5人目のリレーメンバーが
見ていた景色 齋藤仁志 編(前編)

陸上競技のトラックで今や個人種目をしのぐ人気となったリレー競技。4人がバトンをつないでチームとして戦う姿は見る人々を熱くさせる。実際にレースを走るのは4人だが、補欠も含め5〜6人がリレー代表として選出され、当日までメンバーは確定しないことが多い。その日の戦術やコンディションによって4人が選ばれ、予選、決勝でメンバーが変わることもある。走れなかった5人目はどんな気持ちでレースを見守り、何を思っていたのか――。


当時、大学生ながらリザーブの役割を理解してチームメイトと良好な関係を築いていたと話す齋藤仁志 photo by Igarashi Kazuhiro

 2008年北京五輪、男子4×100mリレーが銅メダル(のちに優勝のジャマイカが、1走のドーピング発覚で失格になり、日本が銀メダルに繰り上がり)獲得という、歴史的な快挙を塚原直貴 、末續慎吾、郄平慎士 、朝原宣治の4人が果たした。リザーブとしてメンバーに入っていた当時21歳の齋藤仁志はその時をこう振り返る。

「出場したのがあの4人ですからね。当時の高校生や大学生にしたら、レジェンドみたいな存在でした。その4人の一番近くでサポートできることは、いろいろ成長するチャンスかなと思っていました。一緒に帯同しながら、何とか(次の)ロンドン五輪へ向けて飛躍するためのきっかけをつかみたいという気持ちが一番強かったと思います」

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 北京五輪シーズン前年の2007年、5月の国際グランプリ大阪大会の200mで、郄平慎士(富士通)らを破って優勝し、続く6月の日本選手権でも末續慎吾(ミズノ)を抑えて高平に次ぐ2位と好調だった齋藤(筑波大)。200mでは五輪参加B標準記録(20秒75)を突破していた。

 だが、北京五輪は五輪参加A標準記録(20秒59)突破者がいると、個人代表最大の3枠に達していなくてもB標準突破では出場できないルール。その結果、齋藤はリレー要員としての五輪代表となった。

「普通だったら期限ギリギリまでA標準突破に挑戦するのでしょうが、『チームのために代表合宿等を優先してほしい』という感じで言われていました。たぶん、日本陸上連盟の方針としては僕が初代表で経験が浅いから、個人は捨ててリレーにしっかり集中して、メダル獲得のためにサポートしてくれないかという感じだったのではないかと思います」

 当時はそれで納得していたという齋藤は、「4×100mリレーに出られない可能性のほうが大きかったのに、しっかり納得したうえで大人の判断をしていて立派だったな、と思いますね」と明るく振り返る。

「今思えば、周りの反対を押し切って記録狙いのレースに出てもおかしくなかったなと思いますし、状態としては抜群によくて、レースに出ていればA標準も切れていたと思います」

 それでも当時その立場を受け入れられたのは、まだ21歳と若かったからではないかとも言う。筑波大の谷川聡コーチと話すなかで、メインターゲットにしていたのは次の2012年ロンドン五輪だった。そのためにも北京五輪は、何かしらの形でいければ上出来という認識だった。

 栃木県鹿沼高校時代は2年時に200mでインターハイに出場したが、3年では腰痛で県大会敗退。「県大会で入賞レベルだった」という齋藤は、国立大で陸上を続けて教員になろうと考えたが、受験に失敗。浪人中も陸上競技は継続し、2005年に全日本ジュニア選手権200mで優勝したことで、大学では本格的に陸上をやろうと考えを変えた。そして、「谷川コーチの指導を受けたい」と一般受験で筑波大に入学。1年生で日本選手権に初出場し5位に入ると、そこから急成長を始めた。

 そして2007年は4月の静岡国際で初の20秒台(20秒79)を出し、6月上旬の日本インカレで優勝。6月下旬からの日本選手権は予選で20秒64、決勝で20秒70と、連続で世界陸上B標準記録を突破。実際に出場はできなかったが、8月のユニバーシアードでは200m8位、4×100mリレー5位の結果を残した。その好調を維持した2008年も評価され、4×400mリレー要員としても北京五輪代表に選ばれた。

