※この記事は2021年08月22日にBLOGOSで公開されたものです

8月8日に閉幕した東京オリンピック。参加選手の男女比率はほぼ半数(男性51%、女性49%)で、オリンピック史上、最も「ジェンダー・バランスが取れた」大会となった。トランスジェンダーの選手が初めて参加し、一つの節目を作ったと言えよう。

しかし、国内外の報道では、五輪大会は「性差別が未だに残っている」と指摘された。問題点を拾ってみた。

開催前から女性蔑視言動が目立った東京五輪

開催までの数か月の間に、東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長(当時)が女性について「不適切」と本人も認めた発言後、辞任。開閉会式の演出統括者佐々木宏氏が女性タレントの容姿をあざけるような演出案を出していたことが発覚して、辞任している。

直前の7月、国際オリンピック委員会(IOC)のジョン・コーツ副会長がオーストラリア・クイーンズランド州の女性首相アナスタシア・パラシェ氏に対し、記者会見場で同氏が開会式について知識がないと指摘した後、東京五輪の開会式に出るべきと指図。女性が無知と決めつけ、男性の優位を見せるような行為として批判された。

現在、IOCの理事の中で女性は約33%。選手の男女比は半々をほぼ達成しても、意思決定の地位に男性が多い。これが女性を軽んじる言動につながっている可能性もあるだろう。

女性の参加は「下品だ」とされた近代オリンピックの始まり

近代オリンピックの元をたどると、女性が差別的に扱われてきた歴史があった。

第1回の大会が開催されたのは1896年。この時、女性選手の参加は禁止されていた。開催提案者のピエール・ド・クーベルタン男爵は女性が参加するオリンピックは「実用的ではない、つまらない、美しくない、下品だ」と言ったそうである。

女性が参加できたのは1900年から。22人の女性選手が芝生の上で行う「クロケット」など、5つの「淑女のスポーツ競技」に参加した。

1950年代初頭まで、女性選手の割合は10%ほどだったが、その後、参加可能の競技の幅は広がった。男女の選手がほぼ同数の競技に参加できるようになったのは、2012年のロンドン五輪からで、比較的最近だ。2014年から、IOCは男女選手の比率が50%ずつになる目標を明記するようになった。

女性選手の参加を男性ホルモン量で規制するのは間違い?

女性選手の参加をめぐる課題は今なお多い。

生まれつきテストステロン(男性ホルモン)が高すぎる女性も、大会参加を阻まれるのが現実だ。

IOCは世界陸連の規則に倣い、女性陸上選手が400メートルから1500メートル競走に参加する場合、テストステロンの血中濃度が1リットル当たり5ナノモル未満であることを条件にしている。これ以上の場合は、ホルモン抑制剤を摂取しての参加となる。

この規則によって、ナミビア代表の2人の女性選手が東京五輪の400メートルの参加を断念している。

また、2016年のリオデジャネイロ五輪の陸上競技のメダリストである南アフリカのカスター・セメンヤ選手、ブルンジのフランシーン・ニヨンサバ選手、ケニアのマーガレット・ワンブイ選手は、テストステロン値が高いため、東京五輪への参加をあきらめなければならなかった。

こういった規制に対し、米ノートルダム大学のカラ・オコボック助教授は、「テストステロンのみがスポーツの結果を向上させるという定説は正しくない」と反論(アルジャジーラサイト、8月8日付)。

11の陸上競技を対象とした世界陸連が行った調査では、テストステロンの量が競技の成績向上につながったのは3競技のみだったという結果になったことなどをあげ、「まだ確固とした判断ができるほどの材料がない。正確な判定が出るまで、テストステロンが高い女性選手にも参加を許すべきだ」と主張している。

スポーツ界で女性のレオタードやビキニ着用に反対の動き

近年、女性選手にとって大きな障がいと認識されるようになったことがある。選手としてのパフォーマンスに注目されるのではなく、「性的対象として見られる」、「見た目を重視される」傾向が男性選手よりも圧倒的に多い点だ。

東京五輪では、ドイツの女子体操選手たちが脚の付け根に切り込みがあるレオタードではなく、くるぶしまで脚を覆うユニフォーム「ユニタード」を着た。

ドイツ体操連盟は、ユニタード着用を「体操競技のセクシュアリゼーションに抵抗するため」という意図があったとツイートした。セクシュアリゼーションとは、人を性の対象として見ることを意味する。

