鼻からの出血により、治療を受ける阿部一二三【写真:ロイター】

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ひやりとした準々決勝、あと1回で棄権負けだった2回の出血

 パリ五輪の柔道男子66キロ級で連覇を達成した阿部一二三(パーク24)が、ひやりとしたのが準々決勝だろう。鼻からの出血で2回止血するアクシデント。同一箇所の3回目の出血は棄権負けとなるため緊張が走った。治療に当たったのは医師の井汲彰さん。2回目の出血後、阿部が再び畳に上がるまでの2分間に何があったのか、詳しい話を聞いた。(取材・文=水沼 一夫)

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 阿部一二三がアクシデントに見舞われたのは、ヌラリ・エモマリ(タジキスタン)との準々決勝だった。開始41秒、袖釣り込み腰で技ありを奪った阿部は2分過ぎに鼻から出血。一度畳を降りて止血したものの、再度出血し、治療に向かった。

 柔道では出血を伴う同じ部位の治療は2回までと決められ、次に出血すれば阿部の「棄権負け」となってしまう。テレビ解説の大野将平は「ちょっと気をつけなければいけないのは確かです」と繰り返し、緊迫した空気に包まれた。

 この時、畳の外で治療を行ったのが井汲さんだった。2012年から柔道代表のドクターを務め、東京五輪後はチーフドクターとして国内外の大会や代表合宿に帯同。五輪はリオデジャネイロ、東京に続き3回目だった。

 しかし、経験豊富な井汲さんにとっても、短時間での2回目の出血は“想定外”の出来事となった。

「2回目に来た時はかなり焦りました。出血した場面は席に戻りながらだったので、じっくり凝視していたわけじゃなかったんですけど、『エッ、また鼻血か。2回目か。やばいな……』というような、自分の中でもかなりドキドキしたのは覚えています」

 ちょうど1回目の止血を終え、ドクターシートに戻った矢先というタイミング。1回目の治療とは状況が異なることはすぐに理解した。

 気持ちは阿部も同じだった。

「本人も降りて来た時に『次やったらやばいですよね』ということは言っていて、『うん、大丈夫だから。とりあえず呼吸整えて。しっかり止血するから』と伝えました」

 言葉では平静を装ったものの、井汲さんは緊張した。

 1回目は鼻の付け根を指でつまんで圧迫止血を行った後、ティッシュを適切な大きさに整形して鼻の中に詰めた。ティッシュは日本製で吸水性が良く、鼻腔の大きさに合わせて整形しやすいという理由で使っているという。詰め方は、試合が中盤を過ぎているということもあり、阿部に確認しながら行った。

「少し息も上がっているなと思ったので、あまりパツパツに詰めちゃうと、今度鼻で息をした時にスポンって抜けちゃうリスクがあるので、ある程度しっかりは詰めるんですけど、最終的な微調整は本人に任せて、『大丈夫か』『はい』と確認して、1回目は畳に戻ってもらった感じです」

 2回目の出血は激しい攻防の中で引き起こされた。映像を見返すと、相手が寝技に引き込む際に、右の膝上部分が阿部の鼻に当たるシーンがあった。

「寝技は特に畳とか相手のいろんなところに顔がぶつかるので、おそらくその勢いで鼻の詰め物が抜けてしまったのか、2回目の出血もかなり量が多かったので、また鼻をぶつけて再出血してティッシュから漏れてしまったのかという状況だったと思います」と井汲さんは分析する。

 だが、次の出血は許されず、同じ止血方法は取れなかった。井汲さんは「圧迫止血もしつつ、止血剤も使ったほうがいい」と判断。開催国のフランスが手配している会場ドクターにもサポートを求め、2人がかりで止血を行った。

「投げれそうなら決めてきます」畳に戻る前に“一本”の誓い

「僕が鼻を圧迫止血しつつ、(血が)垂れてくるのを拭いたり顔を拭いたりしている間に、もう1人のドクターに『止血剤を詰めたい』と言いました。そのドクターが止血剤を出してくれ、『これでいいか』と言ってくれたので、『じゃあ、勢いが弱まったらそれを鼻に詰めてくれ』と片言の英語とジェスチャーでお願いしました。僕が圧迫を離して、出血の勢いが収まっていることを確認したところで鼻の奥に止血剤を詰めてもらって、さらにまた圧迫止血を行い、その後に(ティッシュの)詰め物をさらにして、という形の対応をしました。本人に詰め具合の最後の確認だけはしっかりしてもらって、もう1回、畳に送り出しました」

