忘れられないEUROの名シーン ファン・バステンのボレーシュートはサッカー史に残る一撃になった
愛しのEURO(1)〜1988年、1992年
6月14日(現地時間)、ドイツ対スコットランドで幕を開けるEURO2024。日本での放送・配信も発表され、関心が高まっている。欧州王者を決めるこの大会に日本のサッカーファンの多くが触れたのは、1988年からだろう。以来、熱い視線を向けてきた戦いの数々をあらためて振り返る――。
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ベルリンの壁が崩壊したのは1989年11月。旧ソビエト連邦の崩壊は1991年12月だった。1988年、まだEU(欧州連合)は設立されておらず、通貨ユーロが誕生するのはだいぶ先の話で、サッカー版のEUROは欧州選手権と言われていた。
日本では決勝戦がテレビ東京を通してお茶の間に伝えられたが、筆者は現地で取材観戦していたので、日本の反応がどうだったのか、正確にはわからない。ただし帰国するや、熱心なサッカーファンの知人から「欧州選手権はどうだった?」としきりに尋ねられたことを思い出す。いまのようにテレビやネット配信で欧州サッカーが簡単に見られない時代である。その分だけファンの知識欲は旺盛だった。
当時、日本で人気が高かったのはセリエAで、1987−88シーズンはミランがディエゴ・マラドーナ率いるナポリを抑えて優勝。その中心として活躍したマルコ・ファン・バステンとルート・フリットが、オランダ代表として出場することも欧州選手権が関心を集めた理由である。
1988年大会の開催国はドイツではなく、西ドイツだった。ソ連代表がまだ健在で、予選を突破し本大会に進出すると、初戦でいきなりオランダに1−0で勝利。ダークホースとして急浮上することになった。当時のソ連代表は、ヴァレリー・ロバノフスキー監督をはじめ、多くのウクライナ人で構成されていた。ロバノフスキーはモスクワから、「ロシア人をもっと使え」と圧力をかけられたとされるが、最後まで屈しなかった。
雨中の激闘となった準決勝対イタリア戦は、ソ連の魅力が全開になった一戦として脳裏に刻まれている。そのスピード感溢れるサッカーは、ナイターのカクテル光線に映えに映えた。イタリアに2−0で完勝、決勝に駒を進めた。
【決勝でスーパーゴールがさく裂】ウクライナのサッカーを語る時、ロバノフスキーは外すことができない名将だが、決勝で再戦することになったオランダも名将が率いていた。トータルフットボールを発明したリヌス・ミヘルスだ。「トータルフットボール誕生の前と後で、サッカー概念は180度変わった」とは、後にその改訂版とされるプレッシングサッカーを提唱したアリゴ・サッキ元イタリア代表監督の言葉だが、ミヘルスはFIFAから20世紀最高の監督の称号を授けられることになった世紀の名将である。
オランダと西ドイツがハンブルクのフォルクスパルクシュタディオンで相まみえた準決勝は、大一番だった。遡ること14年。1974年西ドイツW杯決勝と同じ顔合わせである。1974年W杯決勝で、オランダは下馬評で西ドイツを上回っていた。にもかかわらず、西ドイツの軍門に下った。オランダにとってこの準決勝は雪辱戦だった。采配を振る監督も14年前と同様ミへルスだ。
舞台となったハンブルクがオランダに近い都市であることも手伝い、オランダのサポーターが大挙、結集。スタンドの半分以上がオレンジ色に染まった。1974年W杯の無念さが伝わってくるような光景だった。スコアは14年前と同じ2−1だが、オランダはリベンジに成功した。
1988年欧州選手権で優勝したオランダのストライカー、マルコ・ファン・バステン photo by PICS UNITED/AFLO
決勝は、オランダが善戦したソ連をはねのけ2−0で勝利した。圧巻だったのは後半9分、マルコ・ファン・バステンが決めたボレーシュートだ。左サイドからMFアーノルド・ミューレンが滞空時間の長いクロスボールを蹴り込んだ次の瞬間、ボレーシュートが炸裂する。それは誰にも予想することはできなかった。軽やかなフォームから、ボールの上っ面を半分擦るような、ドライブがかったシュートが、ソ連の名GKリナト・ダサエフの頭上を鮮やかに飛び越え、きれいにネットにスパッと収まる。そんな絵をイメージできたのは、実際に右足を振り抜いたファン・バステン本人ぐらいだったに違いない。
信じ難いマジックを魅せられたような電光石火の一撃。スタンドの観衆は瞬間、見入っていた。オランダ人でさえゴールが決まるや、しばらく黙り込んだ。いまなお脳裏に鮮明だ。
【ビッグネームが揃っていたオランダ】スーパーゴールといえば、ディエゴ・マラドーナの60メートル5人抜き(1986年メキシコW杯、アルゼンチン対イングランド戦)、ロベルト・カルロスの左足FK(1997年トゥルノワ・ド・フランス、フランス対ブラジル戦)、ジネディーヌ・ジダンの左足ボレー(2001−02チャンピオンズリーグ決勝、レアル・マドリード対レバークーゼン戦)などを想起するが、切れ味の鋭さという点では、このファン・バステンの一撃が一番だ。
