斎藤佑樹がついに手にした早実の背番号1。だが「なぜこのタイミングで…」と困惑した
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高校1年の6月から兄の聡仁さんとのふたり暮らしを始めた斎藤佑樹の生活は、一変した。国分寺に借りたアパートから早実までは歩いて15分。群馬から通う生活に比べればはるかにラクになる......はずだった。
2年夏に初めて早実の背番号1を背負うことになった斎藤佑樹
兄とふたりで暮らしたのは、4畳半と6畳の2部屋にダイニングキッチンがついた国分寺の古いアパートでした。兄は僕に広い6畳の部屋を譲ってくれました。思い出すのは、お風呂にお湯をはるときのことです。ピッとボタンを押すとお風呂が沸くんじゃなくて、ガスコンロみたいなレバーをカチャっと回すんです。そうすると火がつくのが見える......今、あの感じが急に蘇ってきました。なぜ、そのシーンが浮かんだのかな。
もちろん、学校まで近くなったのはものすごくラクでした。群馬からだと朝の5時起きの上、2時間以上もかかっていたのが、歩いて15分ですから。それはラクですよね。ただ、国分寺に引っ越したタイミングで早実の王貞治記念グラウンドが八王子の南大沢に完成して、練習には国分寺からは1時間ほどかけて通うようになりました。
夏になったら練習時間も長くなるし、結局、帰ってくる時間は夜の10時過ぎ。朝は朝で僕は(中高一貫の早実に高校から入学したため)勉強が遅れ気味でしたから、毎日、朝早くから佐々木(慎一/硬式野球部部長で斎藤の担任教諭)先生に補習をしてもらっていたんです。7時に学校へ行くと佐々木先生も来てくれていて、8時までの1時間、教室で勉強しました。家を出て帰ってくる時間は1時間ずつ短縮できましたが、朝早くて夜が遅いスケジュールは国分寺にいても大変で、やっぱり群馬から通うのはとても無理だったと思います。
学食を1年生は使えない、1年生はコンビニに寄ってはいけないという早実野球部のルールも1年の秋か、いや、もう冬になっていた頃かな......新チームでキャプテンになった武石(周人)さんが「斎藤が大変だから」と言ってくれたおかげで変わりました。
なにしろ長年の部の規則ですからそんなに簡単じゃなかったと思いますが、和泉(実)監督も佐々木先生も理解してくれて、最初は「兄とふたり暮らしで大変だから斎藤だけ」みたいな感じでオッケーになったんです。そのうち「ほかの1年生も斎藤と一緒に行ってやれ」となって、そのルールはなくなりました。おかげで昼は学食に行けるようになりましたし、食べることに困ったらコンビニに寄れるようにもなりました。
ほかに1、2年は通学時に学帽をかぶらなければならないというルールもあったんですが、それも僕らの代になくしました。学帽をかぶるのが学校の伝統だというのなら3年生はかぶらなくていいというのはおかしいし、1、2年だけというならそのルールは必要ないでしょう。理不尽なことには意味がないと思っていましたし、そんな雰囲気では甲子園に行くのなんか無理だろと、僕はけっこう本気で思っていました。
早実の考える野球とはいえ、当時から早実はひと昔前のありがちな野球部のスタイルとは一線を画していたと思います。監督や先輩の言葉には絶対服従、後輩は「ハイ」としか言えないような野球部ではなく、先輩、後輩が一緒になって話し合いながら、さらに上の目標を見出そうとする雰囲気があったんです。
ちょっときれいに言うなら、早実は考える野球ができていると感じていました。そういう素養のある選手が集まっていたこともありますし、そもそも早実の校風がそうだったということも大きかったのかもしれません。
実際、卒業されたOBには起業している方が多いそうですし、起業するためには自分から何らかのアクションを起こさないといけません。野球部にも自分から何かを発信しようという素養がある選手は多かったと思います。
練習内容についても、選手それぞれが個人でオシャレなトレーニングジムへ通ったり、パーソナルトレーナーに見てもらっていたり、ちょっと普通とは違う感じを出している選手が多かったという印象はありますね(笑)。
