死への関心が高まる時代にテクノロジーでどこまで踏み込める?(写真:Graphs/PIXTA)

近代を振り返ると、死の文化は技術の進歩と大量死の悲劇によって大きく変化してきたように見える。その変化の条件が揃い、技術の進化が進んだ令和において「デジタル故人」はどんな存在になっているのだろうか。「ネットで故人の声を聴け」の番外編をお届けする。

市場としてはどうやらまだとても小さい

生前のその人の容姿や振る舞い、しゃべり方や考え方などをAI(人工知能)やメタバース(仮想空間)などのデジタル技術で再現、あるいは再構築した存在を「デジタル故人」という。

技術の向上は目覚ましく、生前の本人と見分けがつかないほどその人らしく振る舞う「デジタル故人」を構築することはもはや不可能ではなくなった。筆者はデジタル故人の取材を通じて現在の技術の高さに加え、人生においてデジタル故人が欠かせない存在となっている人がすでにいることを知った。しかし一方で、デジタル故人に対して拒否感を持つ人は多く、市場としてはまだとても小さい。

デジタル故人は人の琴線に触れやすい存在だ。2019年の年末には往年の歌唱力と容姿を再現した「AI美空ひばり」が紅白の舞台に立って曲間に「お久しぶりです」と台詞を発した。2020年のアメリカ大統領選では2年前に銃乱射事件で犠牲になったホアキン・オリバーさんのAIが動画に出演し、「僕のために投票してほしい」と銃規制を訴えた。いずれも大きな物議を醸した。


「デジタル故人」は受け入れられるのか?(筆者撮影)

市場としてみると、デジタル故人はかすかなニーズに対して巨大なリスクが伴う。ハイリスク・ローリターンの典型のように映る。それでも求める人がいるなら、いつか難題をクリアしていき大きく成長することもあるだろうか?

筆者はその可能性はあると思う。とりわけ現在は新しい死の風習が定着しやすいタイミングだからだ。

「受け入れがたい死」と技術が習慣を作る

新しい死の風習は、「受け入れがたい死」が大量に発生したときにこそ定着しやすい。

たとえば、骸骨と生者が隣り合って踊る「死の舞踏」の絵画や彫刻が中世の欧州で広がったのは、史上まれにみるパンデミックの黒死病(1346〜1353年)による生命の危機や日常的な死別経験が下地にあった。また、第1次世界大戦(1914〜1918年)とスペインかぜ(1918〜1920年)による大量死は、死生学を生む淵源になった。それと共に、当時の欧州で降霊術を含む心霊現象研究が隆盛した。

第1次世界大戦で弟を失ったヴェルナー・リーベルト(1892〜1915)は戦地から両親に宛てて次のような手紙を残している。

<弟が最早いないということを知ってから、私の心の中に不思議な変化が起こりました。私は急に永遠の生命と来世での再会を信じるようになりました。(略)なぜなら、愛する人間から死によって永久に隔てられてしまうということはあり得ないからです。>
(岩波新書『ドイツ戦歿学生の手紙』より/編・ヴィットコップ、訳・高橋健二)

それまでの社会で育まれてきた方法ではとても対応できない。そんな死別が世の中にあふれたときに、新たな受け皿が求められるのだ。

日本でも、日清戦争(1894〜1895年)や日露戦争(1904〜1905年)の若者の死は個人墓を増やし、国のために命を捧げた英霊を奉る機運を高めた。未婚のまま命を落とした息子に花嫁人形を、娘には花婿人形を捧げる風習が広がったのも、日中戦争から続く第2次世界大戦(1937〜1945年)の頃だと言われる。北東北にいるイタコは占いや家の守り神との対話など様々な仕事を請け負うが、なかでも降霊術 (口寄せ)にとりわけ注目が集まるようになったのも戦後まもなくだった。

そうした心情からの要請とは別に、技術の革新が新しい死の風習を生むこともある。

19世紀前半の写真の発明は、亡くなった家族を写真として残す「遺体記念写真(ポストモーテムフォトグラフィー)」や遺影の文化を誕生させた。遺体の腐敗を防ぐ「エンバーミング」はアメリカの南北戦争(1861〜1865年)を契機に広まり、葬儀を執り行う時間や距離的な猶予を劇的に伸ばした。

日本のお墓に関する文化やトレンドの多くも、近代的な火葬炉の普及なしには成立しなかっただろう。

伝統的な風習は急速な都市化をフォローしきれない

それを踏まえていまの世の中を見渡すと、大量の「受け入れがたい死」と新しい技術が横たわっていて、それを受け止める器がまだできていないことに気づく。

近年の「受け入れがたい死」といえば、世界規模では新型コロナ蔓延による死だろう。また、戦争や紛争、テロによる死、自らの手による死の拡大を思い浮かべる人もいるだろう。

それらに加えて無視できないのは、先進国を中心に何十年も前からじわじわと拡大している「受け入れる機会が少ない死」が確実に増えていることだ。

日本国内でいえば、戦後に都市への人口集中が起こり、地域社会の衰退と核家族化が急速に進んでいる。その結果、葬儀は地縁のものから家族(血縁)のものに変わった。ご近所さんが集って弔ってくれた時代は終わり、喪家や葬儀社が取り仕切るようになり、参列者もバブル時代をピークから下降線を辿っている。