先制点はルート・フリットが決めていた。後方にはフランク・ライカールト、ロナルト・クーマンが構えていた。フリット、ライカールト、ファン・バステンの3人組は、ミランで翌シーズン(1988−89)と翌々シーズン(1989−90)連続して欧州一に輝いた。またクーマンも、バルセロナで1991−92シーズンに欧州一のタイトルを獲得している。この時のオランダほどバロンドール級のビッグネームがゴロゴロしていた代表チームも珍しい。
当時、取材していて恐怖に感じたのはサポーターだ。フーリガンと呼ばれる荒くれ者にたびたび遭遇した。1988年の欧州選手権では朝方、夜行列車でデュッセルドルフ駅に降り立てば、イングランドサポーターが構内を占拠するように、ところ狭しと横たわって寝ていた。ビールの空き缶が散乱し、窓ガラスが割られるなど、暴れた痕跡をいたるところで確認することができた。誤って寝ている彼らを踏んでしまわないか、目一杯慎重に歩いたものである。
1988年欧州選手権。UEFA選定のベスト11は以下のとおりだった。
GK ハンス・ファン・ブロイケレン(オランダ)、DFジュゼッペ・ベルゴミ、パオロ・マルディーニ(ともにイタリア)、クーマン、ライカールト(ともにオランダ)、MFジュゼッペ・ジャンニーニ(イタリア)、ヤン・ボウタース(オランダ)、ロタール・マテウス(西ドイツ)、FWジャンルカ・ビアリ(イタリア)、ファン・バステン、フリット(ともにオランダ)。
【代役で出場したデンマークの躍進】2年後の1990年イタリアW杯では、イングランドサポは危険と見なされ、イングランドはグループリーグの3試合をサルジニア島で戦っている。オランダ戦を観戦に行った筆者は、試合後、事件が起きないかと夜どおし歩き回ったものだ。
先述のとおり、その前年にベルリンの壁が崩壊。ソ連も崩壊し、多くの国が誕生した。だが紛争が終結していない国もあった。旧ユーゴスラビアとその周辺諸国である。
イビチャ・オシム率いるユーゴスラビアは1992年欧州選手権予選を突破。本大会に向けて開催国であるスウェーデンに向かった。だが、そこまでだった。出場権を剥奪されたユーゴスラビアの選手たちは空港で足止めされ、そのまま帰国の途についた。ドラガン・ストイコビッチもそのひとり。「吐き気をもよおした」と、筆者のインタビューに答えている。
西ドイツとオランダの話を再度持ち出せば、1990年イタリアW杯では、ミラノ・サンシーロで行なわれた決勝トーナメント1回戦で、西ドイツがオランダを下していた。西ドイツは決勝でアルゼンチンを下して優勝。そしてこの1992年の欧州選手権では、ドイツは再びオランダと同じグループを戦うことになった。勝ったのはオランダ。敗れたドイツもグループリーグで2位となり、準決勝に進出した。
そこで両国を待ち受けていたのは、ユーゴスラビアの代役として出場したデンマークだった。グループリーグを2位で通過すると、準決勝でオランダと対戦した。当時、デンマークといえば、ミカエルとブライアンのラウドルップ兄弟の名が広く知れ渡っていた。しかし、兄のミカエルは監督のサッカーが守備的だと批判。この1992年大会には参加しなかった。
この頃、有名選手の代表辞退は頻発した。1994年アメリカW杯にはフリットが、1998年フランスW杯にはフェルナンド・レドンド(アルゼンチン代表)が続いた。日本代表中心主義に染まる日本人には理解しがたい感覚で、まさしくカルチャーショックだった。フリットの辞退がポジションの問題だったのに対し、レドンドはトレードマークの長髪を切る、切らないで監督と揉めた。
デンマークと準決勝で対戦したオランダは、フリット、ライカールト、クーマン、ファン・バステンに加え、デニス・ベルカンプも出場していた。まさにスーパースター軍団だったが、延長、PK戦の末、デンマークの軍門に下った。オランダはW杯で準優勝3回、3位、4位各1回と、あと一歩のところで優勝を逃している。ビッグな大会で優勝したのは1988年欧州選手権のみだ。オランダらしい終わり方だった。
デンマークと決勝を争ったのは、W杯を制したばかりのドイツ。下馬評で上回ったのもドイツだったが、勝ったのはデンマークだった。デンマークがW杯や欧州選手権で決勝に進出したのは、後にも先にもこれ1回。世紀の大番狂わせに湧いた大会だった。
1992年欧州選手権のベスト11は以下のとおり。
GKピーター・シュマイケル(デンマーク)、DFジョスリン・アングロマ、ローラン・ブラン(ともにフランス)、アンドレアス・ブレーメ、ユルゲン・コーラー(ともにドイツ)、MFブライアン・ラウドルップ(デンマーク)、ステファン・エッフェンベルク、トーマス・へスラー(ともにドイツ)、FWフリット、ベルカンプ、ファン・バステン(ともにオランダ)。
(つづく)