■「素晴らしい個人的資質が開花していた」と悼む

7月8日に凶弾に倒れた安倍晋三元首相に対して、ロシアのエリートが次々に弔意を示し、対露外交への貢献を高く評価した。

写真=SPUTNIK/時事通信フォト
G20サミットの公式歓迎会で、ロシアのプーチン大統領(左)と握手する安倍晋三首相(当時)=2013年9月 - 写真=SPUTNIK/時事通信フォト

プーチン大統領は昭恵夫人と母の安倍洋子氏に弔電を送り、「私はシンゾーと定期的に接触していた。そこでは安倍氏の素晴らしい個人的、職業的資質が開花していた。この素晴らしい人物についての記憶は、彼を知るすべての人の心に永遠に残る」と突然の死を悼んだ。

ロシアのウクライナ侵攻が長期化する中、日露間では制裁合戦が進むが、束の間の「安倍休戦」と安倍氏の不在を経て、日露関係はさらに険悪化しそうだ。

■27回の首脳会談でも「石ころ一つ返ってこない」

明治以降最長在任の首相となった安倍氏の内外政策の成果は多いが、こと対露政策については「失敗」との評価が定着しつつある。

日露平和条約締結を悲願とした安倍氏は27回首脳会談を行い、11回訪露するなど、プーチン大統領との交渉にのめり込んだ。

2014年のロシアのクリミア併合後も、米国の反対を押して対話を重ね、対露経済協力の「8項目提案」を発表。2018年には、国是の「4島返還」を放棄し、歯舞、色丹2島の引き渡しをうたった1956年日ソ共同宣言を基礎にした「2島」路線に舵を切った。しかし、ロシアは強硬姿勢を崩さず、ゼロ回答に終わった。

立憲民主党の野田佳彦元首相は、長野県で行った参院選の遊説で、「プーチン大統領に経済協力を提案し、北方4島の返還交渉が進展するという甘い幻想の下に進んできた。でも、資金はどんどん吸い取られたけども、島一つどころか、石ころ一つ返ってこなかった」と酷評した。

袴田茂樹・青山学院大学名誉教授も安倍外交について、「プーチンはそれを強者ロシアに対する弱者日本の卑屈な態度と侮蔑的に見ていた」と指摘した。

■「プーチンに時間を費やして後悔はないか」との質問に…

安倍氏は亡くなる1カ月半前、英誌『エコノミスト』(5月26日付)のインタビューに応じ、「プーチンに政治資産と時間を費やしたことを後悔していないか」との質問にこう答えた。

「後悔はまったくない。私は常々、北方の脅威を減らし、南西部の戦力を強化すべきだという考えを持っている」
「私はロシアと平和条約を結び、北方4島の問題を解決するために交渉することが義務と考えた」
「今、ロシア人は北方領土の日本への返還に圧倒的に反対している。このような状況では、ロシアの指導者が国内で強力な権力基盤を持たなければ、領土問題を解決するのは困難だ。私はプーチンが適任だと考えた。日本との平和条約締結の中長期的なメリットを理解してくれると信じていた」
「しかし、残念ながら、プーチンといえども、絶対的な権力を持っているわけではないし、1人ですべてを決めることはできない。強い反対を前に、躊躇していたのだと思う」

■感情的な弔電を送ったプーチンの胸の内

安倍氏は退任時の会見で、平和条約交渉が挫折したことを「痛恨の極み」と述べたが、交渉の細部は語っていなかった。英誌への発言には、交渉失敗を取り繕(つくろ)う「後付け」の要素もありそうだ。

なぜ「4島」を放棄したのか、「2島」で勝算があったのか、「2島」を提示した2018年11月のシンガポール会談でどのようなやりとりがあったのか。安倍・プーチン交渉には多くの謎が残っている。

岸田首相はロシアのウクライナ侵攻を「許されざる暴挙」と非難し、欧米諸国と連携して厳しい対露制裁を発動し、安倍融和路線を撤回した。北方領土問題でも、「ロシアの違法占拠」を非難し、4島返還に戻す姿勢を打ち出した。

