石川県の能登地方を襲った豪雨で、川の濁流で住宅が流され、輪島市の中学3年・喜三翼音さんが福井県沖で遺体で見つかりました。

1日、身元の特定を前に、祖父の誠志さんが孫との思い出を語ったインタビューの要旨です。

Q.翼音さんは初孫

私たちの命より大事な孫です

Q.輪島塗に関する思い出は

来年、高校生になって少し「じいちゃん、私もちょっとやってみようかな」とも言ってくれていたんです。絵は好きで、いろんな絵を描いていましたから。ただ、蒔絵はそこまでやっていたことはなかったと思いますけど、その辺にも興味を持ち出して。それは、出張輪島朝市を翼音が手伝ってくれていたなかで、一緒にまわりながら塗り物を売っているというのを見て、私が一生懸命、絵づけしているところも見ていますし、そこで少し「やってみようかな」という気持ちになっていたのかもしれません。

Q.翼音さんに蒔絵を教えたことは

それはこれからだった。「来年、高校に行ったらやってみる」と言ってくれていたんです。その道に進めということではなくてね。やってみていいよと。これから高校、大学と頑張っていくというなかで、自分のやりたいことを見つけてくれたらなと思っていましたから。

震災前から朝市でお手伝いをしていた翼音さん

Q.朝市に出店していた頃について

ずっとイベントがあるたびに、一緒にまわってもらっていました。翼音にしたら、じいちゃんばあちゃんがやっている姿を見て「じいちゃんばあちゃん、私も手伝ってあげるよ」と。朝市で店をやり始めたころから、たまに遊びに来ていたんですよ。歳を増すごとに「私も何か手伝ってあげようかな」という気持ちになったんだと思うんですよ。それから翼音の方から「じいちゃん手伝ってあげるよ」と言ってくれて、朝市のお店に来るようになったんです。

Q.作品については何と言っていた

「どうやってこんな風に描けるの」とか「どうしたらこういう風になるの」とか、いろんな疑問は抱いていたと思います。いろんな技法がありますから、一般の方でもなかなかわかりにくいと思いますので。「私も描いてみたい」と。ただその頃は、一生懸命ボールペンや鉛筆を使って自分の好きな絵を描いていましたから。小学校から絵を描くのが好きでずっと描いていましたから。小学校6年生になると輪島市では卒業制作で沈金のパネルを必ず作る。そのパネル板は川で見つかった。それは私が大事に、いつも飾っておいてあげようかなと思いますね。

Q.完成した沈金パネルを見たときの気持ち

なかなか最初であれだけできるのは、そうそうはいないのかなと思いました。才能があるのではないかなと思うくらい。私が第三者で見た時でも「これはいけるのではないか」と思いました。

Q.高校に入ったら教えてあげると話していたが

今は、出る言葉がない。高校になってから…翼音が高校、大学とあと7年あるんです。その7年間は「じいちゃんばあちゃんのお手伝いをずっとするからね」と言ってくれていたんですよ。それを思い出すとね、また涙が出てきますので。本当に優しい子でしたから。

Q.中学生のころから朝市で店を手伝ってくれた

最初は、商品のお椀を包むところから、ちゃんと、うちのおばあちゃんがやっていることを見ながら、そこから手伝ってくれていた。今年の元日の地震以降、さらにほとんどの出張朝市にまわっていた。包装ができるようになったら次の対応ができるように、次の対応ができるように、と。今年の夏休み前には、ほぼ完ぺきにこなしていましたので。お客さんの呼び込みから、お金の勘定まですべて自分でできるようになっていましたので。私がさぼっていてもちゃんとやっていてくれたんですよ。任せてと言ってくれるくらいに。私よりも、売る仕事はできたと思います。

Q.翼音さんは朝市で再び店を出すことを望んでいたか

そこまでは分かりませんけども、地震の後は出張朝市という形で各地をまわるしかないのかなと私は思っていましたので。なかなか、朝市の復興といったらどれくらい時間がかかるかわからない状態ですから。機会があったらもう一度やりたいと私は思っています。

Q.出張朝市でも手伝ってくれた

数えきれないくらい、毎週、毎月、何回やったか思い出せないくらいありましたけども、学校の関係もあって全部が全部出られないですけど、出られるときはとにかく出てきてくれました。

あたたかい布団に寝かせてあげたい

Q.おじいちゃん子だった

おじいちゃんおばあちゃん子で、大事にしてきましたよ。かわいくてかわいくてね、本当に。

Q.翼音さんに言葉をかけるとしたら

声かけてやるのは…とにかく、あたたかい布団に寝かせてあげて「ゆっくり休んで」と。「じいちゃんばあちゃんも、もう少ししたらそっちに行くから、それまで待っていてね」と声をかけてあげたいなと思っています。