衝撃の走りで学生ラストシーズンに弾みをつけた平林清澄 photo by Wada Satoshi

平林清澄インタビュー前編

2月の大阪マラソンで初マラソン初優勝を果たした平林清澄(國學院大3年)。記録も2時間06分18秒と、初マラソン日本最高記録、日本学生新記録をも打ち立てた衝撃の走りで、その存在感を大いに見せつけた。1年時から学生駅伝で活躍し、2024年度の主将も務める平林に、あらためてマラソンデビュー戦を振り返ってもらった。

 今夏のパリ五輪日本代表選考レースでもあった大阪マラソンで、ビブナンバー3ケタの大学生ランナーが躍動した。

「僕は僕。選考がかかっている人たちは相当なプレッシャーとタイムに追われる焦りがあったと思いますが、僕は(オリンピック選考の対象ではなかったので)一番気楽だったと思います。心に余裕を持って走れました。ゼッケン番号も、先頭集団はみんな1ケタとか2ケタですから、3ケタの僕は場違い感がありましたね(笑)。でも、"これで勝ったらジャイキリ(ジャイアントキリング、"大番狂わせ"の意)じゃね!?"と思いながら走っていました」

 レースをこう振り返るのは、國學院大のエースであり、新キャプテンの平林清澄だ。

 初マラソンに挑んだ平林は、思惑どおりの"ジャイキリ"を起こし、日本歴代7位となる2時間06分18秒で優勝を飾った。同時に、初マラソン日本最高記録と日本学生新記録をも打ち立てた。

 その平林にレースを振り返ってもらった。

 今年の箱根駅伝で2区3位と好走した平林は注目選手のひとりだったが、ビブナンバーは「312」だったので後方からスタートした。実際にスタートラインを切るまでには4秒を要している(※)。それでも、「前のほうはごちゃごちゃしていたし、そんなに慌てて前に出なくてもいいかなと思っていたので、気楽な感じでスタートしました」と、マイペースでスタートを切った。

※スタートラインを通過してからフィニッシュラインを切るまでのタイムを「ネットタイム」と呼び、平林のそれは2時間06分14秒だった。参加者の多いレースで用いられる。

【憧れの土方との初レース】

――ペースメーカーは、1km2分58秒と1km3分00秒のふたつの設定がありましたが、5kmまでは後方の集団にいたように見えました。

「2分58秒(のペースメーカー)についていこうと思っていたのですが、5kmぐらいで前と差がつき始めていることに気づきました。実は、ただ単に僕が3分のほうのペースメーカーについていただけだったんですが......(苦笑)。"これはやばい"と思って、すーっと上げていきました。

 先頭集団の中にいると結構ペースの上げ下げもありましたが、基本的には2分58秒〜59秒を守ってもらっていたので、すごく気持ちよく走れました」

――初マラソンのわりには給水もうまく取っていたように見えました。

「5kmと40kmを除いて、全部取れました。この体なんで、水分補給よりもエネルギー補給が大事なんです。25kmぐらいで"お腹がすいたな"と思った瞬間もありました。

 最初の5kmは取ろうと思ったら、僕のボトルがなかったんです。"えっ、ないやん!"と声に出したら、隣の人が分けてくれました。10kmで無事に取れた時は、後でテレビで確認したら、めっちゃうれしそうな顔をしていましたね。"取ったどー!"って(笑)」

――すでに五輪代表に内定している小山直城選手(Honda)、昨夏1万mの自己ベストを出した時に引っ張ってくれた吉田祐也選手(GMOインターネットグループ)、國學院大の大先輩に当たる土方英和選手(旭化成)らがいるなか、意識していた選手はいましたか?

「土方さんですね。そもそも僕が國學院に入ったのは、土方さんへの憧れからなので、土方さんと初めてレースを走れる喜びが大きかったです。土方さんはレース展開がうまいのを知っていたので、集団の中でも土方さんを探していました。土方さんを見ていけば、なんとかなるだろうと思っていました」

――土方選手についていくレースプランだった?

