2007年1月にお目見えしたアップルのiPhone。20世紀に大活躍したシュンペーターは何を間違っていたのだろうか(写真:AP/アフロ)

前回の「日本は『独り勝ち』のチャンスを台なしにしている」(11月11日配信)に続き、経済学者ヨーゼフ・シュンペーターを取り上げる。

ひとことで言うと、シュンペーターの理論は、古く、不十分で、そして誤りだった。今回は、この3点を補う新しい理論を提案したい。

シュンペーター理論のどこが古いのか


この連載は競馬をこよなく愛するエコノミスト3人による持ち回り連載です(最終ページには競馬の予想が載っています)。記事の一覧はこちら

彼の「経済発展の理論」と「景気循環論」を21世紀の理論に更新し、彼の理論に欠けていた残りの半分を補い、そして、発展理論でも循環理論でもない、新しい「経済社会の"変遷"理論」を提示する。

分不相応にもほどがあるし、そしてまだ稚拙で荒い試論だが、この週末、時間のある方はお付き合いいただきたい。この連載では、前々回の「崩壊している資本主義の後に来るものは何なのか」(10月21日配信)と合わせ、3部作の最終部分となる。

まず、シュンペーターの理論のどこが古いのか。それは資本主義が衰退する理由が独占大企業と官僚主義にあるとしたが、誤りだったからだ。

経済全体を独占大企業が支配し、覇者の交代による経済発展という推進力が失われ、大企業内部では官僚主義が横行し、独占企業組織内部からも革新、新結合という経済を動かす活力の源泉が生まれなくなる、というシナリオが資本主義を衰退させると彼はみていた。

だが実際には、20世紀後半には新しい企業群が生まれ、重厚長大産業を支配する超巨大独占企業に取って代わり、経済を支配するようになった。軽薄短小な製品を次々生み出し、20世紀末にはコンピューター化、サービス産業化が進展し、21世紀はさらに新しい独占企業群が生まれた。経済はバブル化し、華やかさはさらにあふれんばかりとなり、一見活力にあふれる経済が加速したからである。

シュンペーターの理論に「半分」欠けていた消費者

では、シュンペーターの理論に何が欠けていたから、20世紀前半に生きた彼は21世紀の変化を見抜けなかったのだろうか。それは、大衆消費社会の経済への構造的な影響であり、消費者軽視であり、消費者と生産者のダイナミズムによる経済社会の変遷である。これがシュンペーター体系の不十分な点であり、3つのうちの2つ目の論点である。

シュンペーターの言う経済発展は、企業家が新結合による革新を企図し、それを銀行家が資本の提供で実現させることによる、生産独占者の覇権の交代の実現により進む。そして、これらはすべて生産者側の世界で完結する。そこには消費者は出てこない。

彼は、革新は消費者側から起こるのではなく、ほとんどすべての場合、生産者側から起こると主張する。消費者の嗜好の変化が経済を変化させることもあるが、あくまで例外的であり、無視できるほど影響は小さいと議論する。

つまり、生産者側だけが議論され、消費者側を(意図的に)無視しているのであり、これが冒頭に言った「半分欠けていること」なのである。

この欠落は21世紀の経済の変動を議論するうえでは致命的になった。スペインの哲学者であるホセ・オルデガ・イ・ガセットが「大衆の反逆」で20世紀初頭に指摘したように、大衆が社会のすべての領域にあふれ出てきて、これまでの秩序を押し流していったのである。

そして、大衆は20世紀後半には社会の中心に進出し、21世紀には居座り、社会を支配するようになってきたのである。17〜18世紀の市民革命よりも本質的に社会を破壊する、イデオロギーなき、しかし実質的な影響のより大きい革命が起きたのである。

政治的リーダーシップはポピュリズムに乗っ取られ、正しい理論はわかりやすい議論に書き換えられ、エリート、専門家の議論はSNSによる陰謀論にかき消され、論壇は左右両極に分裂し、まっとうな議論は退屈だと葬り去られた。

同様に、経済のダイナミズムも大衆に支配されるようになった。

シュンペーター体系の前提として、生産者側の変化のほうが消費者側の変化よりも速いと想定されている。変化の手段も意欲もインセンティブも生産者側にある。消費者は保守的で、新しい製品を望みもしないし、そもそも想像もできないし、さらに出てきても当初はほとんどの人が拒否をする、とシュンペーターは明示的に述べている。変化の主導は生産者側、企業家なのである。

しかし、これは不十分である。20世紀初頭まではそうだったかもしれないが、そうでない世界もありうることをシュンペーターは軽視していた。目まぐるしく欲望を変遷させる消費者を目の当たりにしていなかったから、消費者主導の経済変動の理論的可能性に気づいても無視した(議論したうえで可能性を排除した)のである。

