見れたらラッキー!? 神田川をどんぶらこ「ゴミ運搬船」は究極の「エコ優等生」か 「静脈物流」支える江戸風情とは
東京都心を流れる神田川。人々の交通手段としては活用されていませんが、ごみ運搬用の船が定期運航されています。この運搬船がSDGsの観点で見直されています。
水道橋から神田川を下っていく「静脈物流」
東京のまさにど真ん中で、いまだに船を使った定期運搬が行われているとしたら驚くはずです。
神田川を流下する東京都のごみ運搬船(深川孝行撮影)。
JR水道橋駅西口、横を流れる神田川の脇に、白い倉庫風の施設があります。そこに1日1回、大きな艀(はしけ。エンジンを持たない船)が接岸し、施設から延びた巨大なノズル状の機械(コンベア)から艀へと不燃ゴミを載せていきます。
ごみを満載にした艀は青色シートが被され、小型タグボートに引かれながら悠々と隅田川へと出航です。
この船は、都民が排出したプラスチック類などの、いわゆる「不燃ごみ」を東京港沖合のごみ処分場(埋立地)まで運ぶもので、正式名は「不燃ごみの船舶輸送」と呼ばれ、CO2排出が極めて少ない「静脈物流」として注目を集めているのです。
「静脈物流」はゴミ輸送を意味し、人体で老廃物やCO2を運ぶ「静脈」にあやかった呼び方です。
ごみ運搬には「第三〇号」「第三一号」の艀2隻が投入され、千代田区の千代田清掃事務所によれば、船主は中島運輸(本社・東京都江東区)で同社が事業を委託、2隻がローテーションしながら1日1回ごみ運搬を担うようです。なお稼働日は日曜と正月3が日を除く毎月1〜28日とのことです。運がよければ、この運搬船が川を下っていく様子がお目にかかれるのです。
守備範囲は千代田、文京、台東の3区で、前述した“白い倉庫風の施設”千代田清掃事務所三崎中継所へ、2t積ごみ収集車(パッカー車)がほぼ毎朝ここにやってきます。
艀の最大積載量は18tで、JR水道橋駅の横にある施設を小型タグボートに曳かれて出航。秋葉原、浅草橋と神田川を東進し隅田川に出ると、大型タグボートにバトンタッチし一路隅田川を南下し、東京港の中央防波堤埋立地にある「不燃ごみ処理センター」近くの揚陸施設を目指します。行程は約20kmで約3時間の船旅です。
パッカー車9台分を船1回で運ぶ
昭和40年代前半頃までは、こうした艀による物流の光景は、東京でもごく自然の光景でしたが、スピード重視の高度経済成長下で「水運」は急速に姿を消して行きました。しかし半世紀を過ぎた今、「CO2削減」「人手不足対策」の中で”救世主”として再評価されているのです。
例えばCO2削減ですが、単純計算で艀1隻は2t積パッカー車「9台分」に相当します。2021年度のゴミ運搬実績は約2100tという膨大な量で、2t積パッカー車で平均1t運搬だと想定して換算すれば、実に2000台分。延々と中央防波堤へ運んでいた大量のパッカー車が、2隻の船舶のピストン輸送で済んでしまうのです。
さらにCO2排出量を比較すると、1tの荷物を1km輸送する際の排出量は、営業用貨物トラックの約216gに対し船舶は43gで、わずか5分の1です。排出量最小の輸送手段は鉄道貨物の21gですが、船舶もそれに次ぐ地球にやさしい”優等生”なのです。
先述の都内の運搬実績で換算すると、2t積みパッカー車の場合は9t、艀は約1.8tと、優劣は一目瞭然です。人手も船舶が少なくてすみ、パッカー車が毎日最低9人のドライバーが必要だとすると、一方の艀は途中のタグボートの交代も含めて3名で済みます。さらに昨今の燃料費高騰も考えれば、水運が優位なのは明らかでしょう。
神田川の歴史とともに始まった「ゴミ運搬船」
ところで、この「水運によるごみ運搬」はいつから始まったのでしょうか。同清掃事務所によると、平成12(2000)年に東京都清掃局が発行した「東京都清掃事業百年史」によると、「神田区三崎河岸塵芥取扱場が昭和6(1931)年3月に完成した」(塵芥はごみの意味)との記述があり、少なくとも昭和初期には存在したことが伺えます。
19世紀前半に歌川広重が制作した「東都名所 御茶之水之図」に描かれた神田川(画像:東京都立図書館)。
ただし歴史をひも解くと、実は400年も遡った徳川幕府誕生まで遡れるようです。徳川家康は1603年に江戸幕府を旗揚げしたあと、城防備の「外堀」の構築や、城の眼前に広がる広大な浅瀬の埋め立て(後の日比谷や銀座)に必要な大量の土砂の確保、さらに巨大な都市・江戸の物流を支える「水運」の要(かなめ)の構築という「一石三鳥」を目論みます。
その手段として、当時「平川」と呼ばれ飯田橋から日本橋方面に流れていた川の流路を、人工的に東に架け替え隅田川へ流すという土木事業に挑みました。
この難工事に携わったのは、有力な外様大名だった仙台藩の伊達政宗です。徳川幕府への忠誠心を示す意味も込め、台地の「駿河台」を掘って隅田川に通じる人工河川を構築しました。そうして出来上がったのが、現在の神田川です。
「江戸」という当時世界最大の巨大都市を支える物流の要(かなめ)は「水運」で、縦横無尽に運河を掘り、随所に荷物の積み下ろしに供する岸壁「河岸(かし)」が造られました。
その一方で巨大消費都市が毎日排出するごみや糞尿は膨大でした。これらは「金肥」(お金で買う肥料の意味だが、特に後者の場合黄金色に輝く肥しの意味も)として近郊農家へ売買され、肥料として重宝されました。これらごみや糞尿の大量輸送を担っていたのも、神田川をはじめとする水運でした。大江戸の胃袋はこうした「循環システム」に支えられていた事実があります。
「江戸400年」の歴史が息づく「ごみ運搬船」を見かけたら、ぜひとも手を振って従事する方々を元気づけましょう。