©︎2024「もしも徳川家康が総理大臣になったら」製作委員会

日本を救うため、偉人オールスターズが現代に大復活した――。そんな奇想天外な映画「もしも徳川家康が総理大臣になったら」がこの夏に上映スタート。大きな話題となっている。映画では最強内閣の一人として、農林水産大臣の徳川吉宗も大活躍しているが、その実像について、偉人研究家の真山知幸氏に解説してもらった。(※本稿は真山氏の『なにかと人間くさい徳川将軍』から一部抜粋・再構成した)

意外性あるも実は「適材適所」な最強内閣

眞邊明人氏原作の、大ヒットとなったビジネス小説『もしも徳川家康が総理大臣になったら』が映画化されたので、中1の長女と映画館で鑑賞したところ、大変よくできた作品だと感心してしまった。歴史人物について学びながら、政治への問題意識も持つことができ、コメディ要素も満載だ。

しっかりと偉人の実像に迫っている点においても、意義深い作品だと感じた。例えば、「生類憐みの令」で知られる5代将軍の徳川綱吉は、映画では厚生労働大臣として、内閣総理大臣をサポート。

「犬公方」と揶揄される綱吉がなぜ……と思うかもしれないが、綱吉は実際に、社会的弱者に寄り添った政策をいくつも実行している(参考記事「犬をデキ愛「徳川綱吉」令和にも通じる深い信念」)。

そして、劇場で思わず吹き出してしまったのが、映画では農林水産大臣となった8代将軍の徳川吉宗の「暴れてないのに……」というボヤキである。


高嶋政宏さんが演じる徳川吉宗©︎2024「もしも徳川家康が総理大臣になったら」製作委員会

吉宗は時代劇ドラマ「暴れん坊将軍」では主人公として人気を博していることもあって「しがらみにとらわれずに、改革を断行した庶民の味方」というイメージを持たれやすい。

だが、実際は多方面に忖度しており、「暴れん坊」どころか、かなり気を遣いながら政務を行っていた。というのも、吉宗は将軍になる経緯で、人間関係であちこちに貸しを作っており、自分勝手に振る舞うわけにはいかなかったのである。映画をより楽しむうえでも、吉宗の実像について解説しよう。

「暴れん坊」どころか多方面で気を配っていた

7代将軍の家継が8歳で危篤状態となると、徳川宗家(将軍家)の血統がとうとう途絶えてしまい、「次期将軍は誰にするのか」と騒がしくなってきた。

紀州の吉宗のほか、尾張から徳川継友、水戸から徳川綱条と、御三家の当主が集められ、老中、側用人らとともに一室にこもって、話し合いが行われている。

その結果、選ばれたのが吉宗だった。年齢は33歳で、すでに紀州藩主として12年間の治世を行った経験が買われた格好だが、実績が決定打となったわけではない。吉宗を将軍に選んでもらおうと、紀州藩の家臣たちによる裏工作が行われたといわれている。

吉宗を将軍にするべく、紀州藩の家臣たちが注力したのは、反主流派の取り込みである。大奥の天英院や新井白石の論敵である林大学頭信篤、そして、老中を始めに幕府の要職にいた譜代門閥層の支持を取りつけるために働きかけた。

そのため、吉宗は将軍になってからも、支持してくれた譜代門閥層や大奥に最大限の配慮を行いながら、財政的に苦しい幕府を立て直さなければならなかった。

徳川家を長く支えてきた譜代門閥層は本来、幕政の中枢にいるべき存在だが、綱吉が始めた「側用人政治」を契機に、段々と軽視されていった。そのため、吉宗は支持してくれた譜代大名のために、将軍になってすぐに「側用人の廃止」に踏み切っている。

その一方で、大奥の二大勢力、つまり、第6代将軍・徳川家宣の正室である天英院の派閥と、家宣の側室で第7代将軍の家継の生母である月光院の派閥のケアも怠らなかった。天英院には1万1100両と米1000俵、月光院には8600両と米1130俵と、手当を増額している。

吉宗は四男であり、紀州の藩主になる見込みさえ薄かった。まさか将軍の座までつかむとは、誰も予想しなかっただろう。それゆえ吉宗は「強運」とされるが、実際のところは、吉宗とその周辺が、将軍の座をつかむべく動いていたのである。

