※この記事は2020年04月08日にBLOGOSで公開されたものです

4月7日に緊急事態宣言が出される前、五輪延期の決まった3月末に東京都知事が緊急会見を繰り返す前、新型コロナウイルスという新しい感染症が日本にいよいよ広がりはじめ、全国休校の決定が報道された3月の初めからとっくに、僕の街は死にはじめた。そして今もどんどん死に向かっている。

僕は感染症の専門家でも経済学者でも医師でもない。ノンフィクションライターでもないしジャーナリストでもない。ついでに言えば大卒ですらない。横浜のどこかで安い賃金で働いている非正規雇用労働者でしかない。でも映画の感想をブログに書いているうちに、ネットの向こうで顔も知らない人たちがたくさん読んでくれるようになった。もし書かせてもらえるなら、僕の街が死にかけていること、どんな風に死に向かっているのか、その死の床の病状について伝えられたらと思う。

客の姿が消えた横浜中華街

少し前、「マスクを買うための行列で殴り合いが起きた」と客同士が街の通りで殴り合う動画がSNSに上がり、それは多くの共有の果てにテレビでも報じられることになった。あの映像の街で僕は子どもの頃から育った。テレビであの場面を見た市内の人たちの何割かは、それが僕の街の有名な通りであることにすぐ気がついたと思う。美しい街だ。映画『SUNNY 強い気持ち・強い愛』で広瀬すずが白目をむいてお弁当のお好み焼きをぶん投げたり、池田エライザや山本舞香や富田望生たちとプリクラを撮影するシーンは、あの殴り合いがあった通りの裏道やゲームセンターで撮影された。

街では昔から多くの外国籍住民と日本人が入り交じって暮らしている。中華学校帰りの生徒たちは口々に中国語をしゃべっているし、日本の高校生たちのグループにはアフリカ系の生徒がどんどん増えている。ヒップホップ的にフードをアレンジして戒律とガールズファッションを両立させたムスリマの少女がさっそうと歩いて行く。駅から続く商店街の地下道にはストリートピアノが設置され、多くのアマチュアたちの演奏を通りすがりの観客が楽しんでいる。あの地下道に広瀬香美さんが来てあのピアノを弾いたことだってある。もう一度言うけど、にぎやかで、そして美しい街だった。3月までは。

でも今、僕の街は苦しんでいる。マスクが足りないとか行列で殴り合いが起きたとか、そんなことではなく、街が苦しんでいる理由はただひとつ、経済だ。

たぶん日本中の繁華街で同じだと思うが、東京都知事の会見のずっと前、3月初めから、「自粛」の波は街の経済を直撃した。ほとんどすべての店が死んだようにがらんどうになった。カリスマ的人気のラーメン店など一部の店をのぞいて、僕が入る店のほとんどが僕以外に客が一人もいなかった。よく行く店でランチタイムにユッケジャンクッパを頼むと出てくるまで恐ろしく時間がかかった。おそらく一人も客が来ないので厨房の火を落としていて、不意に来店した僕のために一から湯を沸かさなくてはならなかったのだろう。たった一人入った客など何の助けにもならないのだ。どの店も店主たちの顔からは血の気が引いていた。

3ヶ月先に店があるかわからない

僕の街からすぐの横浜中華街では3月中旬、善隣門に「みんなありがとう #がんばれ中華街」という横断幕が掲げられた。まだメディアの話題の中心が武漢だった3月上旬、中華街には匿名の脅迫状が送りつけられた。脅迫や差別に対しては理念で戦うことができる。

ただ、国や自治体が国民に社会正義として「自粛」を促し、そしてただ国民が自由意志で自粛しただけなのだからという理由で補償がされないという、曖昧で残酷な経済状態に対しては抗う術がない。僕が中華街のいくつかの店に足を運んだ時も、多くの場合店内に客は僕以外ほとんどいなかった。厨房で中国語を話しているおばちゃんは、一人客などたいしてありがたくもなかっただろうに、サービスだから、と定食のライスをまんが日本昔話でしか見たことがないほど山盛りにしてくれた。

国家や自治体から「危険だからああいう場所へ行くな」と名指しされつつ何ひとつ補償はないという状態の中で、あらゆる店舗が1日ごとに体力をガリガリと削られている。もし政府が「非常事態の資金を調達するためにすべてのサラリーマンの預金口座から毎日1万円ずつ徴税する」と宣言したら暴動が起きるだろう。でも事実上、零細個人経営を含むすべての飲食店にこの1ヶ月間起きているのはそれに近い事態だ。彼らは国家に代わって自分の財産を差し出す形で「民間防衛」の矢面に立ちながら、補償がないだけではなく、社会からまるで感染を広げるパブリックエネミーのように扱われている。

