XTC再結成の可能性は? テリー・チェンバースが語るバンド結成時と脱退後の記憶
XTC結成時のドラマーで、今年1月にトリビュート・バンド「EXTC」を率いて来日したテリー・チェンバース(Terry Chambers)のインタビュー後編。ここでは1982年の脱退劇とその後の人生、アンディ・パートリッジやコリン・モールディングと共にバンドを結成したときの記憶、EXTCの展望とXTCの未来について語ってもらった。
>>>【前編を読む】XTCのテリー・チェンバースが明かす、名曲を支えたドラム秘話と「EXTC」結成の真意
XTC脱退の背景「僕はライブを大切にしてきた」
―『English Settlement』は、テリーさんが全曲プレイしている最後のアルバム。ライブよりもレコーディングに比重を置き始めた時期の作品で、リズムもより多彩になっている印象です。
テリー:曲がもっと複雑になったよね。デイヴ・グレゴリーもギターと同じくらいキーボードを演奏するようになった。時にはステージに、もう一人ミュージシャンを加える必要が出てきたんだ。
後年の作品で、アンディはストリングスといったものをもっと加えるようになっていったけど、この頃はまだ、ライブで再現できない要素を取り入れることへの葛藤もあった。だけど、(1982年に)ライブをやらないという決断をしてからはその心配が一切なくなり、ステージで再現できることを前提とした曲作りから解放されたんだ。アンディはアーティストとして、やりたいことをひたすら追求していくようになった。赤、青、黄色という三原色に縛られず好きな色を使えるようになり、音楽的に好きなものを混ぜ合わせられるようになったんだ。
―「Senses Working Overtime」では、アンディが「中世っぽいドラムを叩いてほしい」とリクエストしたそうですね。
テリー:そうそう。この曲のイントロ部分みたいなリズムは、のちに「Love On A Farmboys Wages」(『Mummer』収録)でもプレイされているよね。あのサウンドは歌詞を邪魔することなくイントロを強調して、歌に繋げるためのものだった。これもやっぱり、歌詞や曲のフィーリングに合うものをプレイしようと心がけて作り出したものだね。
―個人的には、あの曲の最後に入る3連符のドラム(下掲動画の4:20〜)が大好きです。あそこはどのように生まれたのでしょうか?
テリー:あのテンポが半分になるようなところのフィルだよね? どうだったかな……(苦笑)。スタジオでいくつかトライしてみて、とにかくやってみたら上手くいったという類のものだったね。何通りかやってみたなかで、テンポを半分にしたら上手くいったんだ。とにかく実験をしてみて、その場で解決策を見出していった結果だったと思うよ。時にはちょっとしたミスから(リズムのアイディアが)生まれたこともあって、それが悪くなかったという感じだったのかもね。
―そして、テリーさんは『Mummer』の制作中にXTCを脱退するわけですよね。先ほど話に出た「Love On A Farmboys Wages」のセッションをしている最中、あなたはスティックを投げ出してバンドを去っていったとアンディは振り返っています。当時の心境を聞かせてください。
テリー:僕はドラマーとしてライブでの演奏を常に大切にしてきたから、「ライブ活動をやめる」というアンディの決断に失望していた。「レコーディングの機会が与えられるなんて恵まれた立場だ」と思う一方で、バンドが進化していくにつれて、ライブの重要性をさらに実感するようにもなっていたからね。アルバムを録音するなら、それをプロモーションするためにもライブをやるべきだと僕は思った。
レコード会社がテレビや新聞、ローリングストーンみたいな雑誌に広告を打ってくれたとしても、それは外の世界に出ていって、人々にものを売り歩くのとは根本的に違うものだ。そう、「売り歩く」ってことが大切なんだよ。レコード会社に販促を任せるだけで、誰が僕たちの音楽を知ってくれるんだ? 僕らはメディアに露出するだけで「あとは任せた、ぜひとも売って来てくれ!」っていうのは、自分には正しいことのように思えなかった。
それに『English Settlement』は大成功を収めたけど、『Mummer』の頃のアンディは病の影響もあって、ベストな曲を書いているとは思えなかった。ツアーをキャンセルしてからすぐに制作に入ってしまった気がするし、彼は休息をとるべきだったんだ。そうすれば本来の姿を取り戻して、もっと違うアルバムになっていたと思う。EXTCのツアーでは『Mummer』からも2〜3曲プレイしてきたけど、あのアルバムの曲はそこまで強度があるわけではないような気もするんだ。そこまで売れなかったはずだしね。
アンディは『English Settlement』のパート2を作るのではなく、次のステージに進みたがっていた。僕もそこは理解できたけど、不十分な形で臨んだ『Mummer』のスタイルが自分のドラミングには合わなくて、それでバンドを離れることにしたんだ。
XTC結成時の記憶、EXTCが思い描く未来
―それからテリーさんはオーストラリアに移住し、あちらで30年以上も暮らしたそうですが、その間にXTC脱退を後悔したことはありましたか?
