館野さん夫妻(撮影:風間 仁一郎)

埼玉県西部の山間部、秩父地域にある横瀬町。この人口約8000人の自然豊かで小さな町に、2人揃って保育士に転身した異色の元科学者夫妻がいる。舘野繁彦さん(46)、春香さん(40)だ。

運営する保育園とオルタナティブスクール(新たな選択肢の学校)では、豊富な自然科学の知識を生かして子どもたちの好奇心をかき立てる遊び・学びの場を提供している。

都会にはないリアルな自然から学ぶ

「おーすげー!!」「よく見える!」。

9月末の平日午後、舘野夫妻が一般社団法人「タテノイト」を通じて運営するオルタナティブスクール「NAZELAB(ナゼラボ)」で、電子顕微鏡を使いカラスアゲハの死骸を見た子どもたちから歓声が上がった。

真っ黒の体をしたこのチョウの羽には、よく見ると青色の部分がある。ここを顕微鏡で見ると、鮮やかな青が眼前に飛び込んでくる。舘野夫妻は目を細めながら、子どもたちの「観察学習」を見つめていた。


(撮影:風間 仁一郎)


(撮影:風間 仁一郎)

この日は午前中、舘野夫妻が運営する保育園の園児、ナゼラボの子どもたちと合同で、同じ秩父地域の長瀞町で探究学習をした。

長瀞は「地球の窓」と呼ばれるように地質学的に貴重な地形が多く、地殻変動によって地表に露出した岩石などが間近で見られる。

子どもたちは長瀞の河原で石を見つけたとき、偶然カラスアゲハの死骸を発見してナゼラボに持ち帰った。

【写真22枚】自然豊かな埼玉県横瀬町にある、館野さん夫妻が運営する保育園とオルタナティブスクール。都会にはない学びが得られる

繁彦さんは言う。「保育園とナゼラボの合同学習は今年の2学期以降に始めました。週2日はこのように一緒に活動する日を設けています。年齢の異なる子どもたちが一緒になると、普段は低学年の小学生もお兄さんになる。少し背伸びしたりして、いい成長の機会になる」。

保育園は2020年から、ナゼラボは2022年から運営を始めた。

在籍するのは保育園に4人。ナゼラボは3歳から中学生までを定期・不定期を含めて10人弱程度を預かっている。地元の子どもたちに加え、なかなか学校に馴染めない子どもたちも首都圏などからやってくる。


ナゼラボの外観(写真:風間仁一郎)


(撮影:風間仁一郎)

科学者としてのキャリアに限界を感じていた

2人はなぜ横瀬町に来たのだろうか。横瀬町は春香さんの出身地で、当初は自身の子育てのために地元に戻ってきた。ともに科学者として全国の研究所などを渡り歩く生活で、子育てがおろそかになってしまった苦い経験があるためだ。

「高校生までは地元にいましたが、早く東京に出たくてしょうがなかった。2019年に親を頼って横瀬に戻ってきましたが、横瀬は自然がたくさんあって子育てしやすく、もう東京には戻れません。

私の娘も当初は未就学児でこういう自然環境に慣れていませんでしたが、すぐに馴染みました。今は小学4年生になり、まったく病気にもならずに元気に暮らしています。1日中、山に行って遊んだりしているので、体力もかなりついたようです」(春香さん)

一方、繁彦さんも科学者としてのキャリアに限界を感じていた。

「時間に追われて心に余裕がありませんでした。地球科学の研究面で悩んでいたためです。研究テーマはありましたが、5年先も楽しいだろうか?と考えたときに限界があると感じました。

僕の研究は実験装置の性能に依存した分析をしていましたが、新しい装置が出ているときは研究が進むものの、だんだん頭打ちになってくる。これ以上のブレイクスルーは望めないと考え、子育ての傍ら保育園を運営することを考えるようになりました」。


取材日は雨。子どもたちは室内で思い思いの時間を過ごしていた(撮影:風間仁一郎)

保育園は今「森のようちえん」(認可外保育施設)という名前だが、2025年度からは「タテノイトようちえん」に、ナゼラボは「タテノイト小中学部」にそれぞれ改称して一体的に運営する予定だ。

保育園やナゼラボには自然科学、社会科学、絵本まで多くの蔵書があり、保育園には立派な園庭、ナゼラボには顕微鏡や天体望遠鏡、各種実験器具などが揃うだけに、どちらの施設も使えることは子どもたちにも大きなメリットとなる。午後3時から午後6時までは施設を一般開放し、大人でも自由に入れるようにするという。