個人経営の飲食店は、一軒一軒が難民にとっての独立国家のような果てしない夢の結晶だ。僕は派遣労働先で「いつか金を貯めてこういう店を持ちたい」と将来の夢を語っていた料理人たちのことを思い出す。僕は彼らの夢がまだ叶っていないことを祈る。もしも彼らの夢がこの2020年4月の時点で叶ってしまっていたら、たいていがそうであるように準備金にいくらかの借金を背負って個人経営者として店を始めていたら、彼らは今、恐ろしい光景を見ているはずだ。死に物狂いで1ヶ月働いて貯めてきた金が、1日ごとに吹き飛んで行くような悪夢の光景を。それは彼らの人生が死んでいく景色だ。そして国家も、社会も彼らに手を差し伸べない。

SNSをはじめ多くの声が上がり、世論を気にする政治家の中で「補償をするべきか」という議論も始まったが、4月7日の国会答弁で首相は、緊急事態宣言で営業休止を求められた事業者などへの損失補塡(ほてん)について「現実的ではない」と否定した。45兆円の資金繰り支援を用意するとのことだが、融資であれば返済が必要であり、長期に及ぶの危機的な経済状態を結局のところ彼らは働いて埋め合わせることになる。融資が間に合えば、店がまだあればの話だ。

政府は「事態が収束したあとに飲食観光産業にクーポンを発行して支援する」という施策に力を入れているようだ。だがこの感染症の収束がいつなのか、ほとんど世界の誰も見通せていない。東京五輪の1年延期に、森喜朗会長すら「2年延期の方がいいのでは」と問いかけたという。3ヶ月後に自分の店がまだ存在しているかどうかさえわからない僕の街の人々にとって、そのクーポン券の支援は地平線の向こうに遠く霞んでいる。

3密状態が常態化する自治体の申請窓口

飲食店だけではない。僕は自治体が用意した緊急小口貸付金制度の申請のために(言うまでもなく僕の収入も半減した)、住民票と印鑑証明の取得で区役所に足を運んだ。そこで見たのは僕と同じように、今回の事態で突然必要になった融資や証明などの書類を発行するために区役所に押しかけた多くの人々だった。気の遠くなるような桁数の番号シートを握って、並んだ満員の椅子からもあぶれ、肩が触れ合うような距離で立って順番を待つ人々の上で、大画面の液晶テレビから民放番組が「密閉・密集・密接の3つの密を避けましょう」とアナウンスしていた。まさにその状態で2時間3時間を待つ人々から失笑が漏れた。

必死で待ち人数をさばくためにフル回転で業務を処理する窓口の職員たちは全員がマスクをしていたが、マスクをした女性職員は「申し訳ありませんが、本人確認のためにマスクをお外しください」と頭を下げて区民の顔と身分証明書と照合しなくてはならず、入れ替わり窓口で申請する数百人と1メートルの距離で確認のためにマスクなしの会話を繰り返していた。この経済状況で店や家を失おうとしている人々の中には、窓口の職員たちが安定した身分の公務員に見えた人もいるかもしれない。だが実際には、彼らの多くが僕らと同じ非正規雇用の職員だ。

17時を回っても順番待ちの区民はロビーを埋め尽くしていた。スーツにマスク姿の課長が区民の前で頭を下げ、「申し訳ありませんが、時刻を過ぎたので間もなく正面玄関のシャッターが降ります、このあと受付をされた方はあそこの裏口からお帰りいただけます」と指をさした。非正規雇用の職員が規定の休憩時間に入ったのか、僕が帰る時まで課長は一人で自ら窓口で区民の受付を続けていた。30万円の現金給付を掲げた政府の政策は全員一律の給付ではなく、所得や人数によって金額が増減したり、受給の可否が変わるという。1000万世帯が対象になるというその給付政策の窓口は、市町村窓口での自己申請になるのだそうだ。今の時点で人数をさばききれない区役所が、1000万世帯の問い合わせと申請でどのような状態になるのか、僕には想像もつかない。「選別」の煩雑な手続きのために、区役所の窓口職員たちは間違いなく、医療や看護と同じように感染リスクの最前線に立たされることになる。

