※この記事は2010年02月25日にBLOGOSで公開されたものです

 カナダのバンクーバーで行われている、冬季オリンピック。
 私は家での仕事なので、付けっ放しにして毎日のように楽しんでいる。
 ショートトラックでは韓国勢の強さに舌を巻き、ハーフパイプでは國母が決して無礼なだけの若者などではないことを思い知らされ、スキーのジャンプや滑降ではそのスピード感を楽しむ。
 マスコミは「メダルに期待!」などと威勢を挙げるが、私はどんな知らないスポーツでも、観ていれば何となく見どころが掴めて、楽しめる性格なので、別段メダルに執着する感覚はない。
 もちろん、ハイレベルな試合を見せてもらえた結果、日本人がメダルをとれば、それは同族意識として嬉しいものである。

 そうした中、フィギュアスケート男子で、日本の高橋大輔選手が、男子フィギュア初のメダルを手にした。フリープログラムでは4回転を成功させる事はできなかったが、ショートプログラムでは90点台をたたき出し、世界のトッププロの一人であることを明確に示した。また、メダルを取れなかった選手たちも、さまざまな演技と個性で、世界中を楽しませた。
 しかし日本には、がんばった選手に対して賛辞を贈るどころか、くだらない皮肉で彼らの活躍を腐す人間がいた。東京都知事の石原慎太郎である。
 石原都知事は2月19日の知事会見の中で、高橋の銅メダルに対して「金メダルじゃねぇんだろ。否定はしませんよ、しかし快挙かねそれは。慶賀に耐えないとまでは言えないけどな」などと発言をした。(*1)

 発言の経緯としては、冒頭で文化放送の記者が「日本人選手がオリンピックで活躍をしている」という言葉に対して「してる? してないじゃないか」と反論、ひるんだ記者が「力を出し切れない人もいるかも知れませんが」と言ったことに大して「なぜ出し切れないのかね?」とツッコミを入れた。
 それに対して文化放送の記者が「手を繋いでゴールインしよう」という風潮や、「ゆとり教育」の問題を指摘。最近の若者に対する偏見たっぷりの持論を展開し始めた。
 それに、石原都知事が修身や道徳などといったものの刷り込みが必要だと同調。「高橋大輔が銅メダルを取りましたが」という別の記者の質問に対して、「金メダルじゃねぇんだろ」の発言に至ったのである。

 石原慎太郎は、「日本勢が不振であることは誰が見ても明らか」と言っているが、日本がこれまで冬季オリンピックでで収めてきた成績を理解していれば、長野やアルベールビル並のメダルラッシュはないものの、おおむねいつも通りの成績を収めていることが理解できる。(*2)
 さらに、これは個人的な感覚ではあるが、メダルは取れずとも、ほぼそれに近しい成績で入賞している選手も多く、種目に関わらず全体での底上げがされており、決して日本勢が不振だとは思わない。
 これには日本のマスコミが大げさに「メダルが期待できます!!」などと報じるために、好成績を取ったとしてもメダルでなければ不振に見えてしまうという問題もある。だが、行政の長がワイドショーじみたスポーツ報道に惑わされてしまうようでは話にならない。

 だが、私が一連の石原慎太郎の発言で一番問題だと感じたのは、決して「金メダルじゃねぇんだろ」という発言ではない。「選手たちがね、思ったより高く飛べない、思ったほど速く走れないのはね、重いものを背負ってないからなんだよ。国家ってものを背負ってないからね、結局高く飛べない、速く走れないと私は思いますね」のくだりである。

 かつて、円谷幸吉というマラソン選手がいた。
 1964年に開催された東京オリンピックで銅メダルと取り、次のメキシコシティオリンピックでの金メダルを待望されていた。
 そうした状況の中で、ほぼ決まっていた女性との婚約を「オリンピックが大事である」と破棄させられたり、過酷なトレーニングで椎間板ヘルニアを発症するなど、心身共にボロボロにされ、1968年の1月に自殺してしまった。
 その際に残した「父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました。」で始まる遺書は、川端康成によって高く評価されている。

 2016年の夏季オリンピック招致活動に勤しんでいた当時の石原慎太郎が、松任谷由実との対談の中で、このようなことを語っている。
 「彼の遺書は本当に美しかった。長距離ランナーはいろいろなことを考えながら走り、ドラマがある。僕は今も、マラソンを見るのが大好きですよ。」(*3)
 そりゃ、スポーツにはドラマがあるが、あくまでもそれは競技の中の話である。
 石原慎太郎が、東京オリンピック陸上唯一のメダリストである円谷幸吉を翼賛し、男子フィギュア史上初のメダリストである高橋大輔を腐すのは、円谷には自殺というドラマがある一方で、高橋にはスポーツ部分以外でのドラマが見えないからだろう。
 石原にとっては高橋大輔は「道徳を知らず、国を背負っていないゆとり教育の若者の一人」であるかのように見えているのだろう。
 ならば、「道徳を知って、国を背負う」とはなんだろうか?
 彼らの競技や演技は、彼らだけのものではないのかもしれない。彼らの勝利や敗北だけなら、私たち日本人と共有されてもいいのかもしれない。
 だが、彼らの人生は決して日本人に共有されるべきではない。彼らの人生は彼らのものである。
 道徳を負うことも、国を背負うことも、それは決して「彼らの命まで含めて丸ごと、日本人に信託すること」などではないハズだ。

 円谷幸吉の死を、三島由紀夫は「美しい自尊心」「崇高な死」などと論じた。だが、たとえ円谷にとってその死が崇高なものであったとしても、「日本国民が円谷に国家を無理に背負わせ、円谷を殺した」という事実から、日本人が逃げられるはずもない。
 そうした現実を「ドラマ」と論じて直視せず、今現実に活躍しているスポーツ選手たちにまでドラマを押し付けようとする人間が、行政の長となって立つ東京という地に、オリンピックが招致されなくてよかったと、本当に心から思う。

*1:石原知事、高橋の銅メダル「まあ、銅から始めようだな」(産経新聞)http://news.livedoor.com/article/detail/4615194/
*2:図録▽冬季オリンピックにおける日本のメダル数(社会実情データ図録)http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/3987.html
*3:yumiyoriな話 第10回石原慎太郎さん(読売新聞)http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/yumiyori/20090508yy01.htm

プロフィール
赤木智弘(あかぎ・ともひろ)…1975年生まれ。自身のウェブサイト「深夜のシマネコ」や週刊誌等で、フリーター・ニート政策を始めとする社会問題に関して積極的な発言を行っている。著書に「「当たり前」をひっぱたく」など。