「モノコックバス」旧日本軍の技術で誕生 “飛行機屋”集団・スバルのルーツ
1919年の2月20日に生まれた百瀬晋六は、富士重工業(現:スバル)の初期車両開発に携わった、日本の自動車史における重要なエンジニアのひとり。その車両製作の第一歩となったのが日本のバスの原型「ふじ号」でした。
日本のバス製造に大きな影響を残す
1919年の2月20日に生まれた百瀬晋六は、富士重工業(現:スバル)の立ち上げ初期に、車両開発に携わった日本の自動車史における重要なエンジニアのひとりです。数多くの有名車両を生み出しましたが、その第一歩になったのが、近代的なバスの元祖と呼べる「ふじ号」でした。
この「ふじ号」は、日本初の“モノコック構造リアエンジンバス”とされます。その背景には、もともと百瀬が携わっていた軍用機製造の技術が盛り込まれていました。
伊勢崎製作所で展示されていた「ふじ号」(画像:スバル)。
第2次世界大戦で敗北した日本では戦後、GHQの命令により財閥が解体されます。百瀬の所属していた中島飛行機もその対象で、群馬県の伊勢崎工場を継承した富士重工業で新たなスタートを切ることになります。
飛行機が作れなくなったということで、百瀬ら旧中島飛行機の技術者が注目したのがバス車体でした。飛行機開発などで培った、板金の技術が流用できると判断したからです。終戦の年である1945年の12月には既にバス開発に向けた環境作りをしており、最初の車両が完成したのは1947年だったといいます。
当時のバスは、専用に作られるものではなく、購入したトラックシャーシにそのままバスの車体を乗せていました。それらはボンネットバスと呼ばれ、トラックのボンネットの後方に乗客用の箱型スペースを設けたようになっており、乗客スペースは限られていました。
その後、エンジンや補機類などを運転席の下に配置されたキャブオーバーを利用したバスも登場し、乗客スペースこそ増えますが、構造上エンジンの半分ほどが、床の上に出てしまうため、邪魔なうえ騒音も無視できないものでした。
しかも、当時の富士重工はどこのメーカーのシャーシでも扱うという営業方針だったため、ほとんどの車両が互換性のないワンメイク車両となっており図面製作などが大変な状態が続いていました。
そこで製造の工程を減らすために、民生デイゼル工業製のディーゼルエンジンを後ろに積み、フレームを廃止。剛性は車体の外板部で取るというモノコックボディー方式が取られることになります。同技術は航空機の製造でも多用されていたもので、百瀬ら元航空機技術者にとっては得意分野でもありました。
1949年、日本初のフレームレスモノコックボディバスとして誕生した「ふじ号」は、同じ全長でボンネットバスよりも多くの人を乗せることができ、前方にエンジンがないことからキャブオーバーバスよりもエンジン音がうるさくなく、振動も小さかったそうです。
この成功は、日本のバス設計に大きな影響を与え富士重工業がその後大手バスボディメーカーとして発展する基礎を築き、やがてスバル360などの名車を生み出していくことになります。