「常に崖っぷちに立たされている感覚」のなかで、斎藤佑樹のモチベーションを上げた一冊の本との出会い
2021年、ファイターズの開幕戦が所沢で行なわれた3月26日、32歳の斎藤佑樹は鎌ケ谷にいた。この日、二軍はジャイアンツ球場でイースタン・リーグの試合があって、鎌ケ谷に残っていた斎藤はブルペンであらゆる球種を、力を込めて投げ込んでいた。右ヒジの靱帯は断裂していたはずなのに、かなりの強度で投げることができていたのはなぜだったのだろう。
2021年7月12日、右ヒジの故障から269日ぶりに実戦復帰した斎藤佑樹 photo by Sankei Visual
そもそも、あの時までがリハビリで、ここでリハビリは完全に終わった、とわかりやすくわけられるものじゃないんです。喩えるなら『ストリートファイター』のゲージみたいな感じかな(笑)。満タンになったから実戦というわけじゃないし、減っていても実戦はできる......そう思っていました。
靱帯についてはヒジの中を覗けるわけでないのでどうなっていたのかはわかりませんが、あの時点で痛みはありませんでした。沖縄でのキャンプを終えて鎌ケ谷に戻ってきてからは、すべての球種を投げています。
ヒジのことよりも肩に負担をかけない使い方を試していたんです。自分では力感みたいなものを感じられないフォームでしたが、ラプソード(レーダーとカメラを組み合わせてデータを収集、分析する測定器)で測定するといい数字が出ていました。スピードは130キロ台でしたが、靱帯断裂の診断を受けて半年でしたから、回復は順調だと思っていました。
夏になって(7月12日)、イースタンのベイスターズ戦で1イニングを投げて実戦に復帰しました。それから二軍の試合で1〜2イニングのリリーフが続きましたが、フォーシームでバンバン押せるピッチングはできていませんでした。
あの頃、そういう雰囲気を出せれば、もっとおもしろく野球ができるだろうなともどかしく思っていたのを覚えています。イメージのなかにあるフォーシームを投げられなかったのが右ヒジを痛めたからなのか、年齢のせいなのか、それとも技術的なことが理由なのか......そこは自分でも答えは見つかりませんでした。
ただ、明らかにフォーシームのスピードが遅くなっていて、変化球に頼らざるを得ない状態でした。だから、そういうなかで僕が持っている手持ちのカードをフルに使うことで、思い描くバッターとの対峙の仕方を模索しなければならなかったんです。もしあの時、その3年くらい前に投げていたあと5キロ速いフォーシームがあれば、もっと幅が広げられたのに......と悔いが残っています。
【8月になってもファームにいる焦り】6月に33歳になっても、身体の筋量は何年もほぼ変わっていなかったんです。だから身体のなかにあるものは何も変わっていなかったはずなんですが、肩やヒジが痛かったことで、最後の押し込まなきゃいけないところでボールを押し込めなくなっていました。
最後、押し込むときって、関節にその力が全部かかってくる感覚があって、それがその3年前まではあったんです。ちゃんと全部がガチッとはまって、ボールを押し込める。それがあの時は、どこかを抜かないと痛いか、痛くなるかもしれないという不安が常にあって、押し込めなかった。
実際、ヒジよりも右肩に痛みはありましたし、その怖さがフォーシームを納得できない質に落としてしまったのかもしれません。もっと強いフォーシームがあったらラクに投げられることは間違いないと思っていましたが、あの時の僕にはそれを求めるだけの時間がないこともわかっていました。だから手持ちのカードを目いっぱい使ってやるしかないと腹を括っていたんです。
夏になった頃に撮ったMRIで、靱帯は80パーセントつながっていると診断されました。そこまで再生してくれれば、十分、投げられるはずでした。ヒジを酷使しながら、靱帯が切れかかっても投げているプロのピッチャーはいくらでもいますからね。
33歳になって、年齢イコール野球歴と考えるなら、確実に身体の痛みとか、たくさん投げてきたことによる弊害はいくらでも出てきていたと思います。でも、走ったり、トレーニングをしていて衰えを感じたことはありませんでした。だから一軍で投げるチャンスをつかめないまま、夏が終わろうという頃には焦る気持ちが出てきましたね。
8月に入ってもファームにいるとなると、いつも焦る気持ちはありました。ましてプロ11年目ともなれば、一回一回の登板がすごく大事になってきます。もうこんな時期か、ここから抑えていかないと一軍に上がっても何試合かしか投げられないぞ、と考えたら、当然、焦りは出てきますし、常に崖っぷちに立たされている感覚はありました。
