京都市豊国神社の豊臣秀吉像(写真:Takashi Images / PIXTA)

今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は信長の後継者を決めるために開かれた清洲会議と、裏で繰り広げられた家臣団の対立を分析する。

本能寺の変(1582年6月)で、家臣・明智光秀の襲撃により自害した織田信長。その逆臣・明智光秀を山崎の合戦(6月13日)で、いち早く討ち取ったのが、明智光秀と同じ織田重臣の羽柴秀吉だった。

織田宗家を継ぐ資格を持つ三法師

同年6月27日には、織田家の後継問題と領地再分配を取り決めるため、織田家の諸将が尾張国清洲城へ集結する。いわゆる清洲会議である。

ちなみに、脚本家の三谷幸喜氏は、この清洲会議を題材にして小説『清須会議』(幻冬舎、2012年)を執筆している。そして、この小説は2013年に映画化(『清須会議』柴田勝家役を役所広司氏、羽柴秀吉役を大泉洋氏が演じる)されているため、興味のある人は見てほしい。

織田信忠(信長の嫡男。本能寺の変の際に自害)には、嫡男・三法師がいた。三法師はこの時、3歳だったが、織田宗家を継ぐ資格を有していた。

信長には織田信忠以外にも息子がいたが、次男の織田信雄は伊勢北畠家に、三男の織田信孝は神戸家(北伊勢の豪族)の養子となっていた。よって、信長は嫡男の信忠を自身の後継者と考えていたのだ。

他家に養子に入った信雄・信孝ではなく、信忠の子・三法師が家督継承者と目されたのは、そうした事情もあるだろう。しかし、三法師はまだ幼い。名代(後見人)が必要であった。名代を織田信雄・信孝のどちらが務めるか。両者は互いに譲らなかった。

織田家の宿老(羽柴秀吉や柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興)は、信雄・信孝を名代とせずに、三法師を当主として、宿老を中心とした政権運営を進めていくことにした。

三法師は、安土城の修築が終わるまで、叔父・織田信孝がいる岐阜城に滞在することになった。織田信孝は三法師を手中にして、政治の主導権を握ろうとするが、織田信雄はそれに反発。織田信雄は羽柴秀吉と結び付き、織田信孝は柴田勝家と組むことになる。

秀吉と柴田勝家の対立もあった

その背景には、宿老同士の対立(羽柴秀吉VS柴田勝家)もあった。天正10年(1582)10月28日、羽柴秀吉は、山城国本国寺(京都府京都市)において丹羽長秀・池田恒興と会談する。そして、織田信雄を名代とすることに決めるのだ。秀吉側の言い分としては、柴田勝家の企みで、織田信孝が三法師への謀反を企てたので、織田信雄を名代に立てることにしたという。

だが柴田勝家からすると、秀吉らの行動は、清洲会議の取り決めに背くものだった。

同年11月1日付の秀吉書状(家康の家臣・石川数正宛)が残されているが、そこには、前述の旨が記されるとともに、家康にも織田信雄擁立に賛同してほしいとの内容の記載がある。

この秀吉書状には、家康に自分の意向を伝えてほしいと書かれているので、実質上は、家康宛の書状と見てよい。家康は、信雄の織田当主擁立に賛意を示すことになる。

秀吉らのやり方に反発した柴田勝家は、織田信孝や滝川一益(織田重臣)と一緒になり、挙兵する(1583年4月)。秀吉は、賤ヶ岳の戦い(滋賀県長浜市)で柴田軍を破ると、4月22日には、柴田勝家の本拠・北庄城(福井県福井市)を落城させ、勝家を自害に追い込んだ。織田信雄は、信孝が籠る岐阜城を攻め、開城させる。

5月2日、織田信孝は尾張国内海(愛知県)で自害させられた。このことから、秀吉の勢威は増し、彼が天下人として政治を推進していくことになる。

同年、秀吉は摂津の大坂に城を築く。織田信雄は、戦の勝利により、尾張・伊勢・伊賀の3国を領有する(本拠は、伊勢長島城、三重県桑名市)。

だが、秀吉と織田信雄の関係はその後、急速に冷却していく。秀吉としては、織田家中の権力闘争を勝ち上がり、実力者となった今、信雄の存在価値は低下していた。織田信雄としては、秀吉が天下人たらんとして台頭してきたのが気に入らない。

天正11年(1583)の11月には、上方で織田信雄が切腹したという風聞が流れるほどであり、秀吉と織田信雄の対立は臨界点を迎えようとしていた。織田信雄の重臣の中にも、秀吉と対立するべきではないとの見解を持つ者もあった。津川雄光・岡田重孝らがそうである。

信雄は家康を頼りにする

しかし、その一方で反秀吉派の家臣もいて、織田信雄は津川雄光と岡田重孝・浅井長時を伊勢長島城で殺害してしまう。秀吉に内通したという嫌疑であった。これが天正12年(1584)3月6日のことである。

3重臣の殺害は、秀吉と断交すると宣言したに等しい。台頭してきた秀吉に対抗するため、織田信雄が頼りにしようとしたのが、家康であった。家康は信雄と組むことになるが、その背景には関東の情勢にまで介入し始めた秀吉への対抗心というものがあったかもしれない。

天正12年2月、家康は酒井重忠を尾張に遣わし、織田信雄と密談させている。3月上旬の信雄3重臣の殺害は、家康と相談したうえでのことだったのである。家康は秀吉と対決する道を選んだのだ。信長が本能寺で倒れてからわずか2年。その間に政治情勢は激変し、また新たな戦いが始まろうとしていた。

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)