岸田首相が6月、国会で北方4島の返還を目指す考えを明言すると、安倍氏は周囲に、「(4島返還と)言って返ってくるなら、みんな言う」と漏らしたという(北海道新聞、7月9日付)。岸田首相が安倍路線を簡単に撤回したことに、安倍氏は不満だったようだ。

安倍氏があれほど尽力した日露交渉も見果てぬ夢に終わった。プーチン大統領の弔電が、外交儀礼を超えてやや感情的だったのは、安倍氏の好意に報いなかった気まずさが感じとれる。

■ロシア・エリートが安倍氏を称賛する理由は…

ロシアの指導層からも、安倍氏を称賛する発言が続いた。

ウクライナ問題で強硬な反欧米レトリックを強めるメドベージェフ前大統領は「安倍氏は日本の政治家の中で、ロシアとの関係発展を進めた数少ない人物だ」と述べた。

ペスコフ大統領報道官は「安倍氏は常に日本の利益を守り、外交交渉で実践した。そのため、プーチン大統領とは非常に良好で建設的な関係を築いた。このような政治的意思は現在、多くの国で不足している」と語った。

コサチョフ下院副議長は「安倍氏が長年にわたりロシアとの効果的な協力計画を指揮したことは永遠に記憶される」と称えた。

ガルージン駐日大使も「戦略的、長期的ビジョンを持った政治家で、ロシアとの緊密な善隣関係が日本の長期的利益になると考えた愛国者」とし、安倍氏を継承する政治家の登場を望むと指摘した。

モスクワの日本大使館には、市民の要請で献花台が置かれ、多くの市民が花をたむけたという。

ウクライナ侵攻で西側から強烈な経済制裁を浴びる中、ロシア側は、安倍氏の対露融和外交のありがたさを想起したかにみえる。日本国内で低い安倍氏の対露外交への評価がロシアで高いのは、結果的にロシアを利するものだったことを意味する。

写真=iStock.com/Mordolff
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Mordolff

■安倍氏という「重し」が取れ、関係はさらに険悪化する

安倍氏の「不在」で、今後の日露関係はますます険悪化しそうだ。

ロシアのバシキン上院議員は「安倍氏は日露の友好に大きく貢献したのに、岸田首相がすべてを破壊した」と非難した。下院国際問題委員会のチェパ第一副委員長は「複雑化する日露関係が改善される見込みはまったくない」と述べた。

ウクライナ戦争後、欧米諸国を非難するプーチン大統領自身が日本を名指しで非難することはなかったが、親しい安倍氏の死で重しが取れ、今後は対日批判に乗り出すかもしれない。

ロシアは日本企業が出資するサハリン沖の石油・天然ガス開発事業「サハリン2」を接取する方針を示したのに続いて、同じく日本企業が参加する「サハリン1」についても、「ロシアの管轄下に置かれる方向にある」(ザワリヌイ下院エネルギー委員長)という。

ガルージン大使も「日本の一連の対露敵対政策は、対抗措置に遭うことになる」と警告した。

ロシアは経済面の報復制裁に加えて、日本周辺での対日軍事威圧も強めている。ウクライナ侵攻で愛国主義が危険なほど高まるロシアを過度に刺激しない外交も必要になる。

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名越 健郎(なごし・けんろう)
拓殖大学特任教授
1953年、岡山県生まれ。東京外国語大学ロシア語科卒。時事通信社に入社。バンコク、モスクワ、ワシントン各支局、外信部長、仙台支社長などを経て退社。2012年から拓殖大学海外事情研究所教授。国際教養大学特任教授。2022年4月から現職(非常勤)。著書に、『秘密資金の戦後政党史』(新潮選書)、『独裁者プーチン』(文春新書)、『ジョークで読む世界ウラ事情』(日経プレミア新書)などがある。
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(拓殖大学特任教授 名越 健郎)