「いや、レースプランは全然考えていなかったです。初マラソンだし、行けるところまで行ってみよう、ぐらいですね。どうせ30kmからきつくなってタレるだろうから、そこから耐えようと思っていました」

【レース中に描いた3つのイメージ】

 レース前半は身を潜めるように後方に位置取っていたが、ハーフを過ぎると、集団の前方でレースを進めるようになった。

「いつの間にか出ちゃったんです」

 平林はこう話すが、これまでレースでは箱根駅伝2区の23.1kmが最長で、いよいよ未知の領域に足を踏み入れた。それでも、平林の足取りが鈍ることはなかった。

「23.1kmからは未知でした。箱根の23.1kmでぶっ倒れたぐらいなので、23.1kmで倒れないようにしなきゃ、と考えていました。でも、箱根はアベレージで1km2分52秒ペースだったのに対し、今回は1km2分58秒ですから、1km当たり6秒遅くていい。ハーフの通過は1時間2分47秒でしたから、これならいけるって思いました」

*    *    *

――その6秒の違いが大きかった。

「大きいですね。1万m28分フラットだと1km2分48秒ですし、箱根駅伝に向けては2分50秒で走る練習をずっとやってきていましたから。

 でも逆に、2分58秒ペースがどんなものなのか、感覚がわからなかったんです。そのペースに体を慣らす必要がありました」

――箱根駅伝の後、大阪マラソンに向けてはどんなトレーニングを積んできたのでしょうか。

「箱根の後に準備に入りましたが、大阪までは40日ぐらいしかなかったので、特別、マラソンに向けた練習をしたというよりも、箱根と同じような感覚で進めました。それが(レースに)はまったんですけどね。1月中旬に宮古島で10日間ぐらいの合宿をしましたが、40km走も一本しかやっていません。でも、2年の夏から(マラソンを意識した)練習には取り組んでいましたし、去年の8月には月間1200km走っているので、それも(好走の要因に)あったと思います」

――ハーフを過ぎて前方にポジションを上げていきました。

「学生記録が目標でしたが、日本人トップというのも頭の中にあって、やるからには実業団勢と勝負したいと思っていました。

 僕は頭のなかでだいたい3つほどイメージを作るんです。現実的な目標が学生記録。あわよくば2時間07分30秒切りをしたい。一番上の目標が日本人トップでした。日本人トップになるには、2時間6分台を出さないと難しいかなと考えていました。

"優勝"は、正直、高過ぎて見ていませんでした。現実的な目標を見ながらレースを進めていましたが、小山さんが集団の横にずれて少しずつ先行し始めたんですよね。そういえば、MGCの時もひとりだけ集団から外れていました。小山さんに勝たなかったら日本人1位はないよな、と思って、小山さんを見ながら走っていました」

――30km過ぎに、一度は差をつけられました。

「折り返しで、外国人の選手が転倒したのに巻き込まれたんですよ。転びはしませんでしたが、大回りしたためタイムロスになりました。その間に、小山さんはだいぶ前に行ってしまいました。

 でも、ペース的には箱根の感覚が残っていたので、追いつけるだろうと思ってペースを上げていったら、追いつけちゃいました」

――その前に25kmで日本人のペースメーカーが外れてからはペースがだいぶ落ちた場面がありました。

「外国人のペーサーが先頭から落ちてきたので、一瞬、こっちのペースが上がったのかなって錯覚しました。25〜30kmは15分23秒かかっているんですけど、あの場面があったから、"脚"を溜められたのかなって思っています。(パリ五輪3枠目の設定タイムの)2時間5分50秒を狙っていた人には、ペースダウンは焦る要因になったかもしれませんが」

【32kmすぎは仮想・箱根駅伝2区の後半!?】

 そして、大阪マラソンのコース最大の難所でもある約32kmの上りで、平林はついに先頭に躍り出る。終盤、平林に食らいついたのは、2時間4分台の自己記録を持ち、世界選手権5位の実績があるスティーブン・キッサ(ウガンダ)ただひとり。最後はキッサとの一騎討ちになった。

*    *    *

――32kmで仕掛けて先頭に立ちました。

「ここも自分では行ったつもりはないんですよ。自分的には、小山さんを追っていったリズムのまま行った感じです。上りでもペースが落ちなかったからですかね。気づいたら、先頭にいました。先頭に出ちゃったし、後ろに付かれるのも嫌いなので"行っちゃえ!"と思って、そのまま進めました。上ってからは下りでしたし」

――先頭集団を抜け出た場面では、沿道に向けて右手を上げて笑顔も見られました。

「チームメイトの原秀寿がいました。勝負所なので"坂の上にいてくれ"って頼んでいたんです。僕の名前と『バンして』って書いてある応援うちわを持って、秀寿は立っていてくれました。うちわは、一緒に材料を買いに行って、僕の部屋で作ったんです(笑)。

