子どもを持つ人が制度的に優遇されているとして、「子持ち様」という皮肉な言葉が生まれた。早稲田大学名誉教授の池田清彦さんは「産休・育休制度によって、子どもを持たない人たちの業務負担が増えるなど明らかな不利益があるのであれば、制度の利用者ではなく会社や政治に訴えるべきだ」という――。

※本稿は、池田清彦『多様性バカ 矛盾と偽善が蔓延する日本への警告』(扶桑社)の一部を再編集したものです。

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■「産休クッキー」は配慮が足りない?

多様性をめぐる論争にはLGBTに関するもの以外にもさまざまなものがあり、その大半は、本来保障されてはいない「愛される」「感謝される」「優しくされる」といった「受動的な権利」をことさらに主張し合うことに起因している。

本来ないものをあるのが当たり前だと勘違いすると、何かと話がややこしくなってしまうのだ。

つい最近もSNS上で「産休クッキー問題」なるものが物議を醸していたけれど、あれなどまさしくその典型だ。

ネットニュースなどを読む限り、ことの顛末はこうである。

ある女性が産休に入る前に、赤ちゃんやお母さんのイラストがあしらわれたクッキーを職場の人たちに配ったことを画像付きでSNSに投稿した。ところがそれに対して、配慮が足りないという批判の声が上がったというのだ。

■受け取りたくない人は拒絶すればいい

世の中には不妊治療中の人や未婚の人など多様な人がいるのだから、そういう人たちの気持ちに配慮しろというわけだ。中には「仕事に穴を開けるくせに幸せアピールをするな」といった批判もあったらしい。

投稿者の女性は「クッキーはグループ内の特定の人に配った」と説明し、誰かれかまわず無神経に配ったわけではないと弁明したようだが、「その中に人知れず不妊治療している人がいるかもしれないじゃないか」などと言いだす人もいたという。

そもそもの話、その女性にクッキーをもらったわけでもない第三者があれこれ難癖をつけること自体意味不明だけど、女性がどんなクッキーを配ろうと、幸せアピールをしようとそれはその女性の勝手だし、仮にクッキーをもらった当事者が実は人知れず不妊治療中だったとしても、女性の行為を「配慮がない」などと怒る権利はもともとない。それを公言していないのであれば、察しろというほうが無茶である。

もちろん、だからといって黙って受け取れという話ではなく、受け取る側にもそれを拒絶する権利は当然ある。そんなことをすれば角が立つではないかと反論する人がいるかもしれないが、「角を立たせたくない」というのだって、その人の勝手な欲望ではないか。

■周りの人みんなに配慮するなんて不可能

このような「配慮が足りない」という批判はあちこちで聞かれるが、単に配慮が足りないことは、誰かを故意に傷つける誹謗中傷とはまったく違う。それぞれ立場も価値観も違うのだから、全方位的に配慮するなんてどう考えたって不可能だ。

配慮というのはボランティアと同じでそうしたい人がやればいい話であって、強要するものでは決してない。

お互いに配慮し合える社会こそが優しい社会だという主張は本来的に間違っていると私は思うが、ほとんどの人が反対できないような言説を声高に叫ぶ人は自分の正義幻想を満足したいだけなのだ。

そのような一方的な「正義幻想」が、「配慮の足りない人は叩いてもいい」という発想を生むのだろう。そうなるともはやこれは「多様性の尊重」からははるかに遠い話だな。

■「子持ち様」vs子どもがいない人の対立

「産休クッキー」問題の背景には、子どもを産む人たちと産まない人たちが何かと対立しやすいという事情もある。

SNSには小さな子どものいる親を「子持ち様」と呼び批判する書き込みが広がっていることから見ても、どちらかというと子どもがいない人たちが怒りや不満を募らせているようだ。

特に多く見られるのは、育児休暇を取ったり、子どもを理由に休んだり早々に帰ってしまう人たちがいるせいで、自分たちの負担が増えてしまったじゃないかという意見である。

国が少子化対策に必死なので、子どものいる人が児童手当をはじめ、いろんな意味で優遇されているように見えることも、きっと面白くないのだろう。

中には自分が払った税金で他人が子どもを育てていることに納得がいかないという声もあった。

まず大前提として、子どもを持つ持たないはその人の自由なので、当たり前だがどちらが上で、どちらが下ということはない。

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また、子どもを産んだ人たちには育児休暇を取得する権利はあるし、仕事より子育てを優先するという選択をする権利も当然ある。「当たり前のような顔をして産休を取ったり、さっさと帰ったりするのが許せない」という声もあったが、それは当たり前のことなのだから怒ったって仕方がない。

ただしそのせいで、子どもを持たない人たちが明らかな不利益を被っているのであれば、通常は保障されない「受動的な権利」をその人たちが求める権利は当然あると思う。

■「不公平」を解消したいなら会社に求めるべき

例えば、子どもを持つ人が産休を取ったり、勤務時間を短縮したせいで、子どもを持たない人たちの負担が増え、今までなら定時に帰って飲みにいったり、家でのんびりすることができたのに、それができなくなったのだとすれば、能動的な恣意性の権利を平等に行使しているとは言えなくなる。

この時点で、互いの対称性が守られていないのだから、なんらかのかたちで子どもを持たない人たちの「受動的な権利」、つまりなんらかの配慮をしてもらう権利が保障される必要があるわけだ。

このような子どもを持たない人たちの「受動的な権利」を保障するのは、子どもを持つ人たちではない。あくまでも会社のようなシステムである。

それは例えば、育児休業を取る人がいる部署には新たに人を配置してもらうとか、業務が増えた分に応じて報酬を上げてもらうといったことだ。

すでに大企業の中には育休取得者が出たせいで負担が大きくなった同僚にはなんらかの手当を支給をする会社も増え始めているようだが、育休中の社員には給与を支払う必要がないのだから、中小企業だってやれないはずはないと思う。