 その時、阿部が口にした言葉を井汲さんは鮮明に覚えている。

「『早めに決めてきます。投げれそうなら決めてきます』みたいなことを言っていました。僕に言うというよりも、自分に言い聞かせたんだと思うんですよね。そこで気持ちを切らさずに、畳に戻ったらどういうふうに戦っていくかを止血中にずっとシミュレートしていたんだと思います」

 畳に戻った阿部はその言葉通り、試合再開直後に大内刈りを決めて合わせ技一本。準決勝進出を決めた。

 その瞬間、ネット上には「いや、まじでハラハラした」「まさかの敵が鼻血とは」「3回流血で棄権扱いって無慈悲すぎひん?」「鼻血をどうやって止血したのだろうか?」「治療のスキルもめちゃくちゃ重要なんだな」などの声があふれた。

 井汲さんは胸をなでおろした。

「やっぱり阿部選手は凄いなって思いましたね。僕としても内心また寝技とかでガチャガチャやられる前にしっかり決めてくれって願って畳に送り出して、その後最初の攻防の中で大内刈りですからね。本当に安心しました」

頭によぎった阿部VS丸山の代表決定戦「その時に近い緊張感があった」

 普段、筑波大学附属病院に勤務する井汲さんは、自身も柔道選手として活躍。中学で全国大会に出場し、高校ではインターハイ出場。講道館柔道四段の実力の持ち主だ。筑波大医学部に進学し、3年生の時、井汲さんの試合を見た全日本柔道連盟の医科学委員会の先生から声をかけられたのが代表に関わるきっかけになった。

 阿部とは出会って10年以上になる。

「2013年の世界カデという18歳未満の柔道の世界大会が、自分が海外の日本代表チームに帯同した初めての大会なんですけど、実はその時に阿部選手が出ていたんですね。まだ高校1年生でした」

 その後、節目の大会でもドクターとして間近で試合を見届けてきた。忘れられないのは、2020年12月に行われた東京五輪代表を懸けた丸山城志郎との大一番。阿部は鼻と爪から出血し、丸山の柔道着が返り血で染まるほどだった。

「止血は僕がやったんですけど、その時も鼻血を2回止血して、次やったらもう終わっちゃうよみたいな状況でドキドキした。その時のフラッシュバックじゃないですけれども、後々考えると、その時に近い緊張感は今回もあったなというふうには思いました」

 長いキャリアの中で3回の出血で選手を棄権させたことはない。鼻血に限らず、様々な出血や怪我を想定し、チームの中で情報を共有している。

「目の上が切れたり、胸元がすれて出血したり、いろんな状況があるのですが、チームドクターの中で、こういう出血の部位にはこういうテーピングの巻き方がいいんじゃないかっていうような議論は繰り返しして、ブラッシュアップに努めてはおります」

 柔道経験があり、競技愛も深い井汲さんの存在は、柔道代表からも絶大な信頼を寄せられている。

 準々決勝で勝利した阿部は、畳を降りると「投げてきましたよ!」と報告した。井汲さんはアップ会場で再度、止血の状態を確認し、次の試合に備えた。

「阿部選手が負けるとしたら、もうアクシデントしかないので。アクシデントってこういうことだなっていうのがあったので、焦りました」

 阿部の快挙の裏にあった、医師のファインプレー。今後も可能な限り、貢献していきたいという気持ちを明かす。「パリが終わったばかりで、代表チームに関わっていくのかどうかは確定していないですが、引き続き、選手がより良いパフォーマンスを出せるようなメディカルサポート体制を日本代表チームの一員として、チームドクターみんなで作っていきたいなっていうふうに考えております」と締めくくった。

(THE ANSWER編集部 / クロスメディアチーム)