変化し続けた消費者

シュンペーターの認識と異なり、消費者は変化し続けた。その嗜好、行動の変化は、生産者を振り回すことになった。消費者の変化のスピードに生産者はついていけなくなった。これはわれわれには当たり前の日常的風景であるが、それは21世紀的な日常、時代に固有の特殊な日常なのである。

生産側において、在庫循環の影響は薄くなり、景気循環の消滅はリスク低下を意味し、2000年前後にはこれをIT革命による恩恵、ニューエコノミーともてはやした。

だが、実はこの現象は在庫など持っていたら、消費者の気分の転換によって、あっという間に倒産してしまうことの裏返しであった。

在庫の減少で短期の景気循環は見えなくなった一方、消費者に対するブランドを確立した供給者は、つねに品切れ、入手困難を演出し、消費者の渇望、欲望をかきたて、むしり取り、ぼったくりに成功した。企業群は二極化し、巨大に発展した一極の新しい形の支配企業群の時価総額は、とてつもなく膨らんだ。

GAFAMやBig Fiveなどと呼ばれる、これらアメリカのテック企業をはじめとして、企業戦略の主流は、在庫どころか生産設備も最小限で、設備投資もせずに、ひたすら身軽さを維持するものとなった。

同時に、消費者の気まぐれな、かつ群集としてまとまって雪崩を打つような行動変化の波に対抗し、かつ彼らからむしり取るために、巨大企業はプラットフォームを独占した。同時に、そのプラットフォームで活動する企業群(前述の企業群の二極化したもう一方の極)を利用し、消費者と実際に製品・サービスを供給する企業群との戯れ(血みどろの企業の生存競争)から安定的に利益を上げる仕組みを作った。

また別の企業群は、この血みどろの戦いを避けるべく、また消費者からの支配から逃れるべく、逆襲した。つまり、消費者を麻薬漬けにするかのごとく、スマートフォン、ゲーム、動画などの強い刺激と常習性を植え付けるサービスを次々と生み出した。

消費者は供給側の虜となり、自ら思考、選択する能力も意欲も失っていった。それはAI(人工知能)の濫用によって拡大し、社会全体を覆い尽くしつつある。

「主導権の移動」に気づかなかった日本企業

ちなみに、日本企業の長期投資戦略が失敗だったどころか、シャープや東芝などの企業が次々に窮地に追いこまれたのはなぜか。それは、需要サイドの変化のスピードが高まりすぎて、供給サイドが長期投資、とりわけ設備投資をすると、技術的には陳腐化しないのに、消費者からは忘れられてしまい、製品はまったく売れなくなっているという、経済変動の主導権が移動していることに気づかなかったからである。

だからこそ、半導体製造請負などの企業は、大規模設備投資はするが、長期ではなく短期で回収するために世界市場をすべて支配することで、市場の広さで回収する戦略にシフトしていったのである。

株式市場も短期トレード、アルゴリズム取引、アクティビストによる短期でのキャピタルゲイン狙いという投資スパンの短期化が起きているが、実体経済、サービス業だけでなく製造業においても、研究開発においてすら、起きていたのである。

経済変動の体系に関して、シュンペーターは、既存独占的企業から、銀行家に資本提供を受けた企業家による新規企業への覇権の移動が、経済を動かし発展させるメカニズムであり、この発展の原動力は銀行家とその信用創造によって生まれる新しい資本であるとし、供給者サイドでの覇権争いが経済のダイナミズムの源泉であるとした。

しかし、もう一方のサイド、消費者群の変化による経済全体の変動、これが20世紀後半から相対的重要性を高め、21世紀にはこちらが主導となり、経済を動かすようになったのである。

すなわち、経済変動のメカニズムは、生産者側と消費者側、それぞれのダイナミズムが他方の経済主体の行動に影響を与える。生産者側の構造変化が、生産者世界内部のダイナミズムにより起こり、この活力が消費者側の構造変化を生む。

そして、この構造変化が消費者世界の内部のダイナミズムを刺激し、消費者群集を、そしてその欲望をあふれ返させ、その混乱が生産者世界をかき乱し、翻弄する。生産者側は、これに再び逆襲し(オルデガを文字れば「大衆への逆襲」)、大衆を麻薬的サービスで堕落させる。

かくして「迎合資本主義」は確立した

この双方それぞれの内部の構造的ダイナミズム、そして、2つの構造相互のダイナミズム、この二重のダイナミズムが相まって、経済変動のメカニズムは変遷していき、経済は、産業化社会、大衆消費者社会と社会をも巻き込んでダイナミックに変遷していく。これが、近代資本主義社会における、経済社会変遷メカニズムなのである。