少なくとも子どもを産んだ人たちは自分たちの権利を素直に行使しているだけなのだから、「子持ち様」などという属性を責め立てる権利は誰にもない。

■少子化対策の偏りに政治家は気づくべき

もしかすると産休制度や児童手当自体に不満をもつ人もいるのかもしれないが、だからといって不満の矛先をそれを利用する人たちに向けたって仕方がないし、それはどう考えてもフェアではない。

もちろん、どうしても不満だというのなら、産休制度や児童手当というシステムそのものを変えるよう政治に働きかけるなどの努力をする権利はあるだろう。

国のほうも異次元の少子化対策などと声高に叫んでいるが、子どもを産む側の人にばかり公的な優遇が偏っていることで、かえって子どもを産みづらい環境を生み出していることにいい加減気づくべきだ。

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年金や高齢者の医療費が国の財政を圧迫しているとか、生活保護費が膨らみ続けているという話を聞くと、年寄りが悪いとか、生活保護を受ける人が悪いとか言いだす人がいるけれど、それは攻撃を向ける先が明らかに間違っている。

個人的な感情を対象の属性に結び付けるのは人間の悪い癖ではあるけれど、そんな態度でいる限り、誰もが幸せになる多様性社会の実現など夢のまた夢だと私は思う。

■政治家は「全方位的に配慮」する義務がある

「多様性の尊重」というのは「あらゆるカテゴリー間の差異に優劣などつけず、すべてを等価だと考えよう」という話なので、あらゆるカテゴリーにいる人たちのすべての権利が、ほかの人たちと等価でなければ話は先に進まない。

会社においても、役職が上のほうにいる人たちと、ヒラ社員の人たちとでは、少なからず上下関係があるのだから、上司が部下になんの配慮もしなくていいという話にはならないだろう。

ただしそうはいっても、不満や言いたいことがあるのなら自分で主張すればいいのであって、上司が自分に気を使ってくれないなどと駄々をこねたりするのは自立した大人のやることではない。

産休クッキーの話のところで、「全方位的に配慮するなんて不可能だ」と言ったけれど、普通の国民より明らかに強い権力を有している為政者の場合は話が別で、それが難しいことであるとしても、あらゆる人たちの立場になって考える義務はあると思うし、国民にもそれを求める権利はある。

■実質的な平等を保障するには法律が必要

例えば選択的夫婦別姓を認めないことで実際困っている人が確実にいるはずなのに、そこに配慮しないというのは本来はあり得ないことなのだ。まあ、それをちゃんとわかっている政治家にはなかなかお目にかかれないけどね。

また、カテゴリー間の実質的な平等を保障するのが難しいケースは多々あり、そこではなんらかの施策という装置(手段)が必要になる。

例えば、障害のある人たちと健常者の権利は平等だといっても、仕事をするにせよ、なんにせよ、障害のある人たちのほうがどうしても不利になってしまう現実がある。

だからこそ、「障害者の雇用の促進等に関する法律」(障害者雇用促進法)を制定するなどして、それを是正しようとしているわけだ。問題があるとはいえ、LGBT理解増進法も一応はそれを目的に制定されたものではある。

■女性管理職を増やすことはジェンダー平等か?

日本の場合、ジェンダー平等の実現度を測るジェンダー・ギャップ指数が2024年の時点で、世界146か国中118位と極めて低く、G7でも最下位のスコアとなっている(図表1)。

出所=『多様性バカ』

特に政治分野と経済分野が低いため、女性閣僚を増やせとか女性管理職を増やせといったキャンペーンが盛んに繰り広げられているけれど、それが本当にジェンダー平等を実現させているかというと必ずしもそうではない。

池田清彦『多様性バカ 矛盾と偽善が蔓延する日本への警告』(扶桑社)

閣僚にしろ、管理職にしろ、いわゆる女性枠として選ばれた場合、その人に求められるのは「女性の閣僚」「女性の管理職」という役割だ。社外取締役としても女性が引っ張りだこだと聞くが、それだって「女性の社外取締役」を置いておけば、ジェンダー平等を実現している会社だとアピールするのに手っ取り早いからだろう。

つまり、女性に変に下駄を履かせるようなことをすれば、かえって「女性という役割」を強要することになりかねず、それはむしろジェンダー平等の精神に反するのではないだろうか。

今はまだ過渡期にあるので、女性を優遇するという手段が必要な部分もあるのかもしれないが、男性と平等の権利が確実に保障されるという状況であれば、わざわざ女性枠など設けたりせず、実力主義でやるほうが真のジェンダー平等が実現しやすいのではないかと私は思う。

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池田 清彦(いけだ・きよひこ)
生物学者、理学博士
1947年、東京都生まれ。生物学者、評論家、理学博士。東京教育大学理学部生物学科卒業、東京都立大学大学院理学研究科博士課程生物学専攻単位取得満期退学。山梨大学教育人間科学部教授、早稲田大学国際教養学部教授を経て、山梨大学名誉教授、早稲田大学名誉教授、TAKAO 599 MUSEUM名誉館長。『構造主義科学論の冒険』(講談社学術文庫)、『環境問題のウソ』(ちくまプリマー新書)、『「現代優生学」の脅威』(インターナショナル新書)、『本当のことを言ってはいけない』(角川新書)、『孤独という病』(宝島社新書)、『自己家畜化する日本人』(祥伝社新書)など著書多数。メルマガ「池田清彦のやせ我慢日記」、VoicyとYouTubeで「池田清彦の森羅万象」を配信中。
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(生物学者、理学博士 池田 清彦)