テリー:バンドに所属した期間はそこまで長くなかったけど、そういった瞬間は少なくとも何度かあったよ。ただ、それと同時に、音楽ビジネス全般に対してウンザリしたようなところもあった。当時の僕はまだ27歳くらいと若かったので、もっと上手くできたような気もするんだ。アンディがそうだったように、僕らは全員で休息をとるべきだったとも思う。
年齢を重ねた現在の僕は、何か重要な決断をするときは一晩置くようにしている。でも当時は若かったし、せっかちな性格もあって即座に答えを出していた気がするね。それでも僕にとって、何よりも大切だったライブをしなくなったというのは一大事だったんだ。とはいえ、もっとマシな解決方法もあったと言わざるを得ないだろうね。
XTCの前進バンド、ヘリウム・キッズによる1974年の映像。当時のテリーは長髪だった。
―2016年に地元のスウィンドンに戻ってきて、コリンと再会してからEXTCを立ち上げるまでの過程で、最初にアンディやコリンと出会い、バンドを結成したときの記憶を思い出したりしましたか?
テリー:全てが始まった1974年、僕らはたしか17歳だったかな?(テリーは1955年生まれ=当時19歳)。幸運なことに音楽への興味を共有し、小さな街で友人となった。あの頃の僕らは地元で楽しむことが全てで、アルバムを作るようなことになるとは誰一人として思っていなかっただろう。地元スウィンドンでは演奏したり音楽に触れられる場所は本当に少なかった。ギグに出演するためにはカバーをプレイするしかなくて、自分たちらしくない変なカバーもやったよ。だから、自分たちでカセットテープに録音して、ロックバンドが出演するようなロンドンのクラブに送って演奏する機会をずっと探っていた。
日本の片田舎で音楽をやっていても、結局は東京に出てこないと人前でプレイするのは難しいはずだ。アメリカならLAかNYといった具合にね。イギリスの場合は、ビートルズやマージー・ビートの時代にはリバプールという選択肢もあったけど、もっぱらロンドンに行くのが当たり前だったんだ。そういう場所に行って、人々の印象に残るようなことをやらなければいけなかった。僕たちはロンドンに行ってプレイするようになり、大都市での活動の意味について理解するようになったんだ。
1976年、ヴァージン契約前夜のXTCが演奏する「Science Friction」。当時の鍵盤担当はジョナサン・パーキンス。
テリー:EXTCの活動を始めた際にも、そういう一連のお決まりが伴うことは分かっていた。ツアーっていうのは、ほとんどの時間が移動などで拘束されてしまうし、華やかなことばかりじゃない。飛行機や車の移動で眠れなければ疲労が貯まるし、場所が変われば食事も変わり、胃腸に影響が出てくる。どこかで体の調子を崩すこともあるし、ある程度のタフさと強い気持ちがないとやっていけないんだ。今も一緒にやってくれている2人はツアー経験が豊富だし、3人で乗り切るためのペース配分ができている。今回の来日ツアーは3回のショウのみだけど、アメリカともなると過酷な長距離移動に耐えつつ演奏を続けていかなければならないからね。
EXTCのメンバーをオーディションをしたときも「彼は曲をプレイできるのか? そもそも興味を持っているのだろうか?」などの点に加えて、「オーディエンスの前でナーバスにならないだろうか?」といったことも重視した。ジョー・サトリアーニのような技術を持っていても、それだけじゃダメなんだ。人前に出てプレイできるハートを持つっていうのは、誰にでも簡単にできることじゃないから。
テリー・チェンバース(Photo by Shiho Sasaki)
―EXTCとしては今後、どんなプランを考えていますか。新曲を用意しているという話も見かけましたが。
テリー:以前から新曲を作ろうという話になっていて、今でもその機会を狙っているよ。それはこのバンドに対して、どれだけの人が興味を持っているのかにもかかっていて、売れそうにないなら作ることはないだろう。日本とアメリカは、イギリスよりも僕らのことを受け入れてくれている。イギリスの市場で好かれることはほとんどなかったから。
作品を作るならどれだけの需要があり、どれくらいの数を製造すべきか算段ができる状態でなければダメだと思う。そのためにも、まずは3〜4曲入りのEPでトライして様子を見ることになるだろう。「Walk before you run」(千里の道も一歩から)ということだね。
XTC再結成について、テリーの見解
―最後の質問です。XTC再結成の可能性はまだ残されていると思いますか? ありえないことかもしれませんが、他の3人がそれを望んだら、あなたは喜んで協力しますか?
