WBC表彰式(写真:時事)

WBCで日本代表監督を務めた栗山英樹氏が、監督任命から優勝までの日々を振り返った書籍『栗山ノート2 世界一への軌跡』より、一部抜粋・再構成してお届けします。

先入観は軽く、予備知識は重く

選手選考を進めていくにあたって、私はかつて教えを受けた野村克也さんの言葉をノートに書きこみました。「先入観は軽く、予備知識は重く」というものです。

先入観というものは、私たちの日常の至るところで顔を出してきます。対人関係においては、「あの人はいつもこういう態度をとる」とか、「どうせ自分のことは評価していないんだ」といった思い込みや決めつけと言うことができるでしょうか。

先入観にとらわれると、思考が止まってしまいます。自由な発想が生まれません。「自分はあの人に好かれていない」との思いに凝り固まっていたら、その人との関係は改善されないでしょう。

選手選考にあたっては、「あの選手はこういうタイプだ」とか、「あの選手にこういうプレーはできないだろう」といった先入観を、徹底的に排除していきました。頭のなかで穏やかな水面を思い浮かべ、すべての選手の可能性を評価していきました。

野球における予備知識は、主にデータを指します。メジャーリーグでも日本のプロ野球でも、いまやデータによる分析は欠かせません。

チームにはスコアラーだけでなくアナリストがいて、「この打者を打ち取るには、こういう軌道のボールが有効です」とか「この投手はこういう打者を得意にしている(苦手にしている)」といったデータが出てきます。私の現役当時は「今日の相手投手は球のキレがある」とか「球が重い」といった感覚をチーム内で共有したものですが、現在は選手を評価する根拠として客観的なデータが活用されています。

予備知識としてのデータは、豊富に持っていたほうがいいでしょう。ただ、実際に使う際には取捨選択するべきです。いつ、どこで、どのデータを、どのように使うのかは、しっかりと計算しなければならない。データを詰め込み過ぎて、選手が混乱したら本末転倒です。

WBCは3月開催で、通常ならオープン戦の時期にあたります。いつもより早く身体を仕上げて、トップフォームまで持っていかなければなりません。

気になるあの選手は、これまで3月、4月の試合でどんな成績を残していたのか。

気になる別の選手は、アメリカのあの投手に似たタイプを得意としているのか。

かなり細かなところまでデータで分析できることで、迷いが生じることもありました。我が身の混乱を教訓として、「予備知識は重く」の教えには「使いかたも大事」というただし書きがあることを確認しました。

自分を犠牲にしても他の人を助ける心が利他の心

京セラグループの経営の原点とされる「京セラフィロソフィ」で、稲盛和夫さんがこのように話しています。

日本の野球ファンのみなさんは、どんなチームにワクワクするのか。どんなチームが見たいのか。

これからの日本野球界に、プラスとなるチームとはどんなものなのか。

先入観は軽く、予備知識は重く。

固定観念にとらわれるな。既成概念は捨てろ。

侍ジャパンの監督を務める私が宿すべき利他の心は、どの選手を選ぶべきなのかを、自分を犠牲にしてまで考える。そこまで真剣に考えて正しいと思ったものこそ、誰から見ても正しいものである。つまり、人間として正しい判断と言えるのでは、と考えました。自分中心ではなく、選手のため、日本野球のため、日本という国のために「これがいい」と考えるなら、おそらくは周りの人たちも協力してくれるに違いないでしょう。

自分を犠牲にしてまで考えるなかで、「多様性」という言葉が思い浮かびました。

日本のプロ野球が過渡期を迎えているなかでは、「どこで野球をしているのか」を問うのではなく、同じ野球人として手を取り合い、ともに野球の素晴らしさを広めていくべきです。

おりしも2022年2月に、ロシアによるウクライナ侵攻が勃発しました。新型コロナウイルス感染症に世界がなおも苦しめられているなかで、地球環境の変動に世界が協調して取り組んでいるなかで、軍事侵攻というものが起こることに、私自身は戦慄するしかありませんでした。

力による一方的な現状変更を認めることはできず、国籍や人種、性別や宗教などを超えて世界が共存共栄していってほしい。手をつないで助け合っていきたい。

スポーツでお互いの力をぶつけた者同士が、武器を持って戦うことなどできるはずはない。多様性を持ったチーム作りは、協調することの意味を世界に知らしめることにつながるのではないだろうか。

そう考えると、スポーツにも、WBCにも、世界平和のためにできることがあるはずだ。日本人の魂を持ち、つねに全力を尽くし、利他の心を持つ選手がいるならば、侍ジャパンへの招集を検討しようと決めました。

