中日コーチ打診「できないですよ」 未経験なのに大抜擢…猛説得した新監督の“確信”
正岡真二氏は星野仙一監督に請われ、1987年に中日1軍守備コーチ就任
闘将に口説かれた。元中日内野手の正岡真二氏(現・名古屋北リトルリーグ総監督)は1984年シーズン限りで17年間の現役生活にピリオドを打った。引退後は中日関連会社に勤務していたが、1986年オフにドラゴンズにコーチとして復帰した。兄貴分の星野仙一氏が中日監督に就任。「お前、やってくれないか」と打診され、一度は断ったが、最終的には押し切られた。1軍守備コーチとして、3冠男も指導する立場になった。
「現役をやめてから2年間、中日の関連の会社に行っていた。体操教室とか、いろんな教室関係の仕事をね。そしたら、仙さんが(中日の)監督をやるってなって『コーチをやってくれないか』って誘われた」と正岡氏は当時を振り返った。最初は断ったという。「2軍と思っていたら『1軍でやってくれ』と言われたから。『えーっ、それはできないですよ。今までコーチをやったこともないのに、迷惑をかけます』ってね」。
星野氏も引かなかった。正岡氏の抜群の守備力はよく知っている。その技術を中日ナインが学ぶことはチームにとって大きなプラスになると確信していたからこそ、口説いた。正岡氏はさすがにもう断れなかった。「もうやるのはしんどいかなって思っていたんだけどね。また野球界に足を突っ込んでしまった」と笑いながら話したが、もちろん、やるとなったら覚悟を決めた。星野監督を支える存在になることを誓い、再びドラゴンズのユニホームを着た。
落合博満は「見えないところでやっているんだよ」
正岡氏が特に注視した内野守備。1987年の中日レギュラー三塁手は“オレ流3冠男”だった。1986年12月に落合博満内野手が牛島和彦投手、上川誠二内野手、平沼定晴投手、桑田茂投手との1対4の世紀のトレードでロッテから加入した。パ・リーグで2年連続3度目の打率、本塁打、打点の3冠王を達成し、中日移籍とともにプロ野球では日本人初の1億円プレーヤー(推定年俸1億3000万円)になった超大物だ。
「落合に関しては練習量とかも任せていたね。本人がもうOKといったら終わりだった」と正岡氏は話す。守備も安定していたという。「動ける範囲は広くなかったけど、捕れるところはきっちり。うまかったね。送球にしても確実性があったよな」。さらにこう付け加えた。「あいつは練習もそれなりにやっていた。抜くことは多かったけどね。うまいこと抜くんだよ。でもね、どっちにしても、あいつは1人でやるからね」。
それもオレ流だった。「人の前ではやらない。あいつは見えないところでやっているんだよ。そういう1人の練習の方が多いってこと。見えるところでは、ちゃらんぽらんみたいな感じでやっていたんだよ」と正岡氏は4歳年下の3冠男の“本性”に舌を巻いた。「あいつはほとんど他のヤツと飯を食べに行ったりしていなかったんじゃないかな。聞いたことがなかった。無駄なことはしないって感じだったな」。
当時コーチ1年生だった正岡氏にとって、3冠男のやり方、姿はこの先の指導者人生にも何かしら役立つものはあったのだろう。中日での2年目以降、落合氏のポジションはサードからファーストに変わっていくが、守備に関して注文をつけることはほとんどなかったそうだ。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)