大正製薬のシンボルマークであるワシのマーク(撮影:尾形文繁)

TOB(株式公開買い付け)価格が安すぎるとして、株式市場から悪評ふんぷんの大正製薬ホールディングスのMBO(経営陣が参加する買収)。8620円というTOB価格は、1株あたり純資産の0.85倍でしかない。買収側のオーナー・上原一族以外の株主からすれば、会社を解散して全資産を現金化し分配してくれたほうがむしろありがたい。もっとも、大正製薬HDと上原一族からすると、買収価格は直近の株価に56%もの高いプレミアムを付けたのだから、その他大勢の株主には配慮しているのだと言いたいのだろう。

しかし今回のMBOは、買収総額約7000億円と国内最大規模であるにもかかわらず、いくつもの問題を抱えている。

今回のTOB価格は、会社側のFA(フィナンシャルアドバイザー)である大和証券が、DCF法(ディスカウントキャッシュフロー法)で算出した株価(8117〜9594円)のレンジ内にある。大正製薬HD取締役会は、大和証券の立場について「買収者からも同社経営陣からも独立した立場にある」とし、上原一族によるMBOに賛同し、株主に応募推奨もしている。

買い手寄りに立つインセンティブ

だが、ある日本株ファンドの運用責任者は、「一般に友好的な買収の場合、中でも本件のようなMBOの場合、買収対象企業のFAは買い手の希望価格に沿った株価算定をしがちだ。DCFの前提となる財務予測も保守的にして価格を低めに出すようにする」と話す。

買収対象企業に雇われたFAには、MBO成立の暁には成功報酬が支払われることが一般的なので、たとえその報酬額が少額であったとしても、成立を望む買い手寄りの立場に立つインセンティブが生まれる。

本件でも、大和証券に支払われる報酬の中に、MBO成立を条件に支払われる成功報酬が含まれている。会社側はそれを「一般的な慣行に過ぎないから独立性に問題はない」というのだが、一般株主の立場からすれば大和証券ははたして中立なのか、疑念を生じさせる。

大正製薬HDは2023年9月末時点で、2404億円の現預金と1529億円の投資有価証券で、合計4000億円の金融資産を保有している。売上高は約3000億円だから、年商の1.3倍。だが買収価格の算定時に、その金融資産がどの程度考慮されたのか、開示資料からはわからない。

DCF法による株価は、事業から生まれる将来のキャッシュフローを現在価値に割り引いて算出したうえで、余剰現預金などを加えて算出する。余剰現預金とは、事業を回していくうえで必要な運転資金以外の現預金のこと。現預金を必要運転資金と余剰現預金に分ける際、必要運転資金を多めに見積もれば余剰現預金は当然少なくなり、株価を安く算出できる。

DCF法での株価算出において余剰現預金をいくらと見積もったかは、大正製薬HDに限らずほかのTOB案件でも開示資料では明らかにされないのがほとんどだ。「買取価格決定の申し立てをして、裁判所から株価算定書の開示命令を出してもらい、株価算定書を見て初めてわかる」(アメリカ系エンゲージメントファンド・RMBキャピタルの細水政和パートナー)という。

大正製薬HDのように現預金が潤沢である場合、余剰現預金を少なく見積もれば、算定株価を安くする効果がより絶大なものになる。

「MBO指針」をないがしろ

前出の細水氏が今回のMBOについて、最も問題視しているのは、「『改定MBO指針』を無視した不公正なMBOプロセスになっている」点だ。

2019年に改訂されたMBO指針(経済産業省「公正なM&Aの在り方に関する指針」)では、社外取締役で構成される特別委員会を設置し、かつその特別委員会が、会社側のFAとは別に独自のFAを雇い、株価の算定を行わせることを推奨している。

一般にMBOでは、非公開化後も現経営体制を維持するケースが大半だ。買収後もそのポストにとどまりたい取締役には、一般株主よりも買収者の利益を優先するインセンティブが働きやすい。だからこそ一般株主の利益を守るための「特別委員会」の設置を求めるのであり、その構成員は社外取締役を前提としている。

MBO指針では、「社外取締役は一般株主の利益が損なわれないよう業務執行者を監督することが使命である」と明記している。

社外取締役はともすると、支配株主、一般株主、債権者、社内の業務執行者など、どのステークホルダーからも中立であることが望ましいかのように誤解されがちだが、それは間違った認識で、一般株主の利益に立つことが使命だ。その点をはっきり明示した点が、MBO指針2019年改訂の最大のポイントだった。

その点を理解している社外取締役が特別委員会を構成し、なおかつその特別委員会が会社側のFAとは別に、MBO成立を条件とする成功報酬とは無縁のFAを独自に雇うことで公正な手続きになる、というのが改訂MBO指針での建て付けだ。

ところが大正製薬HDの特別委員会は、MBO指針を尊重せず、独自のFAを雇わずに取締役会が選任した大和証券の算定結果を追認している。大和証券をFAに選任した取締役会決議に、社長以下、上原一族など本件MBOに利害関係のある取締役が参加していたかどうかについて、公開買付届出書と意見表明報告書のどちらも見ても記載がない。

たとえ決議に参加していなかったとしても、特別委員会が独自にFAを雇い、大和証券の算定結果と比較するべきだろう。MBO指針はいわゆるソフトローであり法的拘束力はないものの、行儀がよい会社なら順守すべき規範である。これをあえて無視するのは極めて行儀が悪いといわざるをえない。

社外取締役がいない特別委員会

そもそも今回の特別委員会には社外取締役が1人も参加していない。2021年改訂のコーポレート・ガバナンスコード(東証と金融庁が策定)では、プライム市場上場会社は社外取締役を3分の1以上としているが、大正製薬HDは市場区分変更時にプライムよりも基準が緩いスタンダードを選択しており、社外取締役はもともと2人しかいなかった。