 秀寿は箱根駅伝でも2年連続で(2区の)権太坂で給水をしてくれました。上り坂で秀寿が待っていてくれたので、"ここは権太坂か"と錯覚したくらい、箱根を走っているようなイメージで走れました。でも、37kmでは"戸塚の壁"(箱根2区のラスト3kmの上り坂のこと)を見てしまうわけですが...(笑)。"戸塚の壁"に重ねてしまうと、やっぱり脚にくるんですよ。ラスト5kmで脚が止まってしまい、苦しかったですね」

――笑顔もありましたし、余裕があるようにも見えたのですが。

「そう見えたのは正解ですよ。平林が笑っている時は良い時と思ってもらえたら(笑)。ホクレンDCで1万mのベストを出した時も、めっちゃ笑っていますし、しゃべっていましたからね」

――終盤はキッサ選手との一騎討ちになりました。後ろから離れなかったのは、精神的にもきつかったのでは?

「"前に出てくれ"と思っていました。外国人選手に付かれて、最後に逆転されるというレース展開はよく見てきました。僕はラストのスパート力がないので、最後抜かれるだろうな、と思っていました。だからこそ、早く前に行ってほしかったんですけど」

――わざとペースを落とすなど駆け引きしようとは考えなかったのでしょうか。

「ペースダウンしたら、自分の脚が止まってしまうと思ったので、やめました。真っ向勝負をするしかなかったです。

"後ろを振り向かない"というのが高校時代の監督の教えだったんですが、今回は、久々に後ろを振り返ってしまいました。特に40kmからが怖かった。一度引き離しても、2秒ぐらいの差なら一瞬で返されてしまいますから」

【地元紙の一面を取る! という思いで】

――優勝を確信したのはどの辺りでしたか。

「ラスト100mを切ったぐらいです。これは、もう来ないだろうと思いました」

――実際には残り700mくらいからキッサ選手を引き離しにかかっています。

「その時は余裕が出てきていたので、もう一段階上げられると思いました。でも、そこから意外に離れなくて......。

 しかも、橋を渡ってから左折するのですが、中継車に釣られて右に行きそうになりました。あやうく"寺田交差点(*)"をするところでした(笑)。危なかった。後で見たら、キッサ選手も右に行きそうになっていましたが...」

*寺田交差点...2011年の第87回箱根駅伝10区で、國學院大の寺田夏生がコースミスした大手町の交差点を指す)

――先頭でフィニッシュテープを切った時の心境は?

「よっしゃー、勝った! ですね。タイムも速かったですが、順位があって、タイムも付いてきたのかなと思っています。

 福井の地元紙で一面を飾れたのもうれしかったです。昨年の夏に1万mで福井県記録を更新した時は記事が小さかったので、いつか絶対一面に載ってやると思っていたので。

 うちのチームの上半期の目標が『出るレースで勝ちきる』なんですよ。それを決めたのは僕ですし、みんなにも言うじゃないですか。その本人が、負けて帰っては面目が立たない。『レベルが高かったから』とも絶対に言いたくなかったし、なんとしても勝って帰りたい。だから、勝ち切ることができて良かったです。

この結果はもちろん自分の評価になりますが、僕としては箱根駅伝で勝つための1レースと考えていました。これでチームを勢い付けられたかなと思います。勢い付き過ぎましたかね!?(笑)」

*    *    *

 主将の平林が自ら"勝ちきる"を体現し、大学生の枠を超えた活躍でチームを鼓舞している。

インタビュー後編に続く

【Profile】平林清澄(ひらばやし・きよと)/2002年12月4日生まれ、福井県出身。武生第五中(福井)→美方高(福井)→國學院大。大学1年時から出雲駅伝、全日本大学駅伝、箱根駅伝の学生三大駅伝すベてに出場中。昨シーズンは全日本7区で自身初の区間賞を獲得、箱根では2年連続でエース区間の2区を任され区間3位の走りで8人抜きを果たし、チームの5年連続シード権獲得に貢献した。マラソン初挑戦となった今年2月の大阪マラソンでは、2時間06分18秒の初マラソン日本最高記録、日本人学生記録をマークして優勝を果たした。マラソン以外の主な自己ベストは1万m27分55秒15(2023年)、ハーフマラソン1時間01分50秒(2022年)。