第2次世界大戦以降、生産者側の変動メカニズムから消費者側の変動メカニズムに主導権が移った理由は、生産者の変化のスピードを消費者の変化のスピードが上回るようになったからである。21世紀、その速度差はさらに拡大し、消費者を懸命に追いかける生産者、生産者を支配するが消費者には迎合して利益を増やそうとする資本、という構造が経済全体にいきわたり、迎合資本主義が確立したのである。

しかし、このような顛末に行きつくには、近代資本主義の始まりからの伏線があった。それを振り返り、近代資本主義全体の変動メカニズムを振り返ってみよう。

まず、資本主義が始まった1492年、移動を始めたのは、クリストファー・コロンブスに代表される冒険家(一攫千金を狙う山師)であり、彼を支援した資本であった。

彼らと、付随する資本が世界を回り、収奪し、利益を蓄積していった。「動いたもの勝ち」であり、動いていった欧州が武器と菌により、受け身で待ち受けることとなった世界を汚染し、支配していった。

その後、世界から収奪した富と、中世から蓄積してきた富をフランスの宮廷の王と貴族が大量に消費し、資本は世界から利益を奪う手段だけとしてではなく、欧州社会内部にあふれ出て、経済はテイクオフした。

勃興してきたブルジョワジー(私有財産を持つ豊かな中産階級)たちは、貴族のマネをして、贅沢と恋愛にのめり込んだ。消費は社会全体において膨張を始め、経済は成長(ただの拡大だが)を始めた。

いかにして主導権は消費者へ移ったのか

しかし、ここまでは、必需品のぜいたく化、消費量の増大にすぎなかった。豪華な衣服、豪華な食事、豪華な住居(宮殿)にすぎなかった。産業革命を経て、馬が自動車に変わったときも本質は必需品の代替であった。

移動という必需のサービスが、自らの足から馬になり、馬車になり、自動車になった。だから、経済は過去の延長線上にあり、消費者の求める財は同じものであり、量と質が変化するにすぎなかった。貴族のぜいたく品がブルジョワジーに広がっても、それは大衆とは無縁であったから、経済全体への影響は小さかった。

しかし、19世紀後半から20世紀になると、明確に産業革命は生活革命となって結実した。冷蔵庫、洗濯機、掃除機は、家事労働から人々を解放した。そして、これらは、労働力が都市にあふれ出しただけでなく、庶民に余暇というものを与えた。彼らは暇になったのである。

この暇をつぶすために、レジャーというものが生まれた。余暇をつぶすためのもの、レジャー消費、エンターテインメント消費が急速に拡大していったのである。ラジオが生まれ、テレビが生まれた。

ここに、産業革命ではなく、産業構造革命が起きた。そして、それは消費構造革命に主導されたものだった。ここに、主導権は消費者、大衆消費者群に移ったのである。

必需品である衣食住や移動手段と異なり、レジャーは何でもいい。時間がつぶせて楽しければ、それでいいのである。だから、供給側はさまざまな分野から参入が可能であった。

ラジオ、テレビのような技術革新の賜物のようなものもあれば、ウォークマンのようにアイデア勝負のものもあった。スマートフォンも、要は暇つぶしの道具である。メールもネットサーフもSNSも動画も、すべて暇つぶしの娯楽品である。

暇つぶしに金を払わせるために、供給側はアイデアを絞り、お互いに余暇時間の奪い合いをしている(そして睡眠という必需品が奪われる)。供給側は大混乱の中での激しい競争となる。そして、消費者側はすぐに飽きて、次の暇つぶし手段に移っていく。流行があり、群集消費者は雪崩を打って移動する。供給側はこれに翻弄され続ける。

供給側も逆襲、「麻薬的サービス」で再度消費者を支配

しかし、こうなったのは供給側の責任なのだ。必需品の改善、改良、画期的な新型モデル、別の製品といえる代替手段を誠実に積み上げて作るよりも、新しいレジャー品、エンタメ品を安直なアイデアで生み出し、消費者を奪い取るほうが手っ取り早いし、何よりも利益率が高くて儲かる。なぜなら、妥当な価格が消費者にはわからないから、欲望を刺激して、いくらにでも価格設定できたからである。

この過激化したエンタメ品の競争は、少しでも消費者をすばやく激しく刺激したほうが勝つようになる。既存のエンタメ品におぼれている、ただし飽き始めている、そのような消費者を奪い取るには、刺激を強めるのが手っ取り早いからだ。

こうして、エンタメ品は刺激が強くなりすぎる。すると、飽きられるのも早くなる。さらに供給側は刺激を強くする。こうして、ついにはライバルへ乗り移ることができないような中毒性を持った麻薬的な製品、サービスばかりに変わっていく。消費者を中毒化する麻薬的サービスの供給合戦になるのである。