【マウンドでは右脳を大事にしたい】そんな時、面白い本に出会いました。僕、本はけっこう読み慣れていて、かなりのスピードで読めるんですけど、僕がおもしろいと思う本は、自分が実践していて、それを言葉にしてくれている本だったりするんです。それが、アドラー心理学を解説した『嫌われる勇気』(岸見一郎、古賀史健)でした。
要は、他人のことは気にするな、自分のやるべきことだけに集中すればいい、他人が何をしようとも自分がやることは変えられないから......という内容なんですが、それは当時の僕にとって共感できる内容でした。
そういう考え方が野球に生かせることもあって、これ、逆説的なんですが、今までは自分さえちゃんとしていれば、自分さえよければ、野球って結果が出るものだと思っていたんです。相手を見てもしょうがない、自分のピッチングさえできれば、それ以上はできないし、それ以下もない......そう思っていました。
でも、相手を見ることって大事なんじゃないかなと思ったんです。野球は相手があってこそのスポーツです。だったら自分の持っているカードをただ披露すればいいというわけじゃなくて、それを相手の弱点に落とし込まなきゃいけない。それを落とし込むことが野球のおもしろさだと思うようになりました。
アドラー心理学の話になぞらえて言うと、結局、相手のことが見える、というのは僕の感覚だけの話であって、それが本当にそうなのかは第三者には判断できることではないはずです。結果が出ていれば、相手が見えていたからだと自分でも言いやすいし、周りからもそうやって言ってもらえる。
でも、それをデータで見たら本当はどうなんだろうと、検証できるんです。たとえば「このバッターは、スライダーは振ってこないから、真ん中にポンっと投げればいい」と思えた感覚って、相手が見えたと言い換えられます。ところが、そもそもこのバッターは初球を振らないタイプだとか、初球のスライダーには手を出さないタイプだということがデータに表れていたりする。だから「相手が見える」と、「相手のデータを把握する」というのは表裏一体なんです。そういうことがおもしろくなっていました。
ただ、そこで難しいなと思うのは、打たれないところに投げればいいやっていう僕の感覚って、右脳で考えていることだったんです。僕がおもしろいと思っているデータは左脳で考えることでした。僕はマウンドでは右脳を大事にしたいし、バッターに対する自分の感覚を大事にしたい。データはこうだとしても、「いや、ここはストレートで勝負したい」というときがある。その結果、打ちとったときの喜びは大きいんです。その右脳の感覚は野球人としての僕の武器だったと思っています。
逆にデータを生かす左脳のピッチングは、後天的なものです。たとえば、相手バッターの打球速度と打球角度って、数字で出るじゃないですか。打球速度が遅いのに打球角度が高い選手はフライアウトが多い。だったらフライを打たせればいい、という答えが出てきます。そのバッターはホームランを打ちたいから打球角度を上げたいと思っているわけで、じゃあ、実際にホームランを打ってるボールを見たら、打球速度が遅いんだから、どうしてもその球種、コースは限られてきます。
ただし、厄介なのは打球角度が低いのに打球速度が速いバッターで、打球角度が低ければフライアウトを取りにくくて、ヒットになりやすい。しかも打球速度が速いから長打になるケースも増えてくる。そういうバッターにはゴロを打たせたいと思って投げます。どんなに強い当たりでも野手の正面ならアウトにできますからね。もう少しフォーシームが速ければ、データに基づいた駆け引きを存分に体現できたんですけど、ちょっと遅かったですね(苦笑)。
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9月20日、平塚でのイースタンのベイスターズ戦。ファイターズの2番手として3回からマウンドに上がった斎藤は1イニング、21球を投げた。やはりストレートのスピードは出ない。2本のツーベースヒットを打たれて1点を失い、試合後、右肩に痛みを覚えた斎藤は病院へ向かった。そこで右肩の関節唇と腱板が損傷していることを知らされる。右ヒジではなく右肩──その時、彼はもう投げられないと悟った。程なく、斎藤は引退を決意する。
次回へ続く
斎藤佑樹(さいとう・ゆうき)/1988年6月6日、群馬県生まれ。早稲田実高では3年時に春夏連続して甲子園に出場。夏は決勝で駒大苫小牧との延長15回引き分け再試合の末に優勝。「ハンカチ王子」として一世を風靡する。高校卒業後は早稲田大に進学し、通算31勝をマーク。10年ドラフト1位で日本ハムに入団。1年目から6勝をマークし、2年目には開幕投手を任される。その後はたび重なるケガに悩まされ本来の投球ができず、21年に現役引退を発表。現在は「株式会社 斎藤佑樹」の代表取締役社長として野球の未来づくりを中心に精力的に活動している