求められる災害時ベーシックインカム

ウイルスは平等ではない。多くの企業で正社員がリモートワークに転じた職場を非正規雇用の職員が回している。自己隔離する経済的余裕のない日雇い派遣労働者たちは今日も電車に乗って県から県へと移動しているだろう。ウイルスは抵抗力の低い社会的弱者を狙い撃ちし、やがて社会全体を蝕む。貧困と同じように。経済の困窮が人にリスクを取らせて感染を広げ、感染の広がりが経済の困窮を生む。「経済か公衆衛生か」の選択問題ではなく、それはひとかたまりのサイクルなのだ。

現金補償があれば飲食店は店を閉め、派遣労働者は家で休むことができる。ロストジェネレーションの論客として知られる赤木智弘がベーシックインカムを議論していた時、僕はその代償に削られるであろう社会保障を懸念して賛成の手を挙げかねていた。でも今、いつ収束するかすらわからないこの事態に対して、イギリスのジョンソン首相が(新型コロナウイルス感染症状の悪化により現在は集中治療室にいる)検討すると答えた「一時的な災害時ベーシックインカム」のような制度を望むのは間違っているだろうか? 4月5日、スペインのナディア・カルビニョ経済大臣は、ユニバーサル・ベーシックインカム制度の導入を宣言し、感染の危機が去ったあともこれを継続すると述べた。

長い期間にわたって、人々に社会行動の抑制を求めるには、それ以外の選択肢がないように僕には思えるのだ。新型コロナウイルスに対するワクチンはいまだ存在しない。しかし経済的困窮には現金というワクチンが存在する。もしそれが遅れるなら、氷河期世代に対してそうしたようにこの事態を見過ごすのなら、今度失われるのはひとつの世代だけではすまない。

緊急の「輸血」として全国民一律の現金給付を

4月7日に出された緊急宣言と共に、いくつかの経済対策が発表された。だが、前回の「所得減少世帯に30万円の現金給付」と華々しく打ち上げた政策の条件が、よく検証してみれば異常なまでに厳しくほとんど受給できないこと、自民党の内部ですら「経済対策の体をなしていない」と批判が上がったことを思えば、『フリーランスを含む個人事業主に「最大」100万円、中小企業に「最大」200万円の現金給付』という「最大」の文言、またその条件などでどこまで実際に給付が受けられるかはまだ不透明だ(※追記:その後、5月から最速2週間という情報が出ることとなった)。

僕の地元である神奈川県の知事は「東京都と違い神奈川県には余裕がない。業種を指定して休業要請をすると補償の問題が生じるので指定はしないが、一人一人が行動変容で飲み会だお祭りだと行かずに人と接しなければ、店を開くこと自体が意味がなくなるはずだ、これは基本的な国の方針でもあるから県としてもならった」という意味の方針を述べた。「自粛」を軸にした国の方針にならったものだが、そこには一切の補償なく「娯楽」として「行動変容によって店を開く意味がなくなるはずだ」と切り捨てられる「店」の側もまた市民であり生活する人間だという視点が完全に存在していなかった。

あと1~2ヶ月の間に現金が入らなければこの社会状況下で店や家などの社会資産を失ってしまう人々が万単位であふれている。また、政府が細かい条件をつけるたびに、前述したように申請をめぐって市町村窓口と困窮した申請者の間では、沈没船の救命ボートをめぐるような混乱が展開されることになる。政府の補償が届かなければ、どのみち生活保護や失業保険の受給に並ぶ人数が爆発するだろう。それは感染爆発の温床とならないのか。むろん長期の企業補償にある種の条件や確認が必要だとして、緊急の「輸血」として全国民一律の現金給付、災害時緊急ベーシックインカムが必要なのではないだろうか。

僕の街に住む人たちは僕も含めて、たしかに国家や社会の中心にいるとはいいがたいのかもしれない。でも人体が血液の循環によって繋がっているように、末端が病んで壊死し、ウイルスに冒されれば、無関係でいられる場所は人体のどこにもないはずだ。荒廃し、多くの店や施設が閉じられ、そこに働いていたサービス業の技術労働者が失業者となったあと、クーポン券がばらまかれたとしてどんなV字回復が可能だというのだろうか?

僕は、僕の街や隣の中華街、日本のすべての街がこの経済危機を乗り切ることを願っている。アベノミクスによるこの5年は投資家へのボーナスステージだった。預貯金、株式、債券、投資信託など純金融資産保有額1億円以上の富裕層は2017年時点で127万世帯、資産規模は300兆円に上り、全世帯のわずか2%強が国内個人資産の2割を保有する計算だという。その経済を支えてきたのは日本中の街で人々が働く税金だったはずだ。その金を今、もう一度人々の暮らす街に戻すべき時だ。

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