大堀彩の人生は、幼少期からバドミントンともにあった photo by 中村博之

バドミントン・大堀彩インタビュー 後編

 パリ五輪バドミントン女子シングルスの選考レースを勝ち抜いた大堀彩(トナミ運輸)。父・均さんは、富岡高校バドミントン部監督として東京五輪代表の桃田賢斗、2大会連続五輪出場の混合ダブルスの東野有紗と渡辺勇大らを育てた名コーチであり、大堀は幼少期からバドミントンに親しんできた。

 ジュニア期には国内トップレベルで台頭し、国際大会でも活躍。しかし、オリンピックへの道のりは、山口茜、奥原希望という同世代のふたりのライバルの存在も含め、自身の気持ちとは裏腹に遠いものになっていった。

 バドミントンとともにあった自らの人生、そしてオリンピックまでの道程で抱えていた葛藤について、振り返ってもらった。

【オリンピックへの憧憬と厳しい現実】

ーー生活のなかにバドミントンがあった人生を歩んできていますが、父親が指導者というのはどういう環境だったのですか。

「それが当たり前で、窮屈に感じることはほとんどなかったです。高校の時は娘ということもあって人一倍怒られていた記憶はあるし、その時は『なんで私ばっかり』とは思っていたけど、今思うと『まあ、そうだよな』っていう感じです。

 小学校に入ってからはピアノを習ったり習字を友だちと始めたりして、バドミントンより習い事のほうが楽しい時期もありました。でも、一番結果が出ていたのが全国小学校大会でも優勝したバドミントンだったので、結局競技を継続することにしました」

ーージュニアでも結果を出しましたが、その頃から1歳上に奥原希望選手(太陽ホールディングス)がいて、1歳下には山口茜選手(再春館製薬)がいました。ふたりを上回る結果が出ないと「なんで?」と思うこともあったのではないですか。

「そういう部分もありましたが、ずっと運命だと思っていました。あのふたりがいるから1番になれない苦しさは、ジュニア時代からありました。どちらかに勝てても絶対にもうひとりいて、常に1番になれない状態が続いていたので、そのもどかしさ、そこを超えていけない自分に対する苛立ちもありました。

 でも、ふたりがいなかったら競技力もここまで上がらなかったと思います。いなければ優勝していたかもしれないけど、海外に行ったら勝てていなかったかもしれない。そう思うと全部巡り合わせなんだと。今までずっと2番手、3番手にいたことも意味があると思います。

 ふたりが突っ走ってひとりだけ取り残されている時期が本当に長かったけど、相手は世界で1番、2番。その時々の悔しさがあったから頑張れた部分もあると思います」

ーー社会人1年目で移籍もありましたが、2018年の世界ランキングが13位になった頃はどうだったのですか。

「その時はB代表でしたけど、廣瀬栄理子コーチがいた時で自分を自分以上に理解してくれるコーチでした。すべての練習に意味があり、その練習の充実感が試合にもつながっていた時期でした。

 ただ、B代表のグレードの試合で勝ち続ければ13位くらいまでには上がるけど、A代表の試合にはいっさい出ていないうえでの結果でした。A代表レベルの試合に上がった瞬間にレベルのギャップにやられて全然勝てなくなり、1回戦を突破するのが本当に大変でした。ランキングもダダダッと落ちて、という感じでした」

ーーその時は東京五輪を狙えるという気持ちにはなっていなかったのですか。

「トップに茜ちゃんと奥原さんがいたので、オリンピックは本当に遠い存在でしたね。目指してはいましたけど、現実問題、厳しいというのはわかっていました。

 高校の時に東京五輪の開催が決まり(2013年)、そこからはずっと東京、東京と言って自信もあったけど、上(シニア)の世界に入っていった時にすべての自信を失って......。今まで調子に乗っていた自分を、本当に恥ずかしく思いました。

 高校まではバドミントンに対しても、本当の意味で真剣に向き合っていなかったと思いますし、周りに持ち上げられている部分もあって、オリンピックも『続けていれば出られるだろう』くらいに簡単に考えていたと思います。それがいざトップの世界に入ってみたらそんなことは全然なかった。『オリンピックとは、そういうもの』と思った時に、急に自分が小さく見えて『なんでこんなことで満足しているんだろう』と思うことが次第に増えてきた感じです」

【パリ五輪への道は巡り合わせ】


粘り強く続けてきたことがパリ五輪への道を切り拓いた

ーー東京五輪後の2022年には、世界ランキングが37位まで落ちる時期もありましたね。

「ナショナルB(代表)に落ちて、今思えばあそこが一番苦しかったですね。何をしてもうまくいかない時期で、試合でも『どうやって勝つんだっけ?』と勝つ感覚を忘れ、ランキングが下の相手にも負け始めていました」

ーーそこから徐々にランキングを上げ、本当にオリンピックを狙い始めたのは、昨年のアジア大会後から?