ラーズ・ヌートバーの第一印象

メジャーリーグでプレーする外国籍選手については、出場資格に関するルールが直前まで明らかにされませんでした。だからといって、決まってから動くのではリスクがあります。早い段階から可能性を探っておくべきだと考え、翔平の通訳を務める水原を通じて、有資格者と見られる選手に「ジャパンから招集を受けたらどうするか?」を聞いてもらいました。

6、7人の選手に当たってもらったところ、すべての選手から前向きな返答を得ることができました。エンゼルスで翔平のボールを受けていたカート・スズキ捕手も、「選ばれたら喜んで参加します」とのことでした。22年限りで現役を退いたため、候補からは外しましたが。

ラーズ・ヌートバーとは、まずオンラインで話をしました。第一印象からみなさんの知る彼そのもので、一生懸命で、素直で、侍ジャパンのために戦う魂を持っていることがわかりました。

彼のお父さんの家系はオランダにルーツがあり、オランダからも声がかかっているとのことでした。カクテル光線を浴びたグラウンドに立つ以前から、私たちの戦いは始まっていたのです。

武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり

選手選考でもっとも難しかったのは、やはりメジャーリーグでプレーする日本人選手の招集です。選手によって状況は異なり、出るか、出ないかは所属チームに委ねられるところもあります。

どちらしても、私の魂をぶつけるしかない。選手と会うためにアメリカへ向かう機上でノートを広げた私は、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」の一文を書き記しました。

18世紀の佐賀藩士・山本常朝が武士の心を記した『葉隠』に収められているものです。これまで様々に解釈されてきましたが、私は「死を覚悟するぐらいの気持ちで取り組むことで、自分がやるべきことをまっとうできる」と理解しています。

アメリカではダルビッシュ有や翔平らと会うことになっていましたが、不安しかありませんでした。不安だらけでした。

ひょっとしたら、全員から「NO」と言われるかもしれません。頭に浮かぶのは最悪のイメージばかりですが、命を懸けてでも全員の首を縦に振らせる。「出ます」と言ってもらうまでは日本に帰らない、という覚悟でした。

彼らメジャーリーガーが出場しないとなると、チームの構想が根本から崩れてしまう。私が監督を任された理由のひとつには、翔平との関係性も含まれていたでしょうから、そもそも監督をやることの意味が問われてしまう。

何よりも、誰もが見たいと思えるチームでWBCに臨めないと、日本野球が崩壊してしまうかもしれない。それぐらいの危機感を抱いていましたから、ダル、翔平、吉田正尚、鈴木誠也の4人の日本人選手に、ヌートバーを加えた5人のメジャーリーガーの参加を取り付けた際には、安堵のため息がこぼれました。

吉田は22年のオフに、オリックス・バファローズからボストン・レッドソックスへの移籍が決まった選手です。新しい環境に適応するためには、シーズン前のキャンプやオープン戦は大切な助走になります。

正直に告白すれば、彼のメジャーリーグ入りが決まった瞬間に、自分のリストからは名前を消しました。本人から「出たい」と連絡をもらったときには、喜びよりも驚きに包まれました。

私は率直な思いを伝えました。

「これまでメジャーリーグへ移籍した選手を見ると、1年目は簡単ではない。自分が正尚の父親だったら、『レッドソックスでしっかりプレーするためにも、WBCには出ないほうがいい』と言う。それでも、いいの?」

吉田は「監督、そう言ってくれるのは嬉しいですけれど」と切り出します。携帯電話を持ちながら、お辞儀をしていたかもしれません。続けた言葉には、太い芯が通っていました。

「僕はメジャーリーグでプレーすることもそうですが、WBCで世界のトップに立つことが夢なんです」

感動しました。まぶたの奥が、じわりと潤みました。

誰にでも訪れる人生の大一番


彼らメジャーリーガーが出場を決意した本当の理由は、実は私にもわかりません。ひとつだけ言えることがあるのなら、日本野球のために自分のすべてを捧げて世界一へ挑む、という思いに貫かれていたということです。

私たちの日常生活で、「死を覚悟するぐらいの気持ち」になる場面は、なかなか訪れないかもしれません。職場や学校で過ごす時間に照らすと、ちょっと大げさでしょうか。

けれど、人生の大一番と呼べるような局面は、誰にでも訪れるはずです。会社にとって大切なプレゼンとか、全国大会出場を懸けた試合とか、息子さんや娘さんの受験とか。そこで存分に力を発揮するために、日頃から準備をしておく。「いい準備をするため」の心構えとして、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」を心に留めてもらえたら、と思うのです。

(栗山 英樹 : 北海道日本ハムファイターズ前監督)