巨人V9 戦士・柴田勲氏が明かすトレードマーク“赤い手袋”誕生秘話「キャンプ地の目の前にゴルフ場があったから」

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昭和後期のプロ野球に偉大な足跡を残した偉大な選手たちの功績、伝説をアウンサー界のレジェンド・紱光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や“知られざる裏話”、ライバル関係とON(王氏・長嶋氏)との関係など、昭和時代に「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”を、令和の今だからこそレジェンドたちに迫る!

日本プロ野球界初のスイッチヒッター・柴田勲氏。盗塁王に輝くことセ・リーグ最多の6回、通算盗塁は歴代3位の579。通算2018安打。「赤い手袋」をトレードマークにダイヤモンドを駆けまわった“巨人V9戦士”の1番バッターに紱光和夫が切り込んだ。

【中編】からの続き

トレードマーク「赤い手袋」誕生秘話

徳光:
柴田さん、あの「赤い手袋」はどうしてなんですか。

柴田:
昭和42年のアメリカ・ベロビーチでのキャンプがきっかけなんですよ。
僕はピッチャー上がりだから、あんまりスライディングがうまくない。それで牧野さんがアメリカの走塁コーチに教えてくれるよう頼んだら、「ヘッドスライディングが一番いい」って言われたんですよ。ヘッドスライディングなんか怖くてやってないですよね。練習試合でバーンッて行ったら手をすりむいちゃって。

柴田:
その日はナイターでドジャースとの試合があったんですよ。手が痛いから絆創膏を貼ってみたんですけど、それじゃあバットが滑る。
困ったなぁと思って、球場のすぐ目の前のゴルフ場にゴルフの手袋を買いに行ったんです。でも、外人さんの手袋はでかくてブカブカなんですよ。これじゃダメだと思ったら、レディースコーナーに「赤い手袋」が置いてあったんです。試しにはめてみたらぴったりだったんですよ。
「赤い手袋」なんてかっこ悪いなと思ったんだけど、背に腹は変えられない。もうしょうがないから、「赤い手袋」をして打ったんですよ。

徳光:
ということは「赤い手袋」はアメリカデビューなんですか。

柴田:
運が良かったのか、その試合で2本ヒット打って2盗塁したんですよ。これは縁起がいいと。日本に帰っても縁起担ぎで、ヒットを打って塁に出たら、お尻のポケットから「赤い手袋」を出してはめてたんです。
昔は、バッティングの時は素手じゃないと怒られましたから、2年間は素手で打って、手袋はユニフォームのポケットから出してたんですよ。

徳光:
これがかっこいいんだ。

柴田:
その年、70盗塁したんですよね。
それで、ちょっと人気が出て、そのうち、塁に出てからはめるのが面倒くさくなっちゃった(笑)。最初から手袋をはめて打つようになっちゃったんですよ。

徳光:
その「赤い手袋」秘話って面白いですね。

柴田:
もし僕が手袋はめて打ってなかったら、しばらくは日本でもやる人いなかったと思う。ところが、僕が手袋はめて打ってたから、みんなが真似しはじめたんです。

高校進学が“運命の分かれ道”

柴田氏は、法政二高で2年の夏、3年の春と甲子園連覇を達成。高校野球史に残る強豪チームだったが、当初は法政二高に進学するつもりはなかったという。

柴田:
中学3年のとき、高校どこに行こうかっていうことになるじゃないですか。あの当時、神奈川県では県商工(神奈川県立商工高校)と法政二高と慶應が強かったんですよ。
僕の兄貴は県商工だし、中学の監督さんも県商工。それで、友達と県商工に行こうって話してたんですよ。
そんなとき、横浜市中区の大会があって僕が投げて優勝したんです。その試合の審判をしていたのが法政二高のOBで、法政二高の監督に面白いピッチャーがいるって教えてくれたんです。
それで、法政二高に誘われたんです。最初は断ったんですが、中学の監督さんが「甲子園に行きたいだろう。だったら、今は、県商工よりも法政二高だ」って。その前の2年間、神奈川県代表で法政二高が甲子園に行ってましたから。それで法政二高に行ったんですよ。
それが、僕の運命の分かれ道ですよね。県商工に行ってたら甲子園に行けなかったかもしれない。

怪童・尾崎との死闘

2年の夏と3年の春に甲子園を制した柴田氏擁する法政二高。優勝候補ナンバーワンとして臨んだ3年の夏の準決勝で大阪の浪商高校の前に苦杯を喫した。

徳光:
怪童・尾崎行雄さんと投げ合ったんですよね。

柴田:
負けるべくして負けましたね、あのときは。
浪商は打倒・柴田、打倒・法政二高で毎日のように監督からガーッって言われてたらしいんだけど、僕らは厳しかった前監督がお辞めになって監督が大学生なんですよ。怒る人がいないもんだし、2連覇していたから、みんなちょっと怠けてた。

柴田氏の肩の調子も良くなかったという。

柴田:
今と違ってね。全部3連投しなくちゃいけないんですよ。準々決勝、準決勝、決勝と。神奈川県大会でも3連投、甲子園でも3連投。全部3連投ですよ。当時、法政二高の2番手のピッチャーが村上雅則。

徳光:
日本人初のメジャーリーガーだ。

柴田:
メジャーリーグ第1号の村上が1年下で、僕の2番手のピッチャーなんですよ。彼は肝心なときに必ずケガしたりなんかしてね。1回も助けてくれないんだよね(笑)。
だから、僕は常に3連投しなくちゃいけない。それで、準決勝・浪商戦の3回から肩が痛くなっちゃって。
でも、なんだかんだ誤魔化しながら、9回まで1安打で抑えてたんです。だけど9回ワンアウトで、バッターがユニフォームのお腹のところに帽子を入れてて、ストライク投げたつもりがデッドボール。それから、同点にされちゃって負けちゃったんですよ。
もし、その試合で浪商に勝ったとしてもね、もう次の試合は投げられなかったですね。翌日は顔も洗えなかったです。

プロ入団は名監督たちによる争奪戦

徳光:
柴田さんは巨人以外からもスカウトが来たんですか。

柴田:
いくつも来たんですけど、皆さん、すぐ諦めちゃって。最後に残ったのは巨人と南海と大洋と東映です。

柴田:
巨人・川上哲治監督、東映・水原茂監督、南海・鶴岡一人監督、大洋・三原脩監督。そうそうたる監督ですね。全員が僕のところに来てくれるわけですよ。

徳光:
鶴岡さんも来たんですか?

柴田:
一番熱心に誘ってくれたのは鶴岡さんです。4回ぐらい来てくれました。結局、南海と巨人でどっちにしようかって迷ったときに、親から「自分の人生だから、自分の好きなところへ行きなさい」って言われて、「僕は昔から巨人ファンだから巨人に行きます」となったんですよ。
川上さんは、僕の親父に「お父さん、心配しないでください。もし、ピッチャーがダメでもバッターで成功するから」って。
巨人に入れてもらって長嶋さんや川上さんと一緒に野球するっていうのは、子供の頃からの憧れですよね。法政二高に入ったおかげで、巨人軍にも入れた。

徳光:
いいご縁があったってことですよね。縁も運もあって、盗塁王「赤い手袋」の柴田勲が生まれたってことなんですね。

(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 24/4/9より)