テリー:実はTC&Iをやっているとき、デイヴ・グレゴリーに参加しないかと声をかけたんだ。でも、彼はアンディ抜きではやりたくないとのことだった。そしてアンディは、体調面で万全とは言えない状態だから、XTCとして再びライブができるようになることはないと思う。僕でさえツアーができるようになるまで準備が必要だったから、1982年以降ライブをしていない彼がプレイするのは難しいだろう。
でも、レコーディングに関しては不可能ではないと思うし、まだ希望は残されている。彼らがやるというのなら。僕は参加するだろうね。
―おお!
テリー:ただ、3人のなかには(特定の誰かと)面と向かって話し合いたがらないのもいて……僕はそれぞれ個別に話をしているんだ。彼らのいさかいをクリアすることも必要だろう(苦笑)。
―メンバー間で人によっては微妙な関係になっている、ということでしょうか?
テリー:金銭的なものも含め、ちょっとした「しこり」みたいなものがあるんだ。彼らはバンドとして長くやってきたのもあって、ロイヤリティや税金といったビジネス面で話し合わなければならないこともある。具体的な内容は伏せさせてもらうけど、些細な揉め事があって、そこは彼らに聞いてもらいたいかな。僕自身は3人と良好な関係を保っていて、誕生日やクリスマスのグリーティングカードを送り合うといったことを今でもやっている。
人生は一度きりなわけで、僕は長らく世間から遠ざかっていたけど、またこんなふうにインタビューを受けたりライブをやったりしたいと思ったんだ。死ぬ間際に「やっておけばよかった」と後悔したくないからね。こうやって色々な機会を得たことを幸運に思ってるよ。
Photo by Shiho Sasaki
EXTC
Facebook:https://www.facebook.com/groups/EXTCBand/
公式サイト:https://extc.band/
※テリーは取材後、「EXTCのFacebookページを記事中で紹介してほしい」と強く希望していた。興味をもった方は上記URLより公式グループに参加してほしい。
>>>【前編を読む】XTCのテリー・チェンバースが明かす、名曲を支えたドラム秘話と「EXTC」結成の真意
XTC脱退の背景「僕はライブを大切にしてきた」
テリー:曲がもっと複雑になったよね。デイヴ・グレゴリーもギターと同じくらいキーボードを演奏するようになった。時にはステージに、もう一人ミュージシャンを加える必要が出てきたんだ。
後年の作品で、アンディはストリングスといったものをもっと加えるようになっていったけど、この頃はまだ、ライブで再現できない要素を取り入れることへの葛藤もあった。だけど、(1982年に)ライブをやらないという決断をしてからはその心配が一切なくなり、ステージで再現できることを前提とした曲作りから解放されたんだ。アンディはアーティストとして、やりたいことをひたすら追求していくようになった。赤、青、黄色という三原色に縛られず好きな色を使えるようになり、音楽的に好きなものを混ぜ合わせられるようになったんだ。
―「Senses Working Overtime」では、アンディが「中世っぽいドラムを叩いてほしい」とリクエストしたそうですね。
テリー:そうそう。この曲のイントロ部分みたいなリズムは、のちに「Love On A Farmboys Wages」(『Mummer』収録)でもプレイされているよね。あのサウンドは歌詞を邪魔することなくイントロを強調して、歌に繋げるためのものだった。これもやっぱり、歌詞や曲のフィーリングに合うものをプレイしようと心がけて作り出したものだね。
―個人的には、あの曲の最後に入る3連符のドラム(下掲動画の4:20〜)が大好きです。あそこはどのように生まれたのでしょうか?
