紫式部の由来と生まれ年は?(写真はNHK公式サイトより引用)

今年の大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公。主役を吉高由里子さんが務めています。今回は紫式部の名前と生まれ年の謎を解説します。

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平安時代中期の作家・紫式部は謎の多い女性です。その生まれ年さえもわからず、これまで、さまざまな説が提示されてきました。

970年や、973年、978年生まれなど、さまざまな説があります。今でも定説はないのが、現状です(ちなみに没年についても複数の説があります)。つまり、多くの人が式部の生没年に迫ろうと努力を重ねてきたのです。

「紫」「式部」どんな意味?

余談になりますが、紫式部というのは本名ではありません。彼女の本名もまた不明なのです。紫式部というのは女房名(宮中での呼び名)なのです。

彼女を式部というのは、父・為時が花山天皇のときに、式部丞を務めていたからでした。式部丞は式部省(人事・儀式・教育全般を担当)の役人です。

では「紫」とは何でしょうか。これも定説はありませんが、『源氏物語』の登場人物「紫の上」に由来するのではとの説もあります。

さて、式部の生まれ年について見ていきましょう。これについて、手がかりになるようなものは残されていないのでしょうか。1010年に書かれた式部の手紙があるのですが、そこには、そのときの式部の年齢を探るうえでのヒントがあるように思います。

「年齢も仏道修行に似合わしい程になってきました。これ以上、老いぼれてしまうと、目も悪くなり、お経も読めなくなり、お勤めの気持ちも、益々、だらけていくに違いありません」と式部は消息文に書いているのです。

1010年の時点で、式部は自分のことを「老いぼれ」と言っている。しかも、目が段々と悪くなりかけている様子も窺うことができます。老眼の入り口でしょうか。

40歳より前に老眼になることは余りないと言われています(とは言え、早い人では30歳で老眼になってしまう人もいるようですが)。40歳を過ぎた頃から、老眼の症状が出てくることが多いとされています。一概には言えないとしても、そうしたことを考えたときに、式部は1010年には、40歳は超えていたように思うのです。

よって、1010年から40年を引いて、970年(頃)に式部は生まれたのではないかと私は推測しています。970年というのは、天禄元年です。


京都府・宇治市にある紫式部像(写真: 白熊 / PIXTA)

式部のお母さんは、式部を産んで程なくして、亡くなってしまいます。そして、式部の父・藤原為時は、その後、新しい妻との間に複数の子供をもうけることになります。昼は役所に勤め、夜は新しい妻(式部にとっては継母)のもとに通う生活を為時はしていたように思われます。

式部の幼いころの記憶

式部には、姉や弟がいましたが、彼・彼女らは、父が邸に帰ってこない夜などは、どのような想いで過ごしていたでしょうか。

父もおらず、母もいない邸内。女房(侍女)らはいたかもしれませんが、寂しい想いをしていた可能性もあります。

式部の幼少期の記憶には、女房との思い出があったようです。975年、式部が5歳の夏頃。夕方になると、青白い尾を長く引いたものが、何日も空に光っていたとのこと。女房らは皆、怖がり「あれは、箒星。見てはいけません」と式部に話したということです。

幼い式部は、不気味な箒星を興味深く思ったのか、それとも、恐怖に震える女房たちを不思議な面持ちで見ていたのか。式部の幼い頃には、世の中の情勢も不安定で、強盗や殺人・放火が横行していたようです。内裏が焼けたり、地震もありました。地震の際は、乳母が抱きかかえて、式部を庭に連れ出してくれました。あちこちで家が倒れる凄まじい音。濛々と上がる土煙は式部を驚かせたでしょう。

幼い頃の、父に関する思い出もあり、7歳の頃には、礼装した父の姿が印象に残っていたようです。乳母は式部に「お父様は今日は、東宮様(師貞親王、後の花山天皇)の御読書始で副侍読を務めるのです」と話して聞かせたといいます。

幼い式部にとっては、それが具体的にはどういうことかはわからなかったようですが(お父様はきっと偉いのだわ。素晴らしいことだわ)と感じたようです。

式部が10歳の頃には暴風雨が吹き荒れ、塀や垣根が倒れるという出来事もありました。役所の建物も多く倒壊したと女房たちが噂をしていました。式部はその話を聞いて出かけようとしたようです。どのようなことになっているか、この目で見てみたいと思ったのですね。

子供はこうした好奇心を持ちますが、なかには怖がって見に行かないという子もいるはずです。それを思えば、式部は恐怖心よりも、好奇心が勝った、好奇心溢れる少女だったと言えましょう。「何でも見てやろう」の精神があったのかもしれません。

しかしその式部の企みも、乳母に止められてしまい、果たすことはできなかったようです。私は式部のこの逸話に、将来、『源氏物語』を書くだけの才能ありと感じてしまうのですが、考えすぎでしょうか。

読書の楽しさを知った式部

幼い頃、親に褒められた記憶というのは、後年まで残るもの(その逆で叱られた記憶も)ですが、式部も例外ではありませんでした。

父・為時は、息子の惟規に本を読ませていたのですが、なかなか、その内容が覚えられなかったようです。そばで聞いていた式部のほうが、不思議と本の内容を覚えていったのでした。それを見た父は「この子が男子だったらよかったのに」といつも嘆いていたそうです。この話を記した式部の得意気な顔が浮かびますが、惟規のことを思えば、少し可哀想ですよね。

式部はこの逸話の頃は10歳、弟の惟規は8歳だったとされています。「この年齢では女子のほうが早熟であり、年齢の相違もあることゆえ、式部が彼に比べて褒められたのも無理はない」との声もあります。確かに、小学生の低学年くらいのことを思い起こせば、優秀な女子、結構いたように思います。

それはとにかく、幼少の式部は、父と弟の学問・読書の様子を見るうちに、読書の楽しさというものを知っていったようなのです。「栴檀は双葉より芳し」ということでしょうか。

(主要参考文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)