T. Etoh

写真拡大

あのエンツォ・フェラーリが、世界で最も美しい車と評したほど、ジャガーEタイプの美しさは当時としては際立っていた。Eタイプのデザインは元来空力デザイナーであり技術者であったマルコム・セイヤーによって生み出されたものである。彼がジャガーに入社するや、その空力知識を生かし、Cタイプ、Dタイプと次々とル・マンで優勝する強力なマシンを生み出していった。

【画像】12台のみが生産されたジャガーライトウェイトEタイプ(写真10点)

Dタイプは忌まわしい事故のあった1955年から3年連続でル・マン24時間を制した。しかも最後の57年は1位から4位を独占する圧倒的な強さを示していたのだが、ジャガーはこの時すでに次の手を打っていた。当時ジャガーのチーフエンジニアだったウィリアム・ヘインズはマルコム・セイヤーに対し次期ウェポンの開発を命ずるのだが、それはレースで勝利するためのマシンであると同時に、ロードゴーイングのポテンシャルを持ったモデルでなければならないという要求を突き付けたのである。こうして開発の過程で誕生したのがE1A及びE2Aと呼ばれたプロトタイプ群だった。もっとも最初に作られたE1Aはジャガーの要求に応えることはなく1957年にはスクラップにされている。一方E2Aは1960年に制作され、こちらはE1Aのフルモノコックのアルミ製とは異なり、スチール製のシャシーにアルミボディを持つ仕様であった。とはいえ、この時点でレースに勝利するという目的は断念され、次期モデルは純粋なロードカーとして生を受けることになったのである。

かくして1961年3月15日、ジャガーEタイプが誕生する。ボディデザインはCタイプやDタイプの流れを汲んでいる空力的な優位性は持っていたものの、この車はレースを意図して作られたものではなかったし、そもそも生産能力を上回る需要があったから、敢えて宣伝を兼ねたレース活動の必要性がなかったともいえる。ところがFIAがEタイプにお誂え向きなカテゴリーを作ってくれたので、Eタイプでのレース活動が可能になった。

Eタイプデビューから1年後の1962年、ジャガーはEタイプのコンペティションバーションの制作を決定した。それはXK120からCタイプを生み出したのと同様、まずは減量から始めたのである。ボディをアルミパネルで形成し、鋳鉄ブロックのエンジンもアルミブロックに変更された。こうして1963年に18台の限定でライトウェイトEタイプを製作することが決まったのだが、実際に当時制作されたのは12台にとどまった。この歴史上の12台については公式にNo.1からNo.12までのシャシーナンバーを記載したドキュメントが出されている。

それによればその12台のシャシーナンバーは以下の通りだ。

No.1 850006
No.2 S850659
No.3 S850660
No.4 S850661
No.5 S850662
No.6 S850663
No.7 S850664
No.8 S850665
No.9 S850666
No.10 S850667
No.11 S850668
No.12 S850669

多くのライトウェイトEタイプの識者にとってはもしかすると疑問符がつくかもしれない。理由は数多くのモデルがライトウェイト風にコンバートされ、本物との識別が付きにくくなっているからであろう。実は正式なジャガーのドキュメントの中にはNo.6〜No.8のドキュメントもない。しかしこの3台はいずれも歴史本のページを飾る由緒正しき真正ライトウェイトEタイプである。

真正であるとかそうでないという区分けはかなり複雑で、前述したようにコンバートされたものもあれば、後から作り出されたモデルもある。代表的なところではCUT7の登録ナンバーを持つシャシーナンバーEC1001で、これはセミライトウェイトにカウントされている。しかもこの車は元々2台しか存在しなかったロードラッグクーペボディを持っているのだ(つまり3台目)。