藤井秀悟インタビュー(前編)

 入団2年目に最多勝に輝き、リーグ制覇、日本一に貢献した藤井秀悟氏。ヤクルトの左腕エースとして順風満帆なプロ野球人生を送っていたが、その後はトレード、FA移籍、人的補償、戦力外を経験。藤井氏が波乱万丈の現役時代を振り返る。


プロ2年目の2001年に14勝を挙げ最多勝に輝いた藤井秀悟氏 photo by Sankei Visual

【プロ2年目に最多勝を獲得】

── ヤクルトにドラフト2位で入団した2年目の2001年、14勝を挙げて最多勝を獲得し、チームもリーグ制覇、日本一を果たしました。

藤井 若松(勉)監督が抜擢してくれて、ノビノビとやらせていただきました。4年ぶりのリーグ優勝、近鉄に勝って日本一になったシーズンに自分の力を発揮できたのが、ヤクルトでの8年間の一番の思い出です。

── 2002年、2005年にも10勝をマークされました。

藤井 3度の2ケタ勝利は捕手の古田敦也さんにうまくリードしてもらい、構えたミットに思いきり投げ込んだ結果です。それにロベルト・ペタジーニやアレックス・ラミレスらを中心とした強力打線の援護にも助けられました。

── 古田兼任監督時代(2006年3位、2007年最下位)はいかがでしたか。

藤井 先発数、イニング数ともそれなりに多かったのですが、勝利に直結せず、僕自身は負け越しました。古田さんのやりたい野球まで力が及ばす、申し訳なかったです。

── 2008年、複数トレード(ヤクルトから藤井・坂元弥太郎・三木肇/日本ハムから川島慶三、押本健彦、橋本義隆)で日本ハムに移籍しました。

藤井 サイパンで石井弘寿、五十嵐亮太、青木宣親らと自主トレをしていたところ、ネットニュースで見た知人から連絡があって、トレードを知りました。その後、球団から電話がかかってきたのですが、自分がまさかトレード要員になるとは思っていなかったので驚きました。

 自主トレを始めたばかりだったので「帰国するまで待ってもらえませんか」と球団にお願いしました。しかし、自主トレをやりきって帰国したら"藤井トレード拒否"とゴシップ誌に書かれてしまって......(笑)。

【はしゃげなかった優勝パレード】

── 当時の日本ハムは梨田昌孝監督のもと、先発投手はダルビッシュ有投手、武田勝投手、リリーフはマイケル中村投手、武田久投手らの布陣でした。チーム打率、本塁打ともリーグ6位のなかでの"奮投"でした。セ・リーグとパ・リーグの野球の違いは?

藤井 当時のパ・リーグは広い球場が多く、DH制があるから投手は簡単に代わらない。そういう意味で、投手が育つ環境なのかなと思います。僕自身はスタミナもあったし、ダルビッシュの負担を減らしたかったので、もっと長いイニングを投げたいと思っていたぐらいでした。

── 2009年シーズン後の巨人移籍の真相は、FAではなく戦力外だったそうですね。2009年のリーグ優勝に貢献し、巨人との日本シリーズでも好投(第5戦で7回無失点)していただけに、不思議に思いました。

藤井 2008年の3勝から2009年は7勝して、チームはリーグ制覇。「残留して来季もチームの力になりたい」と思っていました。しかし日本シリーズ終了の2日後ぐらいに代理人からその話を聞きまして、まさかの思いが強かったです。球団からは「対外的には戦力外よりFAのほうがいいのではないか」と、戦力外であることを伏せてFA権を行使しました。

── 便宜的なFAだったわけですね。

藤井 何が悔しかったかと言えば、「やっぱり藤井はトレードで来た北海道より関東がいいからFAしたんだ」と、ファンの方をガッカリさせてしまったことです。当時、ブログをやっていて、コメントをたくさんいただいて応援されていることを強く感じていましたので、余計にそう思いました。

── 日本ハムでプレーしたのは2年間でしたが、思い出に残っていることは何ですか?

藤井 リーグ優勝にわずかでも貢献できたのはいい思い出でした。お世話になった北海道のみなさんへのあいさつのために優勝パレードとファン感謝デーは出させてもらいましたが、戦力外を通告されていたのではしゃげませんでした。さすがに優勝旅行は辞退させてもらいました(笑)。

── それにしても日本シリーズでの好投は、巨人へのアピールになったのではないですか。

藤井 ヤクルト時代の2年目も、当初はリリーフ要員だったのに、巨人とのオープン戦で好投して先発ローテーションに滑り込み、結果、最多勝を獲得しました。その時々の分岐点で結果を出せたことが、僕がプロの世界で生き残ってこられた要因かなと思います。

【ハワイで自主トレ中にまさかの連絡】

── 巨人は2009年まで原辰徳監督のもとリーグ3連覇と選手層が厚いなか、移籍1年目に7勝を挙げました。巨人にFA移籍して結果を出せない選手が多いなか、まずまずの成績でした。