「僕の場合はスピードが持ち味というより、ある程度のスピードをゴールまで維持できるというのが強みでした。最大速度はそこまで速くないので、リレーにはあまり適した走りではないというのは正直ありました。だから北京五輪で走るなら、当時、故障者の多かったマイルリレーかなと思っていました。ですが、4継の決勝の前にマイルの予選があったためマイルメンバーからも外れてしまい、代表で走れずに帰ってきたのは僕だけだったんです」

 北京五輪前の日本選手権後の山梨での合宿中に、基本的には塚原直貴(富士通)と末續、郄平、朝原宣治(大阪ガス)のオーダーで行くと伝えられ、齋藤はそれが妥当だと思った。前年の世界陸上の4継で日本記録(38秒03)を出したメンバーが再び揃った状態だったからだ。

「その時点で僕は1走から4走のどこでも走れるような準備をして欲しいと言われていました。日本選手権後から北京までのその2カ月間は、幸福だったと思います。あの4人と一緒にいられたというだけで満足していた自分もいたんです。ただ、最初は緊張しましたね。だって、あの末續慎吾ですよ。世界陸上200mで銅メダルを獲得した人物と同じチームにいるんですから。練習中の靴の履き方とか歩き方とか、気になるところをいろいろ質問させていただき、その答えを聞けた瞬間は、何よりもうれしかったのを覚えています。

 合宿中は私と高平さん以外はコンディション不良もあってなかなかバトン練習ができていませんでした。でもあの4人は少ない機会の中でも、『じゃあやるぞ』と言ってビューッと走ったら、完璧にビシッと合わせてくるんです。阿吽の呼吸と言いますか、一朝一夕にできるものじゃないと思いました」

 そんな憧れの選手たちと練習を重ねた齋藤は自分の役割をこう考えていた。

「僕の最大のサポートは、いかに4人にプレッシャーを掛けるかということ。自分のコンディションを最大限整えて『いつでも奪い取ってやる』というのを見せることだと思っていました。でも皆さんもちろん、必死に自分の場所を守ろうと弱みは一切見せなかった。『もう走れない。無理だよ』という先輩はひとりもいなかったです。

 塚原さんもリレー本番ですごい走りをしましたが、(100m個人で痛めて)練習では脚を気にする素振りを見せていました。それでも『任せておけ。大丈夫だ』と言い続けていました。リレーは、ただ足が速いだけじゃ勝てないものがあるのではないかと感じました」

 予選で走れなかった時点で、自分の出番はもうないだろうと思った。決勝も最初のウォーミングアップの時にオーダーが決まったが、脚に不安があった塚原の状態を確認しただけで、オーダー変更は行なわれなかった。

「もしあれが五輪でなければ、僕がきっと1走か2走を走っていたと思います。誰かしら、『俺は走れない』という言葉が素直に出ていたのではないかなと。でも、五輪の舞台は特別なものだから誰もそう言わないし、世界大会の舞台に一度も立ったことのない学生アスリートを走らせるというのはチームとしても怖い部分があったんじゃないかなと思います。実際僕は、そのあとの国体のバトンパスで、アンダーとオーバーを間違えたので。もしそれを五輪でやっていたら、僕は日本に帰ってこられなかったと思います(笑)」

 走らずとも憧れの選手たちの雄姿を一番近くで見ていた当時の気持ちを改めてこう話す。

「もちろん悔しかったと思います。でも、みんなが『俺に任せておけ』という雰囲気でいるのが本当に心強かった。自分が走りたいという気持ちは強かったけど、あの4人がずっと苦しい思いをしながら当日を迎えたのも知っていましたし......。ライバルでありたいというよりは、そのまま強い先輩たちでい続けて、4人にしっかり日本の短距離の歴史が変わる瞬間を見せて欲しかった。それはもう、嘘偽りのない気持ちでした」

後編:「陸上が楽しくなかったし、最後はプレッシャーのほうが強かった」>>

Profile
齋藤仁志(さいとう・ひとし)
1986年10月9日生まれ。栃木県出身。
中学から陸上を始め、筑波大学進学後に選手として開花。大学2年から4年までインカレの200mで三連覇を果たす。2008年北京五輪にてリレーのリザーブとして選出されたものの、出場はなし。その後、世界陸上代表に選出されるなどロンドン五輪での活躍も期待されたがケガに悩まされ、2017年以降は大会に出ていない。現在は埼玉県東野高校にて、陸上部顧問を務め、学生たちに陸上の楽しさを伝えるとともに指導を行なっている。