テリー:あのテンポが半分になるようなところのフィルだよね? どうだったかな……(苦笑)。スタジオでいくつかトライしてみて、とにかくやってみたら上手くいったという類のものだったね。何通りかやってみたなかで、テンポを半分にしたら上手くいったんだ。とにかく実験をしてみて、その場で解決策を見出していった結果だったと思うよ。時にはちょっとしたミスから(リズムのアイディアが)生まれたこともあって、それが悪くなかったという感じだったのかもね。
―そして、テリーさんは『Mummer』の制作中にXTCを脱退するわけですよね。先ほど話に出た「Love On A Farmboys Wages」のセッションをしている最中、あなたはスティックを投げ出してバンドを去っていったとアンディは振り返っています。当時の心境を聞かせてください。
テリー:僕はドラマーとしてライブでの演奏を常に大切にしてきたから、「ライブ活動をやめる」というアンディの決断に失望していた。「レコーディングの機会が与えられるなんて恵まれた立場だ」と思う一方で、バンドが進化していくにつれて、ライブの重要性をさらに実感するようにもなっていたからね。アルバムを録音するなら、それをプロモーションするためにもライブをやるべきだと僕は思った。
レコード会社がテレビや新聞、ローリングストーンみたいな雑誌に広告を打ってくれたとしても、それは外の世界に出ていって、人々にものを売り歩くのとは根本的に違うものだ。そう、「売り歩く」ってことが大切なんだよ。レコード会社に販促を任せるだけで、誰が僕たちの音楽を知ってくれるんだ? 僕らはメディアに露出するだけで「あとは任せた、ぜひとも売って来てくれ!」っていうのは、自分には正しいことのように思えなかった。
それに『English Settlement』は大成功を収めたけど、『Mummer』の頃のアンディは病の影響もあって、ベストな曲を書いているとは思えなかった。ツアーをキャンセルしてからすぐに制作に入ってしまった気がするし、彼は休息をとるべきだったんだ。そうすれば本来の姿を取り戻して、もっと違うアルバムになっていたと思う。EXTCのツアーでは『Mummer』からも2〜3曲プレイしてきたけど、あのアルバムの曲はそこまで強度があるわけではないような気もするんだ。そこまで売れなかったはずだしね。
アンディは『English Settlement』のパート2を作るのではなく、次のステージに進みたがっていた。僕もそこは理解できたけど、不十分な形で臨んだ『Mummer』のスタイルが自分のドラミングには合わなくて、それでバンドを離れることにしたんだ。
XTC結成時の記憶、EXTCが思い描く未来
―それからテリーさんはオーストラリアに移住し、あちらで30年以上も暮らしたそうですが、その間にXTC脱退を後悔したことはありましたか?
テリー:バンドに所属した期間はそこまで長くなかったけど、そういった瞬間は少なくとも何度かあったよ。ただ、それと同時に、音楽ビジネス全般に対してウンザリしたようなところもあった。当時の僕はまだ27歳くらいと若かったので、もっと上手くできたような気もするんだ。アンディがそうだったように、僕らは全員で休息をとるべきだったとも思う。
年齢を重ねた現在の僕は、何か重要な決断をするときは一晩置くようにしている。でも当時は若かったし、せっかちな性格もあって即座に答えを出していた気がするね。それでも僕にとって、何よりも大切だったライブをしなくなったというのは一大事だったんだ。とはいえ、もっとマシな解決方法もあったと言わざるを得ないだろうね。
XTCの前進バンド、ヘリウム・キッズによる1974年の映像。当時のテリーは長髪だった。
―2016年に地元のスウィンドンに戻ってきて、コリンと再会してからEXTCを立ち上げるまでの過程で、最初にアンディやコリンと出会い、バンドを結成したときの記憶を思い出したりしましたか?
