日本ハムに「好きで入ったわけではない」 “ブチギレ相手”が監督就任「俺は終わった」
プロ8年目・32歳で初レギュラー…元日本ハム主将・広瀬哲朗氏が定位置をつかむまで
プロ8年目、32歳で初めてレギュラーとなり、そこからオールスター出場2回、ベストナイン2回、ゴールデン・グラブ賞2回の実績を残した“遅咲き”の典型のような選手がいた。北海道移転前、東京ドームを本拠地としていた時代の日本ハムをキャプテンとして牽引した広瀬哲朗氏。その軌跡を本人が振り返った。
広瀬氏は静岡・富士宮北高から駒大、本田技研を経て、1985年ドラフト1位で日本ハム入り。最初の春季キャンプを迎えた時点で既に25歳になっていた上、プロ3年目までは1軍でほとんど存在感を示せなかった。転機は1988年オフ、近藤貞雄氏が監督に就任したことだった。
近藤氏はそれまでに中日、大洋(現DeNA)で監督を務めた経験があり、大洋では1番から3番に俊足の選手を並べて「スーパーカートリオ」と命名するなど、アイデアマンとして知られていた。日本ハム監督就任直後、千葉・鴨川市での秋季キャンプで広瀬氏の守備に目をつけ、こう声をかけたという。
「お前の守備は天下一品だ。ただし、打撃は三流だから、無駄な抵抗はするな。守備だけやっておけ」
ジョークかと思いきや、翌春の沖縄・名護キャンプで広瀬氏は、午前中に守備練習を終えると、午後の打撃練習から外され、宿舎へ帰るよう指示された。「午後はやることがなくなったが、全然実績のなかった私が帰れるわけがない。バットを持ってうろうろしていたら、近藤さんに『貴様、俺の言うことを聞けないなら2軍へ行かせるぞ』とマジギレされたよ」と苦笑する。
ただ、向こうっ気の強い広瀬氏も負けてはいなかった。「頭に来たからさ、今はもうないけれど、当時球場の隣にあった一般のバッティングセンターで軟球を打ってやったよ。近藤さんもそれを知って笑っていた」と振り返る。
実際、広瀬氏は近藤監督の下で守備要員として1軍出場機会を増やした。さらに「守備固めで途中出場を続けていると、たまに打席が回ってくることあって、どうせ期待なんかされていないからと気軽に打席に立つと、結構打てるようになった。少しずつ自信がついていったよ」という副産物もあった。
大沢監督就任で「俺は終わった」と青ざめたが…待っていた意外な抜擢
レギュラーの座を獲得したのは、それまで球団常務取締役だった、“大沢親分”こと大沢啓二氏が監督として現場復帰した1992年。実は、広瀬氏は大沢氏の監督就任を聞いた瞬間、「俺は終わった」と青ざめたという。大沢氏とはそれまで、シーズンオフの契約更改交渉の席で丁々発止のやり取りを繰り広げていたからだ。「大沢さんが『おめえには契約金をやり過ぎた』と言うから、思わず『俺だって好きで入ったわけではないですよ』と言い返して、『何、貴様!』と怒らせていた」と明かす。
しかし、大沢監督は意外にも、広瀬氏を正遊撃手に据え、さらに「その明るさをチームに浸透させてくれ」とキャプテンにも任命した。前年5位に低迷し、沈滞していたチームの雰囲気をガラリと変えるための策だった。チームは大沢監督の下で2位に躍進。広瀬氏自身も、この年から遊撃手として2年連続でベストナインとゴールデン・グラブ賞を両獲りした。
1993年には、当時常勝を誇っていた西武の森祇晶氏監督の推薦で、オールスターにも初出場。「パ・リーグのベンチはすごい選手ばかりで緊張したよ。当時西武の清原(和博氏)からは冗談で『広瀬さん、最初で最後のオールスター、頑張ってください』と言われたけれど、こんなにいい思いができるならと頑張って、翌年(1994年)はファン投票1位で出てやったよ」と胸を張る。いつ、どんな状況でも、人一倍の負けん気が広瀬氏を奮い立たせた。
現在63歳となった広瀬氏は、東京・江戸川区の軟式少年野球チーム「城東ベースボールクラブ」で子どもたちの指導に携わっている。「人生は出会いだと思う。俺は近藤さん、大沢さんにチャンスをもらったし、今の仕事をやらせてもらっているのも、人との出会いがあったからだから」。現役時代とはひと味違う、好々爺らしい穏やかな笑顔を浮かべている。(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)