源実朝と前世の絆が?テイ龍進の演じる宋人・陳和卿とは何者か【鎌倉殿の13人】

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「私は前世であなたの弟子だった者です……」

いきなりそんなことを言う者がいたら、あなたは信じられますか?

鎌倉時代、第3代将軍・源実朝(演:柿澤勇人)と面会した宋人・陳和卿(演:テイ龍進)。以前に源頼朝(演:大泉洋)が面会を求めるも断わられたこの僧侶、果たしてどんな人物なのでしょうか。

今回は陳和卿と実朝のエピソードを紹介、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の予習になればと思います。

東大寺の再建供養に貢献

陳和卿は生年不詳、南宋王朝(1127〜1279年)の出身で平安時代末期に来日しました。

平家によって焼かれてしまった東大寺の再建に尽力、頼朝はそのスポンサーとして多大な寄付をしています。

再建成った東大寺(イメージ)

果たして建久6年(1195年)3月13日、再建供養に際して頼朝から面会を申し込まれたものの「罪業の深い人間とは会いたくない」と拒絶しました。

……爲値遇結縁。令招和卿給之處。國敵對治之時。多断人命。罪業深重也。不及謁之由。固辞再三……

※『吾妻鏡』建久6年(1195年)3月13日条

【意訳】頼朝は陳和卿とご縁をいただきたいと何度も申し込んだ。しかし和卿は「あなたは多くの人命を奪い、重き罪業を負っておいでですから、お会いしたくございませぬ」と辞退。ついに面会は叶わなかった。

それを聞いた頼朝は「さすがは徳の高きお方。ならばせめて寄付をさせて下さい」と奥州征伐に際して着用した甲冑や鞍つきの駿馬3頭、金銀を献上します。

……將軍抑感涙。奥州征伐之時以所着給之甲冑。并鞍馬三疋金銀等被贈。和卿賜甲冑爲造營釘料。施入于伽藍。止鞍一口。爲手掻會十列之移鞍。同寄進之。其外龍蹄以下不能領納。悉以返献之云々。

※『吾妻鏡』建久6年(1195年)3月13日条

しかし陳和卿は甲冑を仏殿造営の釘料(※)とし、鞍一つは法事用に受け取って東大寺へ寄付したものの、残った駿馬や鞍は返品したということです。

頼朝が奥州征伐で着ていた鎧。もし遺っていたら貴重な宝物となったはず(イメージ)

(※)甲冑を売却して釘の購入代金に充てたのか、あるいは甲冑を潰して金具を釘にしたのか、どっちでしょうね。戦場で着用して穢れた甲冑だから金銭に替えてしまうのも、あるいは罪業を少しでも清めるべく仏殿の釘に変えてしまうのも、どちらもアリな気がします。

東大寺再建の功績によって播磨国大部荘(現:兵庫県小野市)を賜るなど高く評価された陳和卿ですが、東大寺の僧侶たちから反感を買い、告発されてその地位を追われてしまいました。

前世の師弟が再会?

それから月日は流れて建保4年(1216年)6月8日。陳和卿が鎌倉にやってきます。

翎。陳和卿參着。是造東大寺大佛宋人也。彼寺供養之日。右大將家結縁給之次。可被遂對面之由。頻以雖被命。和卿云。貴客者多令断人命給之間。罪業惟重。奉値遇有其憚云々。仍遂不謁申。而於當將軍家者。權化之再誕也。爲拝恩顏。企參上之由申之。即被點筑後左衛門尉朝重之宅。爲和卿旅宿。先令廣元朝臣問子細給。

※『吾妻鏡』建保4年(1216年)6月8日条

【意訳】晴れ。陳和卿が鎌倉に到着。彼は東大寺大仏を再建した宋の人である。彼は再建供養に際して頼朝から面会を求められても罪業のゆえに辞退した。しかし今の将軍(実朝)は仏様の生まれ変わりであり、ぜひお会いしたいと申し出ている。まずは大江広元(演:栗原英雄)が詳しく話を聞くことにした。

仏様の生まれ変わりとは凄い話ですが、本当なのでしょうか。興味が湧いた実朝は、さっそく陳和卿と面会しました。

翎。召和卿於御所。有御對面。和卿三反奉拝。頗涕泣。將軍家憚其礼給之處。和卿申云。貴客者。昔爲宋朝醫王山長老。于時吾列其門弟云々。此事。去建暦元年六月三日丑尅。將軍家御寢之際。高僧一人入御夢之中。奉告此趣。而御夢想事。敢以不被出御詞之處。及六ケ年。忽以符号于和卿申状。仍御信仰之外。無他事云々。

