東海大黄金世代・中島怜利が語る、箱根駅伝の価値と選手としての「火が消えた」瞬間
東海大黄金世代は今 第3回・中島怜利(東海大学→大阪ガス→TRIGGER Athlete Club)前編
東海大黄金世代――。2016年、この年の新入生には都大路1区の上位選手、關颯人、羽生拓矢、館澤亨次ら、全国区の選手が多く集まり、東海大は黄金期を迎えた。そして2019年、彼らが3年生になると悲願の箱根駅伝総合優勝を飾った。そんな黄金世代の大学時代の活躍、そして実業団に入ってからの競技生活を紐解いていく。第3回目は中島怜利(TRIGGER Athlete Club)。
第95回箱根駅伝6区を走る中島怜利 photo by MATSUO.K/AFLO SPORT
第95回箱根駅伝で東海大が初の総合優勝をする半月前、大学構内で箱根にエントリーされた選手、両角速監督の記者会見が行なわれた。全体の会見終了後、16名の選手は、個別の椅子に座り、メディアの対応が始まった。当然だが、黄金世代で名前がある選手、チームで結果を出している選手のところには、人の輪ができる。その光景を鋭い眼光で見ている選手がいた。
それが、中島怜利だった。
「1年後、たくさんの人に囲まれているあいつら(同期)を逆転して、自分のほうにたくさん人が来るように、この箱根で結果を出しますよ」
身体中からギラギラしたものを発散し、ストレートに本音を語る姿が印象的だった。
「あの時のことは、今も覚えています。普通に、素直な気持ちで言っていましたね」
今、26歳になった中島は笑みを浮かべて、そう言った。
あの当時、中島は大学3年だった。
彼の世代はタレントが多く集い、「黄金世代」と称され、個人でも目覚ましい活躍をしていた。中島の言葉から察するに、同期に猛烈なライバル心を燃やしていたように思えたが、非常に冷静に見ていた。
「同期に負けたくないとかじゃなくて、いい意味ですみ分けができていたかなと思います。彼らとは、そもそもベースとなる限界値が違うし、5000mや10000mでは勝てないんだろうなと思っていました。でも、それはそれでよかったんですよ。
僕にとってのターゲットレースは箱根駅伝。箱根は、みんな同じ区間を走るわけではなく、6区は自分しか走らないので、誰かと比較されるわけでもない。ただ、みんなはライバル心があったと思う。タイムを競う部内のランキングがあり、『あいつに勝った』『負けた』とよく言っていたので。でも僕は、彼らと陸上の世界観がズレていたし、戦うフィールが違うので気にならなかった」
チーム内では仲間とつるむこともなく、どちらかというと一匹狼的な存在だった。黄金世代の多くは、個人種目に注力していたが、中島は「箱根駅伝がターゲット」と言うように、箱根がすべてだった。普段の練習でも、中島は小松陽平(引退)や郡司陽大(引退)、1学年上の湊谷春紀(NTT西日本)ら「ロード組」と言われる選手と一緒に走ることが多く、距離を踏んで箱根の距離を走る力をつけていた。
「箱根で優勝したかったので。そのために東海大に来たから」
中島は、その目標を達成するために東海大を選んだ。
「僕が(東海大を)選んだ際の基準は、まず監督が僕を必要としてくれていること。次に箱根駅伝で勝てるチームであること。(自分は)進路を決めるのが比較的遅かったので、黄金世代と呼ばれる選手がどのくらい来るのかわかっていたし、これなら勝てそうだなと思ったんです。
あと、5区か6区を走れるかどうか。僕は山が好きで(「二代目・山の神」と呼ばれた)柏原(竜二)さんに憧れていました。東海大は、5区をずっと走っていた宮上(翔太)さんが卒業しましたし、6区も60分をきれていなかった。それなら、自分が走れる枠があるんじゃないかと思って東海大に決めました」
入学後、中島が最初に山区間出走をアピールしたのは、7月の男鹿駅伝だった。両角監督から3区か4区を打診されたが、ほぼ下りの7区(8.38キロ)を走りたいと直談判した。そこで区間賞を獲り、夏合宿の箱根の山を想定した練習でも強さを見せた。夏に箱根6区への候補権を得て、11月には6区が決定した。
2年時は、夏までは平地区間が希望だった。だが、全日本大学駅伝の時、出走する選手は速いだけではダメという部活の現実を知った。
中島は9月の日体大記録会10000mで29分15秒38をマーク。10月の高島平ロードレース(20キロ)では、優勝した川端千都(SGH)と5秒差の59分35秒で2位に入った。次いで、國行麗生(大塚製薬)が5位(59分55秒)、三上嵩斗(SGH)が6位(60分34秒)だった。その結果からすれば、中島は出走できるはずだが、全日本の区間エントリーに名前がなかった。
