本好き・田中希実に文学が与える陸上競技への影響「ラスト1周400mを意識していたのが最後の200mにこだわるようになった」
読書家としての一面も広く知れ渡るようになった田中希実 photo by AFLO
田中希実インタビュー 別冊付録編
世界基準の中長距離ランナーとして成長を続ける田中希実(New Balance)がトラック外でも注目を集めたのは、東京五輪後の2021年9月。OB、OG、現役のアスリートたちがSNSを通してスポーツへの取り組みや未来についてその思いを言葉にする企画に参加した時のことだった。
「#物語をつなぐ」と題した文章は、田中自身の競技経験を幼い頃から振り返る内容で、シドニー五輪女子マラソン金メダリストの高橋尚子さんをはじめ、田中の圧倒的な表現力、構成力を高く評価する意見が続出。その才能は瞬く間にSNSを通して知れ渡った。それを契機に読書、特に児童文学への愛着がメディアを通して紹介される機会も増え、今では、学芸専門誌からの依頼を受けて執筆することもある。
2023年4月からはプロランナーとして独立するなど身辺に変化があった田中希実にとって、読書とはどのような存在なのか。
【好みは「日常からちょっとした延長した世界」】物心ついた時から、読書は身近なものだった。
「私の記憶の中では小学校3年生ころに読書に興味を持ち始めたと思っていたのですが、家族も含め身近な人の話を聞いたらもっと小さい時から本を読んでいたという話を聞いて、自分が思っている以上に根っから読書好きなのかなと感じています。いまは読書ができる時間をあまり取れませんけど、ゆっくり読書している時が一番自分らしい時間なのかなと思っています」
好きなジャンルは、児童文学、エブリデイマジックの世界。全編、想像性に富む完全な空想物語(ハイファンタジー)より、日常の延長で起こり得そうな事柄をテーマにした半日常的な物語により魅きつけられる、と田中は言う。
もともと、世界中を旅することを夢見ていた田中は現在、競技者として世界を飛び回り、本はその最高のパートナーになっている。合宿、大会問わず、未読のものも含めてお気に入りの本を携帯し、2023年6月のケニア合宿に持参した本の中には、13世紀のトルコの街を舞台にした『いのちの木のあるところ』(新藤悦子 著)という528ページの大作も含まれていた。それだけでも「好み」の熱量が伝わってくる。
「児童文学といっても決して子ども向きの内容と言いきれるわけではないのですが、やっぱり本を読み出したら、本好きの子どもと同じで、もう終わってほしくない、いつまでも続いてほしいという気持ちです。だから、私の場合、ストーリーが長ければ長いほど好きです。また、内容はもちろん、本の装丁、本文中に差し込まれる挿絵も含めて、本自体に興味が引かれます。
『いのちの木のあるところ』は歴史を元にした内容ですが、実際の史実は残ってない。ほとんど作者の想像なんですけど、でもちょっとした事実の種がある、本当にあったかもしれないって思わせやすい、エブリデイマジックの要素が強い作品です」
【競技も好みの作品もオープンエンド思考?】広く親しまれている作品では『赤毛のアン』(L・M・モンゴメリ 著)、『魔女の宅急便』(角野栄子 著)といった女の子の日常や成長が描かれている作品、また人形のために作ったミニチュアの家を舞台に話が繰り広げられる『引き出しの中の家』(朽木祥 著)、日本の児童文学史を代表する作家である佐藤さとるの作品など、小さいものへの憧憬を喚起する物語は、特に好みだ。
「子どもの頃に小さい人形やミニチュアを集めるのが好きだった影響もあると思うのですが、『引き出しの中の家』は本当に引き出しに入るような小さな人が存在するんじゃないかと思わせるような話です。
また、佐藤さとるさんの本(コロボックルシリーズが有名)はエンディングらしいエンディングがない展開、オープンエンドという言い方をするのですが、誰が書き継いでもいいという形で終わる。実際、佐藤さんの作品の続きを、作家の有川浩さんが書かれた作品が出ています。
何か良いものっていうのは、いつまでも残る。最近では音楽やファッションでもレトロなものが流行る傾向にあるように、良いものはずっとなくならないと思っています」
現在、田中は800m、1500m、5000mという中長距離の複数種目で世界のトップクラスへの階段を上り続けていく中、自身の競技への取り組み方について「自分の可能性、人間の可能性を決めたくない」と最終目標や限界を設けていない。その思考は、まさに「オープンエンド」といえなくもない。
アスリートとしての活動が中心にあるとはいえ、幼少の頃から好きな児童文学に触れてきたなら、自分自身で本格的な作品を書いてみたいと思わないのだろうか? 田中本人に聞いてみると、そう簡単に割りきれるものではないようだ。
「小さい時は多分書きたかったと思うんですけど、いまは陸上一色になってしまい、子供のころの自分と比べても想像力がないというか夢がないなって思うので、今は書けないと思います。コラムや日記など、自分について文章を書くことは好きですし他の人よりも得意かなと思いますが、想像力を膨らませて何かを書くのは難しいかもしれません。いまは走ることを通してインスピレーションをもらっている分、走ることをしなくなったら、私は本当に何もできないんじゃないかと感じたりもしています」
"走ること"でいえば、陸上競技を題材にした小説にも目を通す。「長距離系のストーリーはだいたい読んでいます」と言うが、競技の参考にしたこともある。
「アスリートが事故に遭い、パラアスリートとして再生していくストーリー『翼がなくても』(中山七里 著)という作品があるのですが、その中でパラアスリートでも健常者と変わらないスプリントに対する感覚を描写したシーンがあったんです。主役は長距離ではなく200mの短距離選手なんですけど、そこにすごく共感して、自分のレースでは、それまでラスト1周(400m)を意識していたのが最後の200mにこだわるようになりました」
世界で戦う経験を重ねる中、世界のトップ選手がさらにギアを上げるラスト200mで自分の力不足を感じた背景もあった。そんな折、本からヒントを得て競技の取り組みに反映したという。
つながりがあるようでないような、ないようであるような、陸上競技とエブリデイマジックの世界。
今後、田中の中でどのようなケミストリー(化学反応)を起こすのか。世界での活躍と合わせて、注目したい。
田中希望インタビュー〉〉〉後編
【Profile】田中希実(たなか・のぞみ)/1999年9月4日、兵庫県生まれ。小野南中→西脇工高(兵庫)→ND28AC→豊田自動織機TC→New Balance。同志社大卒。中学時代から全国大会で活躍し、高校卒業後はクラブチームを拠点に活動。2019年からは父・健智さんのコーチングを受け、今日に至る。国際大会には高校時代から出場を果たし、U20世界陸上3000mで2016年大会8位、2018年優勝。世界陸上は5000mで2019年ドーハ大会から3大会連続出場、2022年オレゴン大会では日本人女子初の800m、1500m、5000mの3種目に出場、2023年ブダペスト大会では5000m8位入賞。東京五輪には1500m、5000mの2種目で代表となり、日本人女子として五輪初出場となった1500mでは予選、準決勝で日本新をマーク、決勝で8位入賞を果たした。自己ベストの1500m3分59秒19(2021年)、3000m8分40秒84、5000m14分29秒18(2023年)はすべて日本記録。