連載 怪物・江川卓伝〜巨人のエース・新浦壽夫の証言(後編)

前編:江川卓の入団時に巨人のエースだった新浦壽夫の矜持>>

 1979年、巨人に入団した江川卓だったが、「空白の1日」問題による余波で、キャンプ、オープン戦の参加禁止、開幕から2カ月間は一軍試合出場禁止のペナルティーを受けた。

 巨人はドラフトボイコットにより、新戦力はドラフト外で獲得した鹿取義隆と、テスト入団した通算189勝の石井茂雄のふたりだけにとどまった。

 それでも4月は10勝6敗1分、5月は12勝9敗1分で首位をキープ。この年、新浦壽夫は栄えある開幕投手を務め、小林繁が抜けたあとエースとして認められる。5月末までに10試合に先発し8勝2敗。まさに20勝ペースの上々の滑り出しだった。


プロ初勝利を挙げ、リリーフした新浦壽夫(写真右)と握手する江川卓 photo by Sankei Visual

【江川の一軍合流により崩れたバランス】

 そして6月1日から江川が一軍合流となった。

「こっちとしては、上から言われることを仕事としてこなしている思いでやっていました。ここまで投げられるのはすべて長嶋さんのおかげだって言う人が必ずいて、世の中、自分の考えだけでバランスを取る人たちがいるから、いちいち目くじら立てて反論してもしょうがない。江川の初登板(6月2日)のあとだったかな。後楽園球場の監督室に呼ばれて『明日から江川のケツ(リリーフ)に回れ』と言われた時は『はぁ?』と思いました。『エースをつくる』というようなことを言われて、『オレ、エースじゃないのか?』って一瞬疑いましたけどね。

 むしろ逆に『オレもそろそろ剥がされる時が来たか』って。やっぱりプロ野球選手としての宿命じゃないですけど、そういうこともあるのかなと思いながらね。とにかく江川に対して、次につながる勝ちをつくりたいためにその代償として使うんだということですよね」

 6月17日、後楽園球場の広島戦、江川のプロ入り3度目の先発だ。5対1とリードした8回一死二塁で、江川は突如マウンド上で鼻血を出す。俗にいう「鼻血ブー事件」だ。この頃、江川が少しでも突飛なことをすれば「○○事件」と命名された時期である。

 鼻血を出した江川は、長嶋監督、トレーナーがマウンドに駆け寄るが大事をとって降板。鹿取義隆がつなぎとして上がるも、衣笠祥雄にフォアボールを出してしまい一死一、二塁。ここで、すでに9勝を挙げているエースの新浦がリリーフで出た。

 後続をピシャリと抑え、そのまま9回も投げた。完全に江川にプロ初勝利を挙げさせるための継投だった。

 新浦にとって、この継投は事前に言われていたこともあって、何も言わずブルペンに行き、急ピッチで肩をつくってリリーフ。その2日後には横浜スタジアムでの大洋(現・DeNA)戦に先発している。

 この1979年シーズン、6月に江川が一軍合流してからチームは6連敗を喫し、どことなくチームバランスが崩れていった。スポーツは技術もさることながら、メンタルの要素が大きい。プロフェッショナルのアスリートは、どんな状況下においても全力でプレーすることを心がけている。

 でも、プロとはいえ所詮人間である。江川が入ることで、不協和音とは認めたくないが、どこか集中しきれていない選手がいたのも事実だ。それでも新浦はある意味、江川の意思の強さを認めていた。

「空白の一日事件により巨人がドラフトをボイコットし、ペナルティとして江川はキャンプ参加できずに、栃木で巨人OBのキャッチャーの矢沢(正)さんとふたりきりでトレーニングをし、世間からの言葉に耐えてきたわけですから。彼の巨人に対する思いの強さ、野球に対する強さというものは相当なものがあったということでしょうね」

 結局、新浦は江川の一軍合流後にリリーフも兼任したため、20勝に届かなかった。それでも15勝11敗5セーブ、防御率3.43。そしてリーグ最多の223奪三振、投球回236.1イニングはともにキャリアハイとなった。

 これで4年連続2ケタ勝利を挙げ、エースの称号はしばらく不動だと思われた。オフにはある雑誌の企画で、来季の三本柱を銘打って新浦、江川、西本聖の座談会が行なわれ、「3人で50勝を挙げる」という怪気炎とは思えない決意を示した。

【世代交代の波にのまれていく】

 しかし翌年の1980年、年明けから新浦はヒジに違和感を覚え、やがて痛みへと変わっていった。

「やはり4年間の疲れですね。ヒジがパンクした。休めばすぐ治せるはずだったのが、エースという看板をつくり上げた以上、なんとか自分で立ち直らなきゃいけないという気持ちが強くて、傷口がどんどん広がっていった。春先に『ヒジが痛いです』って言うと、『無理しなくていい。二軍に行ってもいいんだから』って返ってきたから、『いや、もう少し頑張ってみます』と。結局、7月まではダメだったね」

 勤続疲労によるヒジ痛。この4年間、先発とリリーフのフル回転で投げていた。78年には63試合の登板で先発9のうち完投5、15勝7敗15セーブで投球回数は189イニングに達した。つまり、リリーフで回またぎの2イニング、3イニングは当たり前に投げていたということになる。それが4年間、このような起用法で投げていればヒジに支障が出てもおかしくない。

「79年オフに伊東キャンプがあったんですが、長嶋さんから『おまえは疲れているから休め』と言われて、若手だけのキャンプになった。たしか、西本、定岡(正二)、鹿取、角(盈男)が同級生で、そのひとつ上が江川かな。そこに中畑清が入り、篠塚利夫(=和典)、松本匡史が入ってくる。若手だけの仲良しグループができたんです。それで81年に原辰徳が入ってきて、V9 戦士がほとんどいなくなりました」

 1980年、巨人は61勝60敗9分の3位に終わり、長嶋が事実上の監督解任。そして王貞治も現役引退。伊東キャンプで鍛えた若い選手たちが主力へと育っていき、「ヤングジャイアンツ」と呼ばれていく時期だ。

 1981年から藤田元司が監督に就任し、新浦の出番はさらに減っていく。

「森(祇晶)さんや吉田(考司)さんが正捕手の時に『フォークかスライダーを放りたいんですが』と言っても『そんなの放らなくていい。捕るのが面倒くさい』と返される。裏を返せば、球種を増やすよりもストレートとカーブの精度を上げろっていうことだったかもしれないけど、きちんと放っていたらピッチングの幅もすごく変わったなと思います。

 それをできたのが江川ですよ。『こういったものを放りたい』『こういった球でいく』と同級生の山倉(和博)だと何でも言えるわけだから。山倉ともバッテリーを組みましたが、首脳陣からしたら勝ちにつないでもなんとも感じてなかったんじゃないでしょうか。江川と山倉で抑えてくれたほうがいいなっていう感覚ですから」

 2年目に江川が16勝で最多勝のタイトルを獲り、江川を中心とした世代が巨人の中軸となっていき、ひとつ上の世代の新浦たちは自然と中心から追いやられていった。

(文中敬称略)


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している