消費者の変化が加速化し、嗜好は移ろい、あっという間に流行は変わり、供給側は翻弄されるようになったわけだが、これは供給側が安直に消費者を支配しようとして刺激を強めすぎたために、それに慣れすぎて、消費者は飽きっぽくなったために、消費者に翻弄され、逆に支配されるようになったのである。そこで、逆襲として麻薬化し、消費者を再度支配しようとするのである。

これが、供給側(生産側)と需要側(消費側)の相互のダイナミズム、近代資本主義社会における経済構造の変遷である。

こうして現在、資本主義は重商主義、産業資本主義、金融資本主義という変遷を経て、現在は群集消費者が支配する「迎合資本主義」となっているのである。

社会主義ではない別の形で資本家が支配されるようになったのだ。消費者に振り回され、消費者に迎合する商品を生み出し続けることでしか生き残れない企業、資本が社会を覆い、その資本家、企業家を群衆が支配する社会となったのである。

シュンペーターが想定したのと逆の形で、金融資本主義は乗っ取られつつあるのである。そして、今後は消費者が麻薬漬けになり意欲を失ってしまい、経済変動のダイナミズムが停止していく。変動を止めた資本主義とは、資本主義が消えていくということである。

「迎合資本主義」誕生に貢献してしまったシュンペーター

1点補足すると、シュンペーターの小さな、しかし重大なかつ本質的な誤りが、ここで大きく影響している。それは、イノベーションとは発明ではなく、技術進歩を伴わなくてもよく、いやむしろ、そういうものを含まない、新結合による革新であると主張したことである。

新結合とは安直なコラボである。消費者の奪い合いのための安直な、消費者の目先を買えるための手段である。社会は堕落し、真の思考が停止したのである。

もちろん、良い新結合もあるだろう。ただし、多くの新結合は発明や技術進歩が起きなくなったときの安直な逃げ場であることが多かったし、そうなるのは必然だったのだ。

麻薬消費社会、迎合資本主義を生み出すのに、シュンペーターの誤った「イノベーション」概念は貢献してしまったのである。前回批判した、現代の誤った「イノベーション」概念も、シュンペーターの誤りから生じる必然的な誤りの子孫ともいえる。

もちろん、今回展開した経済変遷理論が現時点で正しかったとしても、迎合資本主義が麻薬化資本主義によって滅ぼされていくという予測が正しかったとしても、その後、必ず新しいことが起き、今回の理論も間違ったものとして否定されるときが来るだろう。

まあ、その前に、現時点でこの予測が正しいということは、今のところ私しか思っていないわけであるが……。

(本編はここで終了です。この後は競馬好きの筆者が競馬論や週末のレースを予想するコーナーです。あらかじめご了承ください)

競馬である。

イクイノックスが、11月26日に開催されたジャパンカップ圧勝後、有馬記念(12月24日開催)参戦をほのめかしていたが、結局、出走せずに引退すると発表された。

イクイノックス引退は当然、これが競馬の本質

これは残念ではなく、当然だ。有馬記念はトリッキーなコースで、負けるリスクも少しあるし、何よりケガをしたら大変なことになる。しかも、勝っても本賞金はたった5億円だ。

イクイノックスの父、キタサンブラックの種付け料は2000万円に高騰した。現状の雰囲気なら、引退するイクイノックスも2000万円でおかしくない。1年200頭として40億円。10年で400億円だ。

2000万円というのは余勢種付け料と呼ばれるもので、種牡馬を所有するシンジゲート株の持ち主以外に、種牡馬が交配をする余力がある場合に種付けの機会を与える場合の価格で、200頭の全部ではない。また10年間ずっと2000万円のバブルは続かないとしても、今の雰囲気なら、売却価値は300億円にはなるだろう。

しかし、もし有馬記念で負ければ、200億円以下になるだろうし、ケガでもすれば最悪ゼロ円だ。たった5億円のためにリスクを冒す阿呆はいないのである。

これが競馬だ。レースではなく繁殖だ。レースは繁殖のための試験場にすぎない。だからレースに高額賞金をつけるのはおかしいのである。

さて12月3日はチャンピオンズカップ(中京競馬場、第11レース、距離1800メートル、G1)。ダート決戦。

3歳のセラフィックコール(7枠12番)は、ここが本当の試金石だが、1800メートルという未知の距離と、4つのコーナーが試金石となるレモンポップ(8枠15番)よりは、不安要素は少ない。一騎打ち。

ただし、私はレモンポップを応援したい。この2頭とも無事に種牡馬入りすることを願いたい。

(当記事は「会社四季報オンライン」にも掲載しています)

(小幡 績 : 慶應義塾大学大学院教授)