同時期、五輪競技ではなかったが、同じ文脈の事件が起きていた。女子ビーチハンドボールの欧州選手権で、ノルウェーの女子チームが「ビキニ着用」の規則に抗議するため、短パン姿で試合を行ったのである。欧州ハンドボール連盟は、女子チームの短パン着用を規則違反とし、罰金を科した。

なぜ女性だけが、男性より下半身の露出度が高いビキニ形でなければならないのか。一石を投じた動きだった。

ルッキズム=外見至上主義への批判も

こういった動きの背景にあるのは、女性選手を外見や身体的な特徴で判断する「ルッキズム=外見至上主義」だ。

IOCは今年6月、ジェンダー平等、公平性の確保のため、メディアがどのような表現によって人物を描写するべきかを示した改定版「表象ガイドライン」を発表した。

「個人の容姿を評価するようなコメント」や「ジェンダーに特化したり、性差別的であったりする表現」を避けるべき、としている。

例えば、「セクシー、女の子っぽい、男らしい、イケメン、美少女、美しすぎる、美女アスリート、ママさんアスリート」などの表現だ。

「これでは、何も言えなくなってしまう」と反論する人もいる。「美しい」は褒め言葉ではないか、と。

しかし、スポーツアスリートとして競技に参加する時、「美しい」ことはそのパフォーマンスを評価する際の判断基準になるだろうか?

スポーツ報道において「美しい」選手を"高く評価"することは、外見の差別につながりかねない。

「妖精すぎる」「まぶしすぎる」日本の五輪報道に見る女性への外見至上主義

筆者が日本の五輪報道で気になった例を挙げてみたい。

ネットメディア最大手ヤフー・ニュースのウェブサイトに、写真雑誌「FRIDAY」の記事が載っていた(7月28日付)。見出しは「『リアル妖精すぎるカザフの旗手』に世界から注目集中…!」である。

開会式でカザフスタンの旗手を務めたオリガ・ルイパコワ選手についての容姿に着目した記事構成で、記事の途中には、「【画像】美しすぎる…!五輪女性アスリートたち」というタイトルのリンクが差し込まれている。

「妖精すぎる」「美しすぎる」という観点から報じられたこのような記事はまさに、IOCの表象ガイドラインが「避けるべき」構成としているものだ。

また、ベラルーシ代表・クリスティナ・ツィマノウスカヤ選手の亡命をめぐる報道でも同様のルッキズム報道が見られた。ウェブサイト「AERA dot.」の記事(8月2日付)だ。

使われている画像は5枚で、すべて選手自身のSNSに掲載されたものだ。

ことさら「美」を強調する雰囲気を醸成するのが、記事中の、「【写真】まぶしすぎるツィマノウスカヤ選手の笑顔はこちら」というタイトルのリンクだ。先の「【画像】美しすぎる…!五輪女性アスリートたち」に非常によく似ている。

亡命にも事態の深刻さにも関係のない形容詞「まぶしすぎる」を使い、選手の外見に対する憧憬が強化されている。

なぜこれらの表現が英国では「考えられない」のか

イギリスでは、社会の多様性を高めるため、人口では半分を占める女性をより多く報道の場に出す努力がある。主要大手紙の編集長には女性が就任するようになり、BBCを筆頭に、ニュース番組では司会者、リポーター、出演者の半分を女性にする試みが続く。メイン司会者が女性、リポーターの大部分が女性、インタビューされる政治家が女性という組み合わせは、珍しくない。

多くの人に向けて情報を発信する役割を持つメディアが、ニュース報道において女性を「美しすぎる」、「まぶしすぎる」などの表現を使って、伝えることの本筋から外れて紹介する・語ることは、イギリスの基準では考えられない。

もし放送番組でこのような表現が使われたら、放送通信界の規制監督組織「オフコム」に山のような苦情が送られるだろう。広告においても、特定のジェンダーに紐づけ、差別を誘発するような表現は禁止されている。

日本の日々の報道の中で、女性について「美しすぎる」、「まぶしすぎる」などの表現があったら、話のトピックに合ったものなのか、あるいは容姿に注意を集め、トピックからずれたものになっているのかどうか、チェックをしてみてはいかがだろう。