※『吾妻鏡』建保4年(1216年)6月15日条

「おぉ、我が師よ……!」

陳和卿は実朝を三度も拝み、涕(なみだ)を流して大泣きしました。いったい何事かとドン引きする実朝に、陳和卿は話します。

実朝の前世は高僧だった?(イメージ)

「あなたは前世、宋の医王山育王寺(いおうざん いくおうじ)を開かれた長老で、私はその弟子だったのです……こうしてお会いできたことは、奇跡と言うよりございませぬ!」

お前は何を根拠に言っているんだ……普通なら呆れかえってしまうところですが、実朝にも心当たりがありました。

「そう言えば、もう3年前になるが、丑刻(深夜2:00ごろ)に夢を見たのだ。高僧が私の前に現れ、そなたと同じことを申しておった。あれは忘れもしない、建暦元年(1213年)6月3日のことであった……」

この話は誰にもしたことがなく、まったく偶然の一致。以来、実朝は陳和卿を信用するようになったのです。

いざ宋へ!大きな船を造らせたが……

「そうだ 医王山、行こう。」

建保4年(1216年)11月24日、実朝はそんなことを言い出しました。

翎。將軍家爲拝先生御住所醫王山給。可令渡唐御之由。依思食立。可修造唐船之由。仰宋人和卿。又扈從人被定六十餘輩。朝光奉行之。相州。奥州頻以雖被諌申之。不能御許容。及造船沙汰云々。

※『吾妻鏡』建保4年(1216年)11月24日条

「陳殿に船を設計していただき、いざ大宋国へ渡るのだ!」

思い立ったが吉日、実朝はさっそく結城朝光(演:高橋侃)に命じてお供する60数名を選抜、日程なども調整させました。

宋へ渡る計画を立てる実朝。日ごろ温和な人が決意を固めると、翻意させるのはなかなか難しい(イメージ)

「いや、ちょっとお待ち下さい。鎌倉殿が鎌倉どころか日本をお留守にされると言うのは……」

「そうです。何かあったらどうなされるおつもりか!」

北条義時(演:小栗旬)と大江広元が必死に止めますが、それで思いとどまる実朝ではありません。

「……むしろ我のおらぬ方が、そなたらの自由にできて都合がよかろう?」

なんて嫌味を言ったかどうだか、ためらうことなく陳和卿を監督として造船を命じます。

日ごろは義時の言いなりに見えて、こうと決めたらテコでも動かない実朝のこと。このままでは、本当に宋へ渡ってしまうでしょう。

「もしかしたら、二度と鎌倉へ戻って来ないつもりなのかも知れない」

「鎌倉殿がいなくなれば御家人たちはまとまらず、さらには我らが東国を支配する正当性も失いかねない」

まさか実朝の狙いはそこなのか……不安な日々を過ごしながら、建保4年(1217年)は暮れていったのでした。

翎。宋人和卿造畢唐船。今日召數百輩疋夫於諸御家人。擬浮彼船於由比浦。即有御出。右京兆〔義時〕監臨給。信濃守行光爲今日行事。随和卿之訓説。諸人盡筋力而曳之。自午剋至申斜。然而此所之爲躰。唐船非可出入之海浦之間。不能浮出。仍還御。彼船徒朽損于砂頭云々。

※『吾妻鏡』建保5年(1217年)4月17日条

さぁ、いよいよ念願の船が完成。今日はめでたく進水式です。由比ヶ浜には数百人の人夫や御家人が集まり、実朝や義時も観閲に来ています。

いざ出航!……できるかな?(イメージ)画像:Wikipedia(撮影:PHGCOM氏)

「行くぞ!」「「「そーれっ!」」」

……あれ。船を曳いても、海上に浮かんでくれません。どうやら海底が遠浅なため、大きな船は出航できないようです。

「「「そーれっ!」」」

けっきょく午刻(正午ごろ)から申の斜め(夕方17:00過ぎ)まで頑張ったものの、とうとう船は浮かびませんでした。

「……帰るぞ」

「ははあ」

船は解体することもできずに放棄され、風雨のなぶるまま朽ち果てて行ったそうです。

終わりに

その後、陳和卿はどこへ行ったやら消息不明に。歴史の表舞台から姿を消したのでした。

実朝の渡宋計画は失敗に終わったものの、普通に太宰府あたりから出航すればよかったのに、あくまで鎌倉発にこだわったのは何故なんでしょうね。

なお後世、鎌倉の沖合に造営された人工港・和賀江島は遠く大陸とも交易を展開。現代でも由比ヶ浜や材木座の浜辺を散歩すると、陶磁器の破片などを拾うこともできます。

実朝に新たな世界を夢見せた陳和卿。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ではどのような展開を魅せてくれるのか、今から楽しみですね。

※参考文献:

五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡6 富士の巻狩』吉川弘文館、2009年6月五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡8 承久の乱』吉川弘文館、2010年4月