連載 怪物・江川卓伝〜アメリカ留学から空白の一日(後編)

前編:留学中の江川卓に突然の「巨人に入れるから帰ってこい」の連絡はこちら>>

 今から46年前、1978年の秋、突如モラハラの嵐というべき事象が沸き起こった。日本中の全メディアがたったひとりの青年にありったけの感情をぶつけて叩きのめした。

 空白の一日──江川卓にとって、野球人生が決められたといってよいほどのエポックメイキングが訪れる。いやそんな単語では片づけられないくらいの汚点ともいうべきか、野球史に残る未曾有の出来事の主役に祭り上げられたのだ。


ドラフト前日に会見を開き「巨人と契約した」と語る正力亨オーナー(写真左)と江川卓 photo by Sankei Visual

【野球協約の盲点をついた空白の一日】

 ここでひとつだけ言っておきたいのは、ことの経緯はさておき、江川には何も決定権がなかったということだ。しかし、この『空白の一日』では江川ひとりが矢面に立たされ、ボロボロに傷ついた。

 1978年11月20日、ロサンゼルスで野球留学していた江川は急遽帰国し、留学の報告と挨拶を兼ねて、後見人である自民党副総裁の船田中の邸宅を訪問している。そして翌21日の午前8時頃に巨人軍の上層部から説明を受けて統一契約書にサインをし、午後9時30分に記者会見を開く。

 巨人オーナー・正力亨の「ただいま巨人軍は江川くんと契約をいたしました」の一声で、集まった報道陣は呆気に取られた。明日に控えたドラフトの超目玉・江川卓が巨人軍と契約した......!? 意味がまったくわからないし、いきなり大上段に言われても、そう簡単に事態が飲み込めるはずがない。

 当時の野球協約133条の「選択会議で選択することができる新人選手は、日本の中学、高校、大学に在学しいまだいずれの球団にも契約したことのない選手と、選手契約を締結するためには選択会議で同選手に対する選手契約締結の交渉権を取得しなければならない」とある。

 さらに第138条には「球団が選択した選手と翌年の選択会議開催日の前々日までに選手契約を締結し支配下選手の公示をすることができなかった場合、球団はその選手に対する交渉権を喪失する」と明記され、それに伴って141条の「球団は選択会議終了後、いずれの球団にも選択されなかった新人選手と自由に選手契約を締結することができる」に基づいて、巨人軍は契約に至った。

 つまり11月22日のドラフト会議がある前日の21日は、クラウンとの交渉権が切れ、浪人中の江川は自由に契約できるという解釈のもと、巨人が暴挙に出たわけだ。

 しかし、141条の「いずれの球団に選択されなかった新人選手」と明記している以上、江川は当てはまらない。133条の「日本の中学、高校、大学に在学し」は、共通認識として「在学していた者」と捉えていたし、この年の8月にプロ野球実行委員会で133条に「在学した経験を持ち」を、79年度から挿入することを決めていた。

 盲点を突いたと言われているドラフトの前々日に交渉権が喪失しフリーになること自体、スカウトに配慮したドラフトの予備日として設けられていると関係者は知っていた。まさに巨人は、都合のいいように拡大解釈し、悪用したのだ。

【巨人がドラフト会議をボイコット】

 日本中から非難を浴びたのは言うまでもない。巨人側が法律的に正当性をいくら声高らかに断言しても、野球協約は六法全書ではなく、野球界における大事なルールブックであり、法律と照らせ合わせるものではないことくらい巨人だってわかっている。それなのに法律を盾にして愚行を犯す。まさに「無理を通せば道理が引っ込む」ではないが、巨人は民法上において有効だと主張する。

 しかし、巨人寄りとされる鈴木龍二セ・リーグ会長が巨人を除く11球団で構成される実行委員会に諮り、満場一致で江川の登録申請は却下された。民法上は有効でも、プロ野球機構からは無効とされたのだ。