「太陽はなぜあるの?」と聞かれたら

ナゼラボで使う顕微鏡や望遠鏡などの器具は昔の研究仲間などから無償で譲り受けている。研究用途で使うには古い装置でも、子どもが使うものとしては十分な性能があるという。

「子どもと実験をやると僕らもとても面白く、子どもたちは本質を突いた質問をズバッと投げかけてくれます。『太陽はなぜあるの?』など、即答できない質問も少なくありません。ですので、僕らもすぐに答えを追わず、あえて子どもたちに考えてもらうことを重視しています」(繁彦さん)。

「子どもが何かに興味を持ったとき、すぐにこちらも対応してあげたいという気持ちが強い。すぐやることで、子どもの好奇心を満たしてあげることが重要です」と春香さんも言う。


望遠鏡や顕微鏡など、さまざまな器具が揃うナゼラボ(撮影:風間仁一郎)

舘野夫妻はともに、もともと地球惑星科学の研究者だ。

2人とも東京工業大学(現東京科学大学)で博士号を取得したため科学的な知識や経験が豊富。2人の特長を生かす形にして自然体験活動をさらに強化する。

「横瀬町など秩父周辺地域は山や森、川など自然がたくさん残っています。一日中森で遊んだり、川で釣りをしたりして過ごすような日をたくさん作りたい。自然の中こそ学びの場であり、いろいろな発見の場です。

僕らは地球を守るという言葉はあまり好きではありません。守るというより、より本質的に地球への愛が芽生える形にしたい。子どもの頃から自然を好きになってもらうことが最も重要です」(繁彦さん)。


子どもたちがのびのび過ごせる環境が整っている(撮影:風間仁一郎)

科学者時代よりも幅広い論文を読んでいる

夏休みに「ちっぽけツアー」という自然体験ツアーも企画している。地球惑星科学の最新の論文などを見ながら、大学生レベルの話を小学生向けに説明している。

科学者時代よりも幅広い論文を読んでいる。むしろかみ砕いて説明するのが大変。地球の46億年の歴史やスケールを感じてもらいたいという思いでやっています」と繁彦さんは話す。


(撮影:風間仁一郎)

保育園と学びの場を運営することで気づいたことがある。

「私の娘に限らず、子どもは自然の中で遊んでいるといい感性を発揮する。ちょっとした季節の変化にも敏感になり、世界が広がっている。楽しくなることが結果的に学びになる。子どもたちの応用力、受容力はものすごいし、大人は先入観がありますが子どもは常にフラットです」(春香さん)。

横瀬町や地域住民とのコミュニティ形成も子どもに好影響を与えている。

ナゼラボの隣には横瀬町や地域商社が運営する官民交流施設があり、子どもたちも自然に大人と交流している。

今は月に1回、ナゼラボの庭で「コミュニティキッチン」というイベントを開き、野外の炊事場に大人と子どもが集まって食材を皆で分かち合い、ご飯をつくって食べている。

「今の時代、特に東京などの都市部は老人は老人、子どもは子どもとコミュニティが分断されることが多いですが、子どものうちからいろいろな大人と交流することが大きな力になります」(繁彦さん)。

博士号を活かして

舘野夫妻は、自分たちのように博士号を持った人々がもっと現場の教育に関わってほしいと願っている。

「いまドクターはなかなか大学のポストが空かず、いわゆるポスドク問題は深刻さを増しています。それであるなら、ぜひ子どもたちの探究学習に関わって子どもたちに学びの楽しさを伝えてほしい」(繁彦さん)。

自然の中で子どもたちが自発的に学べる場をつくろうとする舘野夫妻の挑戦は、まだ始まったばかりだ。

(舘野夫妻の経歴)
舘野繁彦(たての・しげひこ)1978年生まれ。川崎市出身。東京工業大学地球惑星科学専攻博士課程修了。東京工業大学地球惑星科学専攻特任助教、岡山大学惑星物質研究所特任准教授、東京工業大学地球生命研究所研究員を経て、埼玉県横瀬町で保育士に。博士(理学)

舘野春香 (たての・はるか)1984年生まれ。埼玉県横瀬町出身。東京工業大学地球惑星科学専攻博士課程中退後、海洋研究開発機構研究員。岡山大学惑星物質研究所助手、東京工業大学先導原子力研究所研究員、日本原子力研究開発機構研究員を経て、横瀬町で保育士に。博士(理学)

(岩崎 貴行 : ジャーナリスト・文筆家)