吉宗は将軍の嫡男でもなければ、兄弟でもない。つまり江戸城内には気心知れた相手がいない。「側用人の廃止」によって、将軍へと後押ししてくれた譜代門閥層に配慮したのも、それだけ支持基盤がもろかったがゆえといえる。

だが、幕府の内実を考えると、そうやってご機嫌取りばかりしているわけにはいかない。というのも、元禄時代のバブルがはじけてしまい、不景気が全国に蔓延していた。幕府も財政赤字に陥っており、旗本・御家人への給与の支払いも滞るほど深刻だった。

つまり、吉宗は江戸城での人間関係を一から構築しながら、さらにみなが嫌がる財政改革を行わなければならなかったのだ。そのためには、家柄に頼る譜代大名たちでは話にならない。すでに実績があり、信用できる紀州藩士を登用する必要があった。

信頼できる紀州藩士を重要ポストにつけた

吉宗は「御側御用取次」というポストを作り、紀州藩政を支えた有馬氏倫と加納久通らを抜擢。御側御用取次は「将軍と老中の間を取り持つ」というのがその役割だったが、実質は将軍が政務を行うにあたっての相談役であり、人事にまで介入したようだ。

有馬と加納は将軍の「左右の手のごとく」働いたとされており、将軍直下の実行部隊だったとみるのが妥当だろう。

吉宗が巧みなのは、御側御用取次を「旗本が就く職」として、規定役高を5000石としたことである。これまでの側用人には、身分が低い者もいたが、側用人にとりたてられたことで大名格になった。1万石以上の領地を持ち、老中に準ずる待遇を与えられていたため、どうしても側用人は反感を買いやすかった。

そこで吉宗は、御側御用取次の待遇をあえて手厚くしないことで、抜擢された者たちが嫉妬によって周囲から足を引っ張られるのを防いだのである。

そうして譜代門閥層の顔を立てながらも、信頼できるかつての実務者を登用した吉宗。幕政の中核にいた間部詮房、新井白石をはじめ、小姓や小納戸、奥医師などを退職させて、多くの紀州藩士を幕臣として迎えている。

また、吉宗は大岡忠相を江戸奉行に抜擢し、青木昆陽や西川如見といった異色の学者も登用した。享保7(1722)年には、水野忠之を勝手掛老中(財政担当)に任命。盤石の体制で「享保の改革」へと乗り出すことになる。

そうして昔からの仲間や、自分が「これぞ」と思う人物を慎重に取り立てながら、吉宗は世間の評判もかなり気にしていた。情報統制のために、吉宗が新設したのが「御庭番」という役職である。

「御庭番」という名のスパイに探らせる

御庭番はその名のとおり、任務は庭の番人だが、それはあくまでも表向きのもの。幕府は御庭番に旅費を支給したうえで、旅行を命じて、大名家の内情を探らせたり、自分の打ち出した政策の評判を調べさせたりした。町人へと変装までさせていることからも紛れもなく吉宗のスパイである。

御庭番に任命されたのは、吉宗の生母、浄円院(お由利の方)にしたがって紀州から江戸に出てきた17人であり、吉宗は彼らを桜田の御用屋敷内に住まわせた。吉宗が、最も裏切らない人間関係とみなしたがゆえだろう。

そのほか、吉宗の政策としては、「目安箱」を設置して庶民の声を拾い上げたことがよく知られている。

目安箱に寄せられた情報で詳しく知りたい内容があれば、吉宗が御側御用取次を通して、御庭番に命じて、情報の真意を探る。そんなネットワークが構築されていた。

目安箱は、庶民に寄り添った政策とされている。だが、実は吉宗自身にもメリットがあった。江戸城内に権力基盤をもたない吉宗にとっては、町人や百姓などからの直接的な訴えは、改革を推し進めるうえで、重要な材料となったからだ。

また、自分1人にタレコミが集まるように仕組みをつくったことで、「情報を握りつぶすも、活用するのも、自分次第」という環境をつくり上げることに吉宗は成功したのである。

映画「もしも徳川家康が総理大臣になったら」では、状況に応じた適切な政策を立案し、総理である家康に提案する姿も見られた。まさしく吉宗の用意周到さが巧みに描写されているといえるだろう。

ほかの最強内閣の面々についても、歴史人物をより深く知るヒントがちりばめられている。ぜひそういった視点でも、本作を楽しんでいただきたい。


©︎2024「もしも徳川家康が総理大臣になったら」製作委員会

(真山 知幸 : 著述家)