世帯年収4,500万円の夫婦に立ちはだかる“妊活問題”。お金はあっても解決できない悩み
お金も時間も自由に使える、リッチなDINKS。
独身の時よりも広い家に住み、週末の外食にもお金をかける。
家族と恋人の狭間のような関係は、最高に心地よくて、気づけばどんどん月日が流れて「なんとなくDINKS」状態に。
でも、このままでいいのかな…。子どもは…？将来は…？
これは、それぞれの問題に向き合うDINKSカップルの物語。
◆これまでのあらすじ
真奈美は多忙な夫を持つ外資OL。夫の希望で妊活を始めようとしたものの、お互いに忙しくうやむやな状態。そんな時、シンガポール駐在のチャンスが巡ってくるが…。
真奈美・33歳。世帯年収4,500万円の東大卒パワーカップル【後編】
「ただいま…。あれ、真奈美まだ起きてたの？」
「うん。実は、ちょっと話があって」
シンガポール駐在の打診を受けたことを、崇仁に少しでも早く話したくて、私は深夜2時まで彼の帰りを待っていた。
― 反対されたらどうしよう。普通は、奥さんが単身赴任で海外なんて、イヤだよね。妊活の話もあったし。
「今日、『シンガポールのリサーチ部門で働かないか』って打診を受けたの。私にとっては魅力的なオファーで…受けたいなって思ってる」
なるべく落ち着いて、ゆっくりと伝えたけれど…。崇仁の目は大きく見開かれ、明らかに動揺している。
「それって、どれくらいの期間？」
「特に決まってないの。でも最近退職した現地採用の人のリプレイスだから、少なくとも3年かな」
シンガポールオフィスで働くメンバーの新陳代謝は激しく、若手はだいたい3年程度で次の会社に移っていく。それを踏まえると、少なくとも3年働けば、誘ってくれた愛子さんに対しても角は立たない。
ただ、3年後に「日本に帰りたい」となった時に、都合よく日本でポジションが空いているかどうかは未知数だ。
だから、もしも自分の意思で帰国する時には、他の会社に転職することも視野に入れなければならない。
崇仁はしばらく黙っていたが、やがて小さな声で、ポツリとつぶやいた。
「ごめん。俺は…賛成できない」
「正直、君が乗り気なことにビックリしてる。
俺が忙しくて、ちゃんと妊活に取り組めてないのは申し訳ないけど、『子どもがほしい』って話をしたよね？」
「うん、聞いたよ。私も、子どもがいたら幸せだなって思ったよ。妊活だって諦めるっていうわけじゃなくて…。
でも、今回のオファーは、私にとってすごく大きなことなの。だから、このチャンスは逃したくない」
私が言い終わるのを待たずに、崇仁は深々とため息をつく。
「もちろん、真奈美の仕事は応援してるよ。俺はただ…子どもがいる、普通の人生を送りたいんだ。君が今、仕事を取ってシンガポールに行っちゃったら、それが遠のくと思うんだよ」
“普通”という言葉に、崇仁の価値観が表れていると思った。思わず、噛みつくように食ってかかる。
「“普通”って何？子どもを持たない夫婦は、普通じゃないの？」
「俺の中では普通じゃない。40代、50代になって、夫婦2人で犬飼って、みたいな…そういうのは寂しいと思う」
― 全然寂しくなんかないよ！崇仁がいて、かわいいペットまでいたなら、私、最高に幸せなんだけど？
愛する人が、自分との子どもを望んでくれている。
それを心から喜ぶ女性は、世の中にたくさんいるのだろう。
でも、崇仁の言葉はショックだった。
「君の存在だけでは、僕は満たされない」という本音を突き付けられたような気がしたのだ。
「じゃあ、もしも妊活をしてみて、子どもができなかったら…崇仁は、私と離婚するの？」
「そんなことは言ってないだろ？」
「でも、“普通じゃない”のはイヤなんでしょう？だったら、“普通に”子どもを確実に産んでくれる子と再婚したほうがいいんじゃない？」
「……」
― そこは否定してよ…！
何も言わない崇仁に、自分で言っておきながら、さらに深く傷ついてしまう。
昼間に崇仁と一緒にいた、すらりと背の高い女性を思い出す。
彼女は、独身なのだろうか。子どもを持ちたい気持ちはあるのだろうか。
― なんだかお似合いだったし、私と離婚して、あの子と再婚すればいいんじゃない？
私は、頭の中が混乱してきた。
子どもを望む彼が赴任に反対することは、はじめから想定内だった。
私だって、無条件に自分の意思ばかりを貫きとおそうと思ったわけじゃない。
崇仁の意思も尊重しながら、もっと建設的に折衷案を探れないか、と考えていたのだ。
遠距離でも妊活を続ける具体策を考えるとか。思い切って卵子凍結をしてみるとか。
こんなふうに、言い争いするつもりはなかったのに…。
「仕事で疲れてるのに、遅くまでごめんね。私、もう寝るね…」
ふらふらとした足取りで寝室に向かい、ベッドにもぐりこむ。
布団をかぶった瞬間に、涙があふれ出てきた。
◆
2週間後
会議や来客の予定が落ち着いた夕方。オフィスで、愛子さんに電話をかける。
「愛子さん。先日のお話、ぜひお受けさせてください！」
そう伝えると、「本当？ありがとう、すごく嬉しい！」と弾んだ声が帰ってきた。
「旦那さんも納得してくれた？」
「あはは。反対されてるんですけど…そこはもう、なんとかします」
「そうなのね…。真奈美さん、私が言うのもなんだけど、ちゃんと話し合ったほうがいいわよ」