藤井 当時の巨人は内海哲也、東野峻、阿部慎之助、坂本勇人らがチームの中心でした。2009年まで3連覇でしたが、僕がいた2010年からの2年間はともに3位、そして2012年からまた3連覇......在籍中に優勝できなかったのは残念でしたね。

── 2011年はローテーションに入れず未勝利でした。

藤井 その年のオフ、横浜(現・DeNA)の村田修一がFAで巨人への移籍が決まりました。年末年始、僕は自主トレでハワイにいたのですが、非通知の携帯電話が鳴り、出てみると球団からでした。「明日、戻ってきてほしい」と。「人的補償、もしかしたらオレ?」って思っていたら、本当にそうでした。前回の"トレード拒否"と言われた教訓から、今度は予約していたグラウンドや宿をすべてキャンセルし、すぐに帰国しました。驚きと寂しさはありましたが、2011年の登板がわずか1試合だったことを思えば、「DeNAでチャンスを生かそう」と気持ちを入れ替えました。

── 背番号は、巨人での「99」からDeNAでは「00」。再スタートの意味も込められているのかなと感じました。

藤井 移籍1年目、中畑清監督のもと"新生・DeNA"は、まだ発展途上のチームでした。確固たる先発投手は三浦大輔さんぐらい。2012年から最下位、5位、5位と低迷しました。12年は何度か連敗ストッパーとなり7勝。13年は自身2度目の開幕投手を務め、4月に11年ぶりの完投勝利、7月には107試合ぶりの完封勝利を挙げました。日本ハム、巨人では5回ぐらいまで投げて交代することが多かったので、投げさせてもらえて、まだまだやれることを証明できてうれしかったです。

── ただ同年8月に左ヒジを痛めました。

藤井 手術も視野に入れたのですが、なんとか回復しました。自分の調子もよかったし、チームのためにと思って、腕の疲れはありましたが登板していました。ただ、いま考えれば休養すべきだったかなと後悔しています。翌年は一軍登板のチャンスをもらえず、現役引退となりました。

【悔しかった3度の移籍】

── 現役引退の37歳まで、通算83勝、1064奪三振の記録をどう思いますか。

藤井 プロ入り当初は球種も少なくてストレートで押していましたが、2003年に左ヒジを手術してからは変化球を覚えて、コースを突く投球スタイルにチェンジしました。通算200勝する投手もいれば、1勝もできずにユニフォームを脱ぐ選手もいます。上を見ても、下を見てもキリはないのですが、83個の勝ち星を積み重ねることができたのはよかったと思います。

── 現役15年間で印象に残っている試合やシーンはありますか。

藤井 プロ入り1年目の2000年4月29日の巨人戦、リリーフして味方のサヨナラ勝ちでプロ初勝利を挙げたことは思い出に残っています。あとは、ヤクルトと日本ハムで優勝に貢献できたことです。

── 悔しかったことは何ですか?

藤井 ヤクルト時代に最多勝に導いてくれた古田さんの兼任監督時代、胴上げをできなかったことです。最多勝を挙げ、優勝した2001年は古田さんのミットに思いきり投げ込むだけで、投球術や配球に関してあまり深く考えていませんでした。12歳上の古田さんになかなか自分から質問しづらくて......他球団に移籍してから「もっと古田さんから勉強しておけばよかった」と思いました。

── 引退を決断された時、どなたかに話をしましたか。

藤井 現役続行を希望するなかでの引退となったので、セレモニー的なものはありませんでしたが、マサ(石川雅規)が労いの言葉をかけてくれました。それで僕は「引退するけど、マサは1年でも長く現役を続けてくれ」と。マサは僕より2歳下で、大学選手権の決勝で投げ合って以来の間柄です。ヤクルト入団後にキャンプで同部屋だったこともあり、以来、同じ左投手として悩みなど打ち明けてくれました。いまだに連絡を取りあっていますが、通算200勝に向けて頑張ってほしいですね。

── あらためてプロ野球人生を振り返って、どんな思いがありますか。

藤井 3度も移籍して、当時はショックを受けたこともありましたが、いま思えばいろいろな経験ができて、プラスになったと思います。

後編につづく>>


藤井秀悟(ふじい・しゅうご)/1977年5月12日、愛媛県生まれ。今治西高から早稲田大を経て、99年ドラフト2位でヤクルトに入団。2年目に14勝を挙げ、最多勝を獲得。チームのリーグ制覇、日本一にも貢献し、ベストナインにも選出された。08年にトレードで日本ハムに、10年にはFAで巨人に移籍。さらに、12年にはFA移籍した村田修一の人的補償としてDeNAに入団。13年は開幕投手を務めるも、翌年は登板機会がなく戦力外通告を受ける。トライアウトを受けるもオファーがなく、現役引退。その後は巨人、DeNAでバッティングピッチャーを務め、22年から関西独立リーグの06BULLS(現・大阪ゼロロクブルズ)のGM補佐兼投手コーチに就任。23年から同チームの監督に就任