「僕の最大の弱みは、練習があまり強くなくて、試合しか走れないことなんです。一方、練習で頑張っても、試合で結果が出ない選手がいる。そういう選手からすると、練習でできていないやつに試合だけ取って変わられたら、何のために練習がんばっているんだってなるんです。それを評価しないと、監督やチームに不信感が生まれてしまう。
試合で、『こいつ、走れないだろうな』ってなんとなくわかっていても、監督は練習で頑張っている選手を使わざるを得ない。それが学生スポーツの難しいところなんです。社会人だと、そんなこと一切なんですけどね。僕は、それで使われなかったタイプの選手でした」
悔しい思いを抱えて、中島は6区を決めるタイムトライアルに出て、前年のタイムを1分30秒も縮める圧倒的な走りを見せた。
「その瞬間から僕の箱根は、永遠に6区になりました」
大学2年の箱根は、6区で区間2位になった。迎えた大学3年の箱根では、チームが往路2位。6区の中島は、トップの東洋大に1分14秒差でのスタートになった。
「流れを作るのが、僕の役目。復路は自分からなので、責任感はあるけど、楽しかったですね。普通のレースならここで仕掛けられたらどうしようとか、きつい時、誰かに抜かれたらどうしようとか不安な気持ちがあるんです。でも、6区はうしろから来られることはほぼないし、負けることもないので、自分が好きなように走っていけば勝手に前との距離が詰まっていくって思っていました」
区間賞は57分57秒の区間新を出した青山学院大の小野田勇次に譲ったが、区間2位(58分06秒)でその差は、わずか9秒差だった。そうして東海大は、その中島をはじめ、メンバー全員が自分の力を出し切って優勝した。
「個人の思いはそれぞれあっても、優勝したい気持ちでひとつになっていた。僕を含めて、みんなそれぞれ自分の役割を果たしての優勝だったので、決して奇跡が起きたわけじゃない」
優勝し、中島は改めて箱根駅伝という世界の大きさを知ることになった。
「やっぱり箱根は特別ですよ。みんな、過去5年間の出雲や全日本の優勝チームや選手をたぶん覚えていないと思うんです。でも、箱根は多くの人が知っている。それは、箱根の価値がそうさせているんだと思うんです。
よく、青学大の選手は箱根にピークに持ってきて優勝するが、その後、あまり伸びないっていう声を聞くけど、それの何が悪いのかって思います。箱根で勝って知名度上げて、そこで得たものを実業団や今後の仕事に活かしていくのが大事だと思うんです。僕は今、陸上でビジネスができていますが、自分が好きなことをするために"箱根王者"を活かしています」
箱根駅伝優勝を経て、最上級生になった中島は最後の箱根6区で区間新、そして連覇を目標にしていた。だが、あることをキッカケにして、その気持ちが萎んでいった。
「僕は卒業後、関東の実業団でがっつり陸上をやりたいと思っていたんですが、3年の箱根が終わった時点で決まっていなくて......。いろんな実業団に自分からアクションを起こして聞いたんですが、ほぼ採用枠が埋まっていました。6区で大成した人がいないというのもネックになっていたのかもしれない。
最終的に大阪ガスに決まったんですけど、そこは陸上がすべてではなく、働きながら陸上もがんばりましょうというスタンスなんです。会社が地元の兵庫県だし、これから普通に走って30歳手前で引退するんだろうなって、リアルに先が見えてすっかり(意欲を失って)落ちついてしまった。選手の火はこの時、ほぼ消えました」
競技へのモチベーションが低下し、記録会やレースでは5000mで15分12秒72、10000mでも31分27秒37と、にわかには信じがたいタイムを出してしまった。それでも、両角監督に「(箱根に)勝負してみるか」と問われたが、「間に合わないです」とエントリーされる前に断った。
最後の箱根、黄金世代で出走したのは、鬼塚翔太(makes)、西川雄一朗(住友電工)、館澤亨次(DeNA)、小松、松尾淳之介(NTT西日本)、郡司の6名だった。
「もし、大学4年の時、僕や關(颯人・SGホールディングス)、阪口(竜平・On)、羽生(拓矢・トヨタ紡織)ら黄金世代と言われた選手が全員揃って、調子がいい状態で箱根駅伝に出場していたら、どうなっていたのか。誰が何区を走り、どんな記録が出ていたのか。
それを考えると楽しいけど、結局、僕らはその妄想のままで終わってしまった。みんな横並びで駅伝に合わせることができなかった。それが、僕らの黄金世代のおもしろいところであり、悪い所でもあると思います。
たとえば羽生は、『完全復活だ』と5回ぐらい言われていたけど、最後まで出てこなかった。全員が揃わず、いつまでも不完全なままだったから僕らの代は魅力があったと思いますし、今も記憶に残っているんだと思います」
(つづく)