愛子さんに痛いところを突かれ、ギクリとする。
相変わらず崇仁は忙しく、あれ以来話し合えていなかった。
帰りを待って話そうとしても、「今日は寝かせて」と突っぱねられることが何度もあった。
十分に話せていないなかで、迷ったけれど…。結局、崇仁から言われた言葉が私の背中を押した。
子どもがいない夫婦は、普通じゃない――。
この言葉で、彼の価値観がわかったから。
― 彼にとって、子どもは“nice to have”じゃない。“must have”なんだ。
崇仁のそんな価値観を考えると、私の中で、「彼と離婚して、シンガポールに行こう」という気持ちが固まったのだ。
「それじゃあ、これから人事を通じて色々と手続きを進めていくわね」
「ありがとうございます。改めて楽しみにしています！」
スマホを片手に、思わず深々と頭を下げた。その直後――。
『今晩、空いてる？』
崇仁から、LINEが来た。
20時。
虎ノ門横丁内の『虎ノ門とだか』。
カウンター席に並び、私たちは“とだビアー”で乾杯した。
「今日、ここで上司とメシの予定だったんだ。でも、体調崩しちゃってさ。上司が『せっかくだから誰か他の人と行けば』って」
「なーんだ。私は上司のかわりってわけ？」
口ではぶうたれつつ、私は素直にうれしかった。ここは、2年先まで予約が埋まっていることで有名な名店だ。虎ノ門で働いているのに、一度も来たことがなかった。
何より、久々に崇仁とゆっくり時間を過ごせている。
ウニといくらがこんもりと乗った煮卵を口に運びながら、私はやっぱり、「崇仁のことがまだ好きだな」と考えていた。
「今日、シンガポール赴任の件、『行く』って返答したよ。これ以上待たせられないから…」
「そっか…。うん、その件なんだけど」
一瞬、「なんで勝手に返事するの？」と責められるかと思った。
でも、違った。
「俺も、シンガポール行こうかな」
信じられない言葉に、私は大きく目を見開く。
「この前、ちょうど真奈美からシンガポール異動の話を聞かされた日の昼に…転職エージェントと久しぶりにキャッチアップしたんだ。前の転職でお世話になった女性でね、少しお茶したんだけど」
― あの人、転職エージェントだったんだ…！
驚きとともに、どこかホッとしている自分がいる。
「その人が最近、中国やシンガポールの案件を扱ってるらしくて。『海外なんてどうですか？』って言われてね。その時は受け流したんだけど、夜に真奈美からシンガポールの話が出たからさ…」
「海外転職しようと思ったの？」
「うん。あの時はすごく動揺して、色々言っちゃったけど。本音では、真奈美のことが羨ましかったんだ。俺は海外異動のオファーなんて、受けたことないから」
ぽつりぽつりと、崇仁はつぶやく。
「考えたんだ。もし、『自分が真奈美と同じオファーを会社から受けたら？』って。俺は迷わず行くと思うんだよね。それなのに、真奈美に対して反対するのはおかしいなって。
それに、子どものことも…ごめん。売り言葉に買い言葉っていうか、混乱していて、思ってもいない言葉が出てしまったと思う。『子どもができないなら真奈美と離婚する』なんて、俺は思ってないよ」
隣で聞きながら、私は少し涙が出そうになっていた。
― 私、彼の言葉尻を捕まえて、『もう離婚しかない』って突っ走っちゃってたのかも…。
忙しさを理由に、彼が向き合おうとしてくれないのだと、思ってしまっていた。
でも、違った。彼は彼で、時間をかけて自分の中で、気持ちを整理してくれていたのだ。
「崇仁、ありがとう…」
「これで俺が転職できなかったら、本当に別居婚だけどな。ま、それはそれで頑張ろう」
崇仁は快活に笑う。
あえて明るい雰囲気にしてくれているのだと、すぐにわかる。
― この人と結婚してよかった。
心からの喜びを胸に、私たちはもう一度乾杯した。
◆
半年後
「崇仁〜！ようこそ、SGへ！」
「おお、真奈美。なんか日焼けした？3ヶ月ですっかりシンガポリアンじゃん」
チャンギ空港の到着ゲートに現れた崇仁を、私は笑顔で出迎える。
こちらに来て3ヶ月。少しずつ仕事に慣れてきたころだ。
3ヶ月前、ちょうど日本を出発するタイミングで、崇仁がシンガポール現地の投資銀行からオファーを獲得したのは本当に幸運なことだった。
リバーバレーでコンドを借り、平日は仕事に邁進しつつ、休日は少しずつ生活を整える日々。
現地の銀行で口座を開いたり、Wi-Fiを繋げたりするのにもいちいち苦労しながら、なんとか毎日を積み重ねてきた。
隙間時間で、崇仁とも頻繁にビデオ通話していた。あの虎ノ門の夜以来、私たちは小さなことでもよく話し、相談し合うようになっていた。
― 一緒にここに来られてよかった。
空港からタクシーに乗り込み、夫の横顔を眺めながら、私は幸福を噛みしめる。
忙しい毎日の中で、なんとなくおざなりになっていた夫婦のコミュニケーションが、いかに大切であったかを気づかされた。
これからも、ぶつかることもあるかもしれない。
でも、そのたびに2人で話し合って、乗り越えていこう――。
決意を新たに、彼の手をギュッと握りしめた。
Fin.
▶前回：昼下がりの虎ノ門で…。妻のLINEは無視する外銀夫が、隠れてしていたコト
▶1話目はこちら：「子どもはまだ？」の質問にうんざり！結婚3年目、32歳妻の憂鬱