「本当にそうです。五輪選考レースは2023年5月にスタートしたけど、オリンピックに出られると思ってスタートしたわけではありません。実際、最初の3〜4カ月は何も結果を残せていませんでした。

 でも9月のアジア大会で3位になって、世界ランキングも一気にパリ五輪出場圏内近くまで上がったので、『この調子とこの感覚をずっと保てれば、もしかしたら』という思いがちょっと生まれてきました。それからは、それまでよりも練習の質を上げることができました」

ーーアジア大会のグレードが、全英オープンなどと同じスーパー1000に上がり、獲得ポイントが増えたことも大きな要因でしたね。

「直前になって急に1000になったけど、やっぱりそれも運です。アジア大会も予定どおり2022年に開催されていたら(実際は1年延期)、私はメンバーにすら入れていませんでした。そう思うと本当にすべてが巡り合わせ、運命だなっていうふうに思います。

 自分でも予想外のことが五輪選考レース中には多くて、もうひとりの自分から自分自身を客観視したら、『本当に自分?』と思うようなことがアジア大会あたりから本当に多くなりました。試合をしていても、何か自分とは思えないくらい体が動くことが多かったです」

ーー今年4月のアジア選手権で東京五輪銀メダリストの戴資穎(タイ・ツーイン)選手(チャイニーズタイペイ)に勝った時は、今までにない喜び方をしていました。冷静でいなくてはと心に被っていた殻が、少しずつ剥がれてきたのかなとも感じました。

「やっぱり、1試合に対する意識や執念が変わったと思います。1試合の重さ、大切さを最近は本当に感じるので、勝ったらうれしいし、負けたらいつも以上に悔しさを感じます。その意味ではもう、本当にこの1年の成長だと思います。

 長い間、自分の殻を破れなくて閉じこもっていた。でも本当に予期せぬ場所だったアジア大会で想像もしてない結果が出てからは、ちょっとずつ殻を破ることができて自分でも予想外の結果になっていったという感じはあります」

ーーパリ五輪では自分をすべて出して、『自分はこんな人間だったんだ』と発見できるといいですね。思いきり喜んだり、思い切り泣いたり。

「五輪選考レース中も精神的には苦しかったので、ひとりで部屋にいる時に気づいたら涙が出ていたり、そういう日ばかりでした。ただ、どうしても人前では自分を強く、カッコよく見せたいので、涙を流すのはイヤなんです。うれしい時は笑うけど、どちらかといえばあんまり感情を出したくないのは少なからずあります」

ーーうれし涙ならいいのでは?

「それが一番カッコいいけど、優勝じゃないと......。今でも準決勝を勝っても心から喜べない部分があって、優勝してようやく素直に笑顔になれる感じです。やっぱり優勝のうれし涙はオリンピックなどの特別な場所でしか流せないでしょうね。

 でも、自分が納得できればうれしいし、本当にそこが1番のゴールで『納得がいけば結果は自然に』と思うので、自分自身を出しきる努力や準備をしていくべきだと思っています」

【ファッションの街・パリへ】

ーー以前、アパレルブランドのモデルもやっていましたが、ファッションに興味はあるのですか。

「私自身、女子力はまったくないのですが、洋服は大好きなので、遠征中でもスマホでずっと服を見たり、休みの日は買い物に行くことも多いので、(モデルを経験する機会があって)シンプルにうれしかったですね。

 以前、知り合いの占いをやっている方に私の将来の天職を聞いた時、『アパレル関係が向いている』と言われて。それが当たるとか当たないとかはちょっとまた別問題ですけど、興味がある分野なので気になりました」

――パリはファッションの本場。大会終了後にそんな趣味にあてる時間もあるかもしれませんね。

「フランスオープンの時などは、毎回試合が終わってから代表のメンバーとパリの街をフラフラ歩いたりしたんですけど、ちょっと値段のケタが違うので手が出ないかなと思います(苦笑)」

【Profile】大堀彩(おおほり・あや)/1996年10月2日生まれ、福島県出身。富岡第一中学校→富岡高(ともに福島)→NTT東日本→トナミ運輸。高校時代はインターハイ団体戦優勝ほか、個人では2012年から3年連続世界ジュニア選手権に出場し、3位、準優勝、3位の成績を収める。シニアの世界選手権6回出場を始め、国際大会で活躍するも、オリンピック出場には届かなかったが、パリ五輪シングルス代表に内定した。