば、ファンは当然「テレビでやってほしい」となる。
『劇映画 孤独のグルメ』(写真:テレビ東京公式サイトより引用)
チケットを購入して映画館のスクリーンで見る意義のある作品性がなければ、ファンにとってフラストレーションになるだろう。テレビ局のビジネスのためだけの劇場版と思われれば、ファン離れを引き起こす可能性もある。
また内容的にも、劇場版は冒険物語の要素があり、ラブストーリーも盛り込まれる。作品への愛が強く、サービス精神が旺盛な松重豊が監督、脚本、主演を務めるだけに、従来のストーリーからの新機軸を目指す、脱マンネリの方向性がより色濃くにじむことも予想される。
映画はその評価が興収という数字で残酷なまでに目に見えて表れる。そこで今回のドラマと劇場版へのファンの評価が世の中に示されるだろう。
特別編と劇場版を経たこれから
ただ、今回のドラマは特別編と銘打っており、劇場版とあわせて、本来のシリーズのスピンオフと捉えることもできる。この2作がパイロット的な位置づけであり、末永いシリーズ継続のための布石となるのであれば、その結果を踏まえた次作は、ファンのニーズに寄り添うものになることが期待される。
原作者の久住昌之さんは、10シーズン続くドラマ版のマンネリ化によるファン離れに対して、異を唱えていた。
「毎日ふつうに食事することを誰もマンネリとは思わないですよね。人の生活のなかの空腹と食事、という繰り返しを描いているんです。同じようなものを食べていても、毎日同じ気持ちではない。(中略)お腹が空いたからなにか食べようという誰にでもある普通の行動。それを丁寧に描こうとすれば、いくらでもドラマはあると思います」(過去記事:10年続く「孤独のグルメ」マンネリ化しない必然)
マンネリであることを、誰もマンネリとは思わない。この言葉こそ『孤独のグルメ』という特異なシリーズの本質を突いているのではないだろうか。
今回の特別編と劇場版をひとつのステップとして、王道を守りつつ時代とファンに寄り添って進化を遂げていくことが期待される。
(武井 保之 : ライター)