※この記事は2021年07月05日にBLOGOSで公開されたものです

最近ね、85年生きてきてさ、この長い生涯で、いちばんいいと言える「あんみつ」を食べたんだ。これが、大納言の小豆を使った甘くて美味しいあんこがたっぷりでさ、クリームあんみつを食べたんだけどクリームのボリュームもすごくて、フルーツも種類豊富でたっぷり。それで値段は800円。他の店で同じようなの食べたら2000円はするよ。

実にいいあんみつだったな・・・で、どこで食べたかと言うと・・・、いや、ちょっとその前に話したいことがあるんだ。ご用とお急ぎでない方はちょっとこのまま俺の話に付き合ってくれよ。

70年ぶりに訪れた「目黒のらかんさん」五百羅漢寺

昭和25年、戦争が終わってまだ5年という時代、俺が中学3年の頃、しばらく住んでいた浅草から品川の中延に移り住んだんだ。中延は浅草に住む前にも暮らしてた土地だから何かと馴染み深い場所だった。

暇な時はあちこちに足を延ばしてよく歩き回ってたっけ。ある日、ウラの山のほうをずっと歩いてたら崖の下に古いお寺が見えてね、おや?って思って、崖をずるずると降りてって、そのお寺に入ってみたんだ。荒れ寺で、人の気配も無くシーンとして、草木も伸び放題で鬱蒼として、そこで見たのが雨ざらしになってる数え切れないたくさんの木像だった。

木像がやたら多くてさ、独特の光景だったな。ああ、こんな処にこんな場所があるんだなって、記憶の隅に残ったよ。

それが、目黒にある五百羅漢寺(ごひゃくらかんじ)だった。当時は老朽して荒れてたけど、今はもう再建されて立派になってる。「目黒のらかんさん」って呼ばれて親しまれて、東京都の重要文化財にも指定されてる。

その五百羅漢寺に最近お参りしたんだ。うーん、15歳の頃にその荒れ寺を見た日からすれば、かれこれ70年ぶりだな。行く機会がなかなかなくて今に至ってしまった。何度かね、林家木久扇さんから「五百羅漢寺で節分の行事があるけど蝮さんも出ませんか?」って誘ってもらったことがあったんだ。だけどその時はすでに他から頼まれてて行けなかったんだ。

でね、ようやっと伺うことが出来た。そこで改めて感じたのは、都会にこんな静かな心落ち着く場所があるんだってこと。だからぜひね、出かけられる機会があったら訪ねてみてほしいなって。

仏師が一人で作った500体の羅漢

正式名称は、「天恩山(てんおんざん)五百羅漢寺」。目黒駅からなら歩いて10分ちょっとだよ。目黒のお不動さんのふもとだ。

「羅漢」っていうのは、お釈迦様の下で学んで、厳しい修行を積んだ高弟で、仏様ではなく人なんだ。だから仏像ではない。その賢者の木像を「羅漢」というんだ。五百体でもって五百羅漢。江戸の元禄時代に松雲元慶(しょううんげんけい)という僧侶で仏師――仏師っていうのは仏像をつくる専門家だよ――、この松雲さんが十数年かけて、一人で五百羅漢を彫り上げた。

それを桂昌院(徳川綱吉の母)や、綱吉、吉宗が庇護して、本所に土地を与えて「天恩山羅漢寺」が建立されたの。だから元々は本所にあったんだ。吾妻橋があって長谷川平蔵が十手持ってうろうろしてた、あの辺りだな。

将軍の肝いりってこともあって、ずいぶんと流行って江戸の名所だった。この境内にある「さざえ堂」と呼ばれる建物が有名で、なぜ「さざえ」かって言うと、建物の内部が3層のらせん状で、ぐるぐる回りながら上へ下へと行ける。要するに貝のサザエの形に似てるから「さざえ堂」。これは、安藤広重の絵にもなってるし、葛飾北斎も富岳三十六景で描いてる。

明治に入り一転、没落して荒れ寺に

だけど時代が明治になるとご時勢一変。廃仏毀釈もあって寺は没落。1908年に本所から目黒に移転する。それから暴風雨に見舞われたり、関東大震災に遭ったり、年々風雪に晒されて、満足な修繕も行き届かず、俺が戦後に見たような荒れ寺になってしまう。