しかもそのうちの1人、植村裕之・三井住友海上火災保険元社長が2023年8月に死去したため、MBOの検討段階で社外取締役は國部毅・三井住友フィナンシャルグループ会長1人しかいなかった。三井住友銀行はMBOの資金約7000億円を融資することが予定されていて、明らかに買収者と利害関係がある。当然、特別委員会の委員にはふさわしくない。

それゆえか、特別委員会は社外監査役2人に外部有識者として元社外監査役1人が加わり、計3人という構成になっているのだが、2人の社外監査役のうち松尾眞弁護士は、「所属する法律事務所が大正製薬と取引があるけれど独立性は確保されている」という立場。

もう1人の社外監査役、青井忠四郎氏は丸井の創業者・青井忠治氏の四男で、大正製薬HDでの社外監査役歴はすでに9年目。非公開化後、買収のために設立したSPC(特別目的会社)に再出資する、公益財団法人上原美術館の評議員でもある。

元社外監査役の外部有識者は、2004年から5年間社外監査役を務めた佃孝之氏で、旧住友銀行で専務まで務めた人物だ。

旧住友銀行と大正製薬、そして上原家とは、銀行とその取引先のひと言では片付けられない、特別に親しい関係にある。

大正製薬は1972年に経営基盤強化を目的に、住友銀行、住友化学、住友商事の住友グループ3社と業務提携を締結。これが縁となり、「住銀の法皇」の異名をとった堀田庄三元頭取の次男・明氏を、大正製薬の中興の祖・上原正吉氏の孫娘・正子氏の婿として迎え入れた。

これ以降、現在に至るまで、旧住友銀行ならびに三井住友銀行の歴代の大物トップたちに、大正製薬の社外監査役、持ち株会社化以降は大正製薬HDの社外取締役のポストが提供され続けてきた。つまり大正製薬HDにとってみれば、旧住友銀行(三井住友フィナンシャルグループ)は企業関係においても親戚関係においても、特別すぎる間柄なのである。

元社外監査役の佃氏は、旧住友銀行を退職してから20年、大正製薬社外監査役を退いてから14年が経過していることから有識者として扱い、独立性もありとしたのだろう。だが改訂MBO指針では、外部の有識者は特別委の構成員として「否定されない」としている程度で推奨はしていないうえ、一般株主の利益を図る立場であることを明確にせよと言っている。株主総会で選任されている役員たちとは異なり、外部の有識者は一般株主に対し何の責任も負っていないからだ。

一般株主から見れば、特別委員会の3人は形式的には独立性をクリアしていても微妙な立ち位置である、と言わざるをえない。

非公開化後のことは「開示しない」

一般にMBOでは、他の株主から株式を強制取得した後、買収用に設立したSPCと買収した会社とを合併させ、買収用に借り入れた資金を買収した会社に背負わせる。借金は買収者ではなく買収された会社が返済するのだ。これがいわゆる“LBO(レバレッジドバイアウト)によるMBO”だ。

非公開化後、SPCと大正製薬HDが合併するのかどうか、合併するのであればどちらが存続会社になるのかを大正製薬HDに問い合わせたが、「非公化化後のことは開示しない」とのことだった。

このため、以下は推測の域を出ないが、LBOの手法をとると仮定すると、現在無借金の大正製薬グループは5000億円超の借金を背負うことになる。三井住友銀から借りる7272億円のうち2143億円は、上原一族が大正製薬HD株の売却代金をそのままSPCに再出資するので、その資金で返済できる。その残り約5000億円が、大正製薬グループが背負う可能性がある金額という計算だ。

一方でLBOの手法をとらず、SPCを大正製薬HDと合併させず存続させる場合、借金を上原家の相続税対策に生かせる可能性が出てくる。

今回、SPCには96歳の上原昭二氏(大正製薬HD名誉会長)と82歳の上原明氏(同会長)も出資する。SPCが巨額の借金を背負うことで、SPCの株式の相続税評価額を下げることができるのであれば、当面は大正製薬HDに借金を背負わせる必要がなくなる。

遠くない将来に相続が生じた際、相続完了後に用済みとなったSPCを大正製薬HDと合併させ、その時点で残っている借金を大正製薬に背負わせるシナリオならば、上原一族はそのメリットを最大化できる。

『大正製薬上原家の発想〜巨大閨閥と無借金経営の秘密』(永川幸樹著、徳間書店、1979年)によれば、上原正吉氏は「世襲によるワンマン経営」と「無借金」にこだわったという。

その経営方針は、正吉氏の没後40年以上が経過した今に至るまで死守されてきたが、大正製薬に借金を背負わせるタイミングが非公開化後すぐであっても、相続完了後であっても、長年守られてきた禁忌を破るのならそれなりの理由があるのだろう。

大正製薬株を保有する上場企業の対応 

いずれにしても、改訂MBO指針を無視し、PBR(株価純資産倍率)1倍割れのTOB価格で株式市場から去ろうとする行為は、決してほめられるものではない。はたして2万人を超える個人投資家を抱える上場会社がやってよいことなのか。

上原一族の保有割合は4割。買付目標の下限66.57%を達成するには、株式の持ち合い先の応募(賛成)が欠かせない。その持ち合い先の多くは上場会社である。TOB価格の妥当性だけでなく、手続き的にも問題含みのTOBに応募して、その企業自身の株主に説明がつくのか。

公開買付期間は1月15日に終了する。株式の持ち合い先には、日本を代表する上場会社にふさわしい分別の発揮を望みたい。

(伊藤 歩 : 金融ジャーナリスト)