そもそも家族の人数も減っており、葬儀に参加すること自体も少なくなっている。また、先祖代々のお墓も、盆や正月に帰省したときに立ち寄るような遠方の存在となっている人は少なくないはずだ。

都市への人口集中は世界中で起きている。ユーロモニターの推測によると、2018年から2030年にかけて単身世帯は世界中で3割程度増えるという。つまるところ、現代社会は近しい人との死別と向き合う機会や場をじわじわと遠ざける変化を続けているわけだ。

伝統的な向き合い方だけでは無理が生じている。しかし、いまの時代にフィットした方法というのは確立されていない。そんな不安定な空気がじわじわと世界を覆っている。

死を考える展覧会、来場者の6割が10代と20代

不安定な空気は、死後のことを血縁や地縁に任せるのではなく、自分でプロデュースするモラルを育てた。1990年代から現在にかけて、欧米で天然の森林に埋葬したり火葬せずに遺体を土壌化したりする施設が注目されるようになったのも無関係ではない。日本で2010年代に「終活」という言葉が流行したのも通底するところが多分にある。

ただ、エコな葬送にしろ終活にしろ、死別の感情を包み込むことはできない。偲びたりなさや悲しみにくさとどう向き合えばいいのか。そこを知ろうとするニーズは近年高まっているように思う。

印象的だったのは、2022年5月に東京の二子玉川で開催された、死をテーマにした展覧会『END展 死から問うあなたの人生の物語』(主催/東急、東急ラヴィエール、Whole Universe)の会場だ。筆者が訪れたのは平日の昼過ぎだったが、会場は事前予約の人数で常にいっぱいになっていた。

END展はマンガ作品のひとコマから「老い」や「死」について考えるという催しで、会場には「死者はすぐそばにいると思いますか?」や「お葬式はこれからも必要でしょうか?」といった死に関する問いとマンガのコマが並べて展示してある。


2022年5月27日から6月8日まで開催された『END展』


「お葬式はこれからも必要でしょうか?」と問うパネル

展覧会でキュレーターとディレクターを務めた塚田有那さんによると、14日の間に目標の2倍近い9600人超の人が足を運んだそうだ。50代から60代の人を第一ターゲットと想定していたが、アンケート回答を参照すると、来場者の6割超が10代と20代だった。性別では女性66%に対し、男性は27%だったという。

「若い人の来場も想定していましたが予想以上でした。アンケートを読むと、『マンガをベースにしていることで、悲しい気持ちにならず、理解しやすかった』、『生き死にを考えるきっかけになった』といった声が多く、そこは世代の差は感じませんでした」(塚田さん、以下同)

どの年代であっても死と向き合う機会を求めている現れだと思う。そこに新しい死の風習が定着する可能性を感じる。そのなかのひとつの選択肢としてデジタル故人が入り込む余地もあるのではないか。

デジタルで育ちやすいのはファンカルチャー

END展は2021年10月に刊行された書籍『RE-END 死から問うテクノロジーと社会』(編著・塚田有那、高橋ミレイ/HITE-Media)とコンセプトやスタッフを共有しており、テクノロジーと死との関わり合いについての思索も根底にある。展示のなかに「もし死者とVR上などで再開ができるとしたら会いたいですか?」といった問いもあった。


『RE-END 死から問うテクノロジーと社会』(BNN)

だから尋ねてみた。姿形や考え方などが当たり前にデジタルで残るようになった世の中で、故人との向き合い方はどう変化するのか。

塚田さんは、デジタルで完結する向き合い方と従来の向き合い方の二方向性が強まるのではないかと言う。

「おそらくデジタルで育ちやすいのはファンカルチャーです。たとえばある有名人が亡くなったとき、ファンたちが自主的にヴァーチャル上で追悼イベントを行うなど、オンラインやヴァーチャルを使って何かしたいというアイデアは、故人とリアルでの対面が難しい人たちから生まれやすいし、求められるのではないかと思います。

逆に、家族や親族の死との向き合い方はそこまで進化しない気がします。遺体と対面しやすい人たちはわざわざ代替を求める必要がないのかもしれません」

クローズドかオープンか

実際のところ、不気味の谷現象(「人間の心理現象の1つで、ロボットなどの人工物の造形を人間の姿に近づけていくと、かなり似てきた段階で急激に強い違和感や嫌悪感が惹起される現象のこと」IT用語辞典 e-Words)はリアルの対象を深く理解しているほど起きやすい。そこを乗り越えてまで、デジタルを使った故人との対話を求める人は少数派のままなのかもしれない。遺族用ではなくて、ファン用のデジタル故人が普及する。その道筋もありそうだ。

デジタル故人はクローズドで生きるのか、オープンでこそ喜ばれるのか。人格再現よりも容姿や技能などの再生に留めたほうが人気は出るのか。そのあたりの答えがわかるのはずいぶんと先のことになりそうだ。

ただ、正当に評価される前にキワモノとして扱われて姿を消す未来だけは避けてほしい。小さな市場であってもずっと選択肢として残されるために、社会も広い度量で見つめてほしいし、サービスを提供する側も時代や状況にあった配慮を続けてほしい。

いつかその先の大きな発展をレポートできたら幸いだ。


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(古田 雄介 : フリーランスライター)