藤原道長はなぜ出世できたのでしょうか。その裏側には父親の遅い出世がありました(写真はNHK公式サイトより引用)

NHK大河ドラマ光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたることになりそうだ。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして2人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第2回目は、長男ではなかった藤原道長が出世できた背景を解説する。

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長男に生まれなかった偉人たち

歴史に名を刻んだ偉人の生涯を多く見ていると、実感することがある。それは「何がよい結果につながるのか、また、何が悪い結果につながるのかは、最後までわからない」ということだ。

とりわけ、自分の生まれというものは、努力でいかんともしがたいだけに、「我が身を恨む」ことにもなりやすい。しかし、一般的に不利だとされる環境が、あとあと大きな幸運を連れて来ることも珍しくはない。

幕末において活躍し、今でも多くの新たなファンを生み出している、土方歳三もそうだった。歳三は天保6(1835)年、武蔵国多摩郡石田村(現・東京都日野市石田)の豪農の家に、10人兄弟の末っ子として生まれた。

土方家の長男は「隼人」で世襲されている。長男から程遠い歳三は、家を継ぐこともできない。先行きがまったく見えないなか、歳三は武人に憧れて、家業の薬の行商を手伝いながら、剣の稽古に明け暮れた。

17歳頃には、家の庭に矢竹を植えながら、こんな宣言をしたと伝えられている。

「将来我武人となりて名を天下に掲げん(将来は立派な武人になる)」

歳三と運命をともにした近藤勇もまた長男ではなかった。そして歳三と同じように、農家の生まれにもかかわらず、やはり剣の修行に打ち込んでいる。

そんな2人が見つけた居場所が、京都で活動する幕府の警察組織ともいうべき、新選組である。新選組では、勇が局長を、歳三が副長を務めた。2人は京から全国へとその名を轟かせることとなる。

やがて新選組が、新政府軍に追い詰められていくと、歳三は改名しなければならなくなった。そのときに歳三が選んだのが「内藤隼人」。土方家の長男が名乗る「隼人」を仮名にしたのである。そこからはコンプレックスにも近い、跡取りとなる長男への憧れが見て取れる。

だが、もし、長男に生まれていれば、2人とも青年期にこれほどもがいて活路を見いだすことも、歴史に名を刻むこともなかっただろう。

道長の父は権力闘争に敗れて冷遇

平安時代に大きな権力を握った藤原道長も、長男ではなかった。

道長は康保3(966)年に藤原兼家の5男として誕生する。兼家は女好きだったらしく、多くの妻妾がいた。妻妾のなかでも正妻格だったのが、「摂津守」などの要職を歴任した藤原中正の娘、時姫である。

時姫は兼家との間に、長男の藤原道隆、4男の道兼、長女の超子、次女の詮子、そして、5男の道長を生んでいる。

同母の兄が2人もいた道長には、出世する見込みがなかったといってよいだろう。それにもかかわらず、なぜ、平安時代随一の権力者となれたのであろうか。その要因として、父の出世が「遅かった」ことが挙げられる。

道長の父・兼家は藤原摂関家(藤原氏嫡流)の3男として生まれた。兼家の父、つまり、道長にとっては祖父にあたるのが、村上天皇のもと正二位・右大臣になった藤原師輔(もろすけ)である。

『栄花物語』では、師輔のことを「一苦しき二」という言葉で評している。これは「上席である兄の実頼が心苦しくなるほど優れた次席の者」ということを意味している。秀でた師輔の才を感じさせるとともに、藤原家における兄弟争いの熾烈さが、この表現からはよく伝わってくる。

師輔が病に伏して、天徳4(960)年に51歳で病死すると、長男の伊尹が頭角を現す。伊尹は天禄元(970)年に右大臣になると、さらに円融天皇の摂政となり、翌年には、正二位・太政大臣にまで上ったが、48歳で亡くなってしまう。

長男の急死によって、3男の兼家は、2男の兼通と後継者を巡って争うことになるが、敗北。円融天皇との関係が良好だった兼通が、後を継いで関白となっている。

その結果、兄の兼通からライバル視された兼家は、大納言から治部卿に降格させられて、長く不遇の時代を過ごす。

道長が生まれたときも、兼家は38歳にして従四位下左京大夫というぱっとしない地位に甘んじており、まだ公卿になっていなかった。

父の遅い出世が道長を栄華に導いた

ところが、兄の兼通が病死したことによって、状況はがらりと変わる。冷遇されていた兼家が出世し始め、ついには摂政にまで上り詰めたのである。


道長の父、藤原兼家を配祀する大将軍神社(写真:オリオン / PIXTA)

ようやく出世した父は、これまでの恨みを晴らすかのように、次々とわが子を要職に引っ張り上げていく。兄たちをはじめに、5男の道長も権中納言に昇進することとなった。

この時点で、道長は大きく出世の道が開かれることとなる。なぜならば、道長の兄にあたる藤原道隆や道兼らは、成人を迎えた頃には、まだ父の兼家にとって不遇の時期だった。

そこから、父が出世を果たして、地位が引き上げられることになるが、すでに兄たちはそれなりの年になっている。そんななか、道長はまだ23歳の若さで、権中納言になることができた。出世の階段を上るのに、記録的な好スタートである。父の遅い出世が、5男の立場である道長には、かえって有利に働くことになった。

また年少がゆえに、結婚の時期も当然、兄たちよりも遅かった。家から出ることもなく、「東三条院」「東三条院殿」「東三条第」などと呼ばれた邸宅に、道長は兄たちよりも長く住んだ。そのため、姉の詮子と多くの時間を過ごすことになる。

源氏物語の裏に道長の想定外の出世

詮子は兄弟のなかでも、道長と仲が良かったとされている。 詮子が円融天皇に入内して、第一皇子で懐仁親王を出産したことを思えば、そのこともまた、道長の地位をより押し上げる環境へとつながったといえるだろう。

そうして権力を手にした道長が支援したことで、紫式部は『源氏物語』を書き上げることができた。世界最高の文学の金字塔を打ち立てた背景に、5男に生まれた道長の想定外の出世があったことを思うと、何がどう転ぶかは本当に最後までわからないのである。

【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

(真山 知幸 : 著述家)