 これにより、さらに事態は紛糾した。巨人はドラフト会議をボイコットし、長谷川実雄代表はリーグ脱退も辞さないとまで公言し、社会問題にまで発展する。

 そもそも江川と巨人に対して、野球ファンや関係者が不快なイメージを持ったのは、クラウンにドラフト1位指名後の会見で、自民党副総裁の船田中代議士と代行役の蓮美進秘書といった政治家が介入してからだ。クラウン指名拒否からアメリカ留学の動向を見ていた名将・水原茂は、「政治家が介入したら、次に起こるのは法の抜け道探し」と断言し、そのとおりとなった。

 この年、ヤクルトを率いて初の優勝を飾り歓喜に沸いた監督の広岡達朗は、江川事件についてこう言及した。

「自分の意思で自分の将来を決められないような立場の男を入団させると、将来に禍根を残すことになる」

 当時大洋(現・DeNA)監督の別当薫は「政治家のヒモつきではね」とあからさまな拒絶反応を示す。

 ただ巨人の選手内では「大人たちに振り回されたんだろうな」と、江川に同情の声が上がっていたという。当時、巨人の左のエースだった新浦壽夫は、江川云々ではなかったと言う。

【小林繁とのトレードで決着】

 それが、巨人内で急激に風向きが変わったのは、江川がドラフト1位された阪神との交渉に入ってからだ。金子鋭コミッショナーは、この江川問題を収拾させるため、一時的に野球協約第142条(トレードを前提とした新人選手との契約はできない)を破ってまで、江川を一旦阪神に入団させ、そこから巨人へトレードという裁定を下した。

 ここで巨人との契約が白紙になった江川は、阪神との交渉の場に立ち第1回は決裂した。トレードの話が確約できない以上、江川にとって阪神においそれと入団できない思いがあった。江川自身、ここまで多くの人が巨人入団のために尽力している以上、世論に負けて巨人以外の球団に入ることなど絶対にできない。江川はトレードの確約が出るまで渋った。

 ここから報道はさらに加熱し、江川へのバッシングがきつくなった。わがままのことを「エガワる」といった造語まででき、江川の心情を慮らずに巨人に固執している表向きの状況だけを見て、マスコミは罵詈雑言を浴びせた。

 あくまでも金銭トレードを希望していた江川だったが、最悪の事態が起こった。人的トレードということで話が進み、新聞紙上では連日連夜、西本聖、角盈男、加藤初、淡口憲治らの名前が紙面上を踊り、さらに左のエース新浦壽夫の名前まであがった。だが蓋を開けてみたら、キャンプイン前日の1月31日の羽田空港でエース小林繁が阪神トレードの記者会見をすることで、江川は阪神のユニフォームに一度も袖を通さずに巨人へ移籍となったのだ。

 超人気球団同士の不可解なトレードは、日本国民が言いようのない怒りに震え、その憎悪はすべて江川に向けられた。のちに、江川と小林は交換トレードではなく、それぞれ金銭トレードという形となったというが、世間はそうは見てくれない。

 江川も急遽、巨人入団会見を行なった。100人以上の報道陣が集まり、物々しい雰囲気のなかでのカメラのセッティング中に、ある新聞記者がいきなり怒号をあげたのだ。

「自分さえよければ人はどうなってもいいのか!」

 23歳の江川は、ほとんど顔色を変えずに「そんなに興奮なさらずに冷静にやりましょう」となだめる。江川のその言葉に対して、日本中が余計に興奮しまくった。当時流行語大賞があれば、間違いなく受賞していたほど、悪感情としてのワードとなった。

 当時のことを振り返って、江夏豊、田淵幸一、掛布雅之などの超一流選手たちに聞いても「政治家が介入してきた次元が違う話だから語れない」と異口同音に言う。それくらい、ほかの選手にしてみても、前代未聞の異質な事件だったのだ。

 天下の巨人が野球協約をネジ曲げてでも獲得しようとした怪物・江川卓。『空白の一日』とはいったい何だったのだろうか。今でも江川は、この件について詳細は語らない。ただひとつ、これだけは断言できる。江川卓は何も悪くない、と。

(文中敬称略)


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している