で、この寺の復興に尽力したのが安藤妙照(あんどうみょうしょう)という尼僧。この方がすごい人でね、元々、新橋の芸者さんなんだ。「お鯉(こい)さん」って名で知られて、あまりにも美人だからその姿が絵葉書になって、当時飛ぶように売れて何度も増刷したって。

だからお鯉さんのご贔屓はそうそうたる人ばかり。伊藤博文、井上馨、北里柴三郎、尾崎紅葉・・・時の政治家に学者に作家、まあ売れっ子で一流の芸者だったわけだ。そして縁あって当時の総理大臣、桂太郎の側室になる。首相官邸にお鯉さん専用の住居が建てられて、そこに囲われて、要人の接待をしたっていうから、日本国公認の愛人ってわけだな。

そして桂太郎という旦那があの世に旅立つと、このお鯉さんが出家しちゃう。権力、財力、自らの美貌などに群がる人間を見てきたことで、生きる意味を外側でなく、より内側に求めるようになったんだろうね。

仏の道に入ったお鯉さんが安藤妙照となり、尼僧として托鉢で通りかかったのが目黒の五百羅漢寺だった。そこで天命を感じたんだな。住職のいないこの荒れ寺を建て直そうと決意して住職になったのが58歳の頃だ。

五百羅漢寺の再建に人生を捧げ、天寿を全うしたあとも、その遺志は後に継がれて、昭和50年代に入り、今のような建物に復興していった・・・。いやあ、山あり谷あり波乱万丈、これはぜひNHKでドラマにしてほしいね。

この五百羅漢寺には色んな石碑があって、その一つに役者にまつわる慰霊碑があるんだ。それが「さくら隊原爆殉難碑」。昭和20年8月6日に広島を巡業していた新劇の劇団「さくら隊」が原爆投下に遭って被ばくし、その隊長だった丸山定夫(まるやまさだお)という当時の新劇界で有名だった役者を始め、高山象三(たかやましょうぞう)さん、園井恵子(そのいけいこ)さんら計9名が命を落としてしまった。

演劇界に起きたこの悲惨な出来事を後世に残し、亡くなられた9人を供養するこの碑を建立したのが「宮本武蔵」の名朗読で知られる徳川夢声(とくがわむせい)さん。それから、プロレタリア演劇の演出家・八田元夫(はったもとお)さん。八田さんは俺も親しい近石真介さんの師匠にあたる人だ。歴史に命を吞み込まれた先輩方を偲んで、俺もじっくりと手を合わせてきたよ。

現存する羅漢は305体 一体一体に名前

あ、そうそう、「らかんさん」と呼ばれて親しまれる羅漢像だけど、かつては500体あったけど今残っているのは305体。その一体一体にすべて名前があってそれぞれの特徴がある。表情も個々に違ってて、一体ずつ眺めていくと、あの世に行った親類縁者の誰かに似た顔と出会えると言われてる。

この羅漢像を安置する羅漢堂や、本堂や、史料館や、ゆかりの石碑がならぶ小径をじっくり眺めて回ると、とても気持ちが鎮まる。なんとも安らいだ気分になる。なかなか心穏やかになれない人にはお勧めの場所だよ。

でね、気持ちが安らいだあとは、すぐ側にゆったりと和食のコースを味わえる「らかん亭」と、お茶や甘味が楽しめる「らかん茶屋」がある。俺はこの茶屋のほうで飛び切りのクリームあんみつを食べたわけだ。

いやあ、ようやく話が最初に戻ったね(笑)。言っとくけど俺は五百羅漢寺の回し者でもなんでもないよ。ただただ、出かけたらとてもいい場所だった、そういう話をしたかったんだ。だからこれを読んで、あんみつ目当てで、あんみつだけ食べに行くのだって全然いいよ。それが目黒の五百羅漢寺を覚えるきっかけになるんだったらさ。

じゃあ最後にまとめとくか。「目黒にあるから目の黒いうち、密よりあんみつ、五輪より五百羅漢、らかんさんに会ってあっけらかんと過ごしましょう~」ってことで、いいか、アハハハハ。

(取材構成:松田健次)