テリー:全てが始まった1974年、僕らはたしか17歳だったかな?(テリーは1955年生まれ=当時19歳)。幸運なことに音楽への興味を共有し、小さな街で友人となった。あの頃の僕らは地元で楽しむことが全てで、アルバムを作るようなことになるとは誰一人として思っていなかっただろう。地元スウィンドンでは演奏したり音楽に触れられる場所は本当に少なかった。ギグに出演するためにはカバーをプレイするしかなくて、自分たちらしくない変なカバーもやったよ。だから、自分たちでカセットテープに録音して、ロックバンドが出演するようなロンドンのクラブに送って演奏する機会をずっと探っていた。
日本の片田舎で音楽をやっていても、結局は東京に出てこないと人前でプレイするのは難しいはずだ。アメリカならLAかNYといった具合にね。イギリスの場合は、ビートルズやマージー・ビートの時代にはリバプールという選択肢もあったけど、もっぱらロンドンに行くのが当たり前だったんだ。そういう場所に行って、人々の印象に残るようなことをやらなければいけなかった。僕たちはロンドンに行ってプレイするようになり、大都市での活動の意味について理解するようになったんだ。
1976年、ヴァージン契約前夜のXTCが演奏する「Science Friction」。当時の鍵盤担当はジョナサン・パーキンス。
テリー:EXTCの活動を始めた際にも、そういう一連のお決まりが伴うことは分かっていた。ツアーっていうのは、ほとんどの時間が移動などで拘束されてしまうし、華やかなことばかりじゃない。飛行機や車の移動で眠れなければ疲労が貯まるし、場所が変われば食事も変わり、胃腸に影響が出てくる。どこかで体の調子を崩すこともあるし、ある程度のタフさと強い気持ちがないとやっていけないんだ。今も一緒にやってくれている2人はツアー経験が豊富だし、3人で乗り切るためのペース配分ができている。今回の来日ツアーは3回のショウのみだけど、アメリカともなると過酷な長距離移動に耐えつつ演奏を続けていかなければならないからね。
EXTCのメンバーをオーディションをしたときも「彼は曲をプレイできるのか? そもそも興味を持っているのだろうか?」などの点に加えて、「オーディエンスの前でナーバスにならないだろうか?」といったことも重視した。ジョー・サトリアーニのような技術を持っていても、それだけじゃダメなんだ。人前に出てプレイできるハートを持つっていうのは、誰にでも簡単にできることじゃないから。
テリー・チェンバース(Photo by Shiho Sasaki)
―EXTCとしては今後、どんなプランを考えていますか。新曲を用意しているという話も見かけましたが。
テリー:以前から新曲を作ろうという話になっていて、今でもその機会を狙っているよ。それはこのバンドに対して、どれだけの人が興味を持っているのかにもかかっていて、売れそうにないなら作ることはないだろう。日本とアメリカは、イギリスよりも僕らのことを受け入れてくれている。イギリスの市場で好かれることはほとんどなかったから。
作品を作るならどれだけの需要があり、どれくらいの数を製造すべきか算段ができる状態でなければダメだと思う。そのためにも、まずは3〜4曲入りのEPでトライして様子を見ることになるだろう。「Walk before you run」(千里の道も一歩から)ということだね。
XTC再結成について、テリーの見解
―最後の質問です。XTC再結成の可能性はまだ残されていると思いますか? ありえないことかもしれませんが、他の3人がそれを望んだら、あなたは喜んで協力しますか?
テリー:実はTC&Iをやっているとき、デイヴ・グレゴリーに参加しないかと声をかけたんだ。でも、彼はアンディ抜きではやりたくないとのことだった。そしてアンディは、体調面で万全とは言えない状態だから、XTCとして再びライブができるようになることはないと思う。僕でさえツアーができるようになるまで準備が必要だったから、1982年以降ライブをしていない彼がプレイするのは難しいだろう。
でも、レコーディングに関しては不可能ではないと思うし、まだ希望は残されている。彼らがやるというのなら。僕は参加するだろうね。
―おお!
テリー:ただ、3人のなかには(特定の誰かと)面と向かって話し合いたがらないのもいて……僕はそれぞれ個別に話をしているんだ。彼らのいさかいをクリアすることも必要だろう(苦笑)。
―メンバー間で人によっては微妙な関係になっている、ということでしょうか?
テリー:金銭的なものも含め、ちょっとした「しこり」みたいなものがあるんだ。彼らはバンドとして長くやってきたのもあって、ロイヤリティや税金といったビジネス面で話し合わなければならないこともある。具体的な内容は伏せさせてもらうけど、些細な揉め事があって、そこは彼らに聞いてもらいたいかな。僕自身は3人と良好な関係を保っていて、誕生日やクリスマスのグリーティングカードを送り合うといったことを今でもやっている。
人生は一度きりなわけで、僕は長らく世間から遠ざかっていたけど、またこんなふうにインタビューを受けたりライブをやったりしたいと思ったんだ。死ぬ間際に「やっておけばよかった」と後悔したくないからね。こうやって色々な機会を得たことを幸運に思ってるよ。
Photo by Shiho Sasaki
EXTC
Facebook:https://www.facebook.com/groups/EXTCBand/
公式サイト:https://extc.band/
※テリーは取材後、「EXTCのFacebookページを記事中で紹介してほしい」と強く希望していた。興味をもった方は上記URLより公式グループに参加してほしい。