1年の秋の大会、僕は背番号11で、1つ上の高屋敷(仁)さんが1番でした。ブロック予選(秋季東京都大会一次予選)では僕が先発を任せてもらって、初戦の明大中野(9−4)、プロ注目の選手もいて強いと言われていた武蔵工大付(12−1)にも勝ちました。僕は5回くらいまで投げて高屋敷さんや同級生のアンダースロー・佐藤(成朗)さんに交代、早実は継投で勝ち上がってブロック決勝を迎えます。
相手は日大鶴ヶ丘、僕はその試合も先発しました。細かい内容は覚えていないんですが、覚えているのは日鶴で投げていたのが同学年の仁平(昌人/のちに立大、ワイテックなど)だったこと。あとは南大沢の早実のグラウンドでの試合なのに日鶴のチアが来ていたこと(笑)。スタンドもないのになんでチアの応援団が来ているんだろうって、マウンドで彼女たちを見ながら不思議に思ったことを覚えています。
試合の内容はほとんど記憶にないのですが、記録を見ると初回に先制されていますね(センターへタイムリーツーベースを打たれる)。すぐに逆転したもののまた逆転されて......僕はこの日も(5回途中で)交代して、その後も追いつ追われつの展開になりましたが、最後は負け(5−7)。1年の夏は西東京大会の2試合目で負けて、秋もブロック予選で負けて、センバツ出場が早々に絶望となりました。
高校で行ける5度の甲子園のうち、2度のチャンスが終わってしまいましたが、あまり焦りはありませんでした。ただ、高校に入ってすぐの頃、周りから「行ける、行ける」と言われていた甲子園にはやっぱり簡単には行けないんだなとは思いました。
2年夏に背番号11年の冬はグラウンドの裏にある坂道をダッシュしていたことが記憶に残っています。当時はそれが早実のピッチャー練習の名物みたいになっていて、先頭で走るのは決まって高屋敷さん。1年生は後ろから高屋敷さんについていくんですけど、僕と白川(英聖)が歌を歌いながら走っていたんです。ゆず、HY、あとはサスケの『青いベンチ』とか......そうしたら高屋敷さんに厳しく注意されました(苦笑)。僕らは「こんなにキツい練習をするのなら、歌でも歌いながら楽しくやったほうがいいじゃん」と思っていたんですけどね(笑)。
当時の僕は試合で投げる時、やたらと自分に対してイライラしていました。打たれ始めると真っすぐばっかり投げてしまったり、キャッチャーがサインを出す前に振りかぶって監督から「順番が違うだろ」と怒られたこともあります。
いつも立ち上がりはテンポよく入って、5回まではピタピタに抑えていても、いきなり崩れてしまう。しかも自滅するような崩れ方が多くて、身体も元気でスタミナもあるはずなのに、なぜこんなに思うようにいかないんだろうって......当時、自分が導き出した答えは、本気で疑問と向き合うしかない、ということだったと思います。
5回に崩れるなら、5回をあえて特別な回として迎える。「5回さえ凌げば、絶対に9回まで投げ切れる。だからこの回がオレにとっての山場なんだ」と自分に言い聞かせるようにしたんです。意識しないように、じゃなくて、意識しまくって投げてやる、イニングの頭からピンチだという意識でいってやると考えて、いきなりセットポジションから投げたり、いろんなことを試しました。それが徐々にうまくいった気がします。
2年になってからの春の東京都大会も3回戦で負けてしまいました(初戦が2回戦で都墨田工に7−1で勝利、2試合目が都城東に3−4で敗退)。そんななか、2年の夏の大会を前に、僕は背番号1をもらいます。監督から発表があった時、なぜこのタイミングで僕を1番にするんだろうと思いました。
1年秋は11番で、2年春も僕は10番で、高屋敷さんが1番です。正直に言えば、当時は、球のスピードや変化球のキレは僕のほうが上だけど、練習態度や周りへの影響力を考えて高屋敷さんがエースなんだろうな、と思っていました。だからこそなぜ、高屋敷さんにとっての最後の夏に、今さら僕を1番にするんだろうと考えました。
自分なりにその意味を考えましたが、たぶんこれはひとつには高屋敷さんにプレッシャーをかけるということ、そして僕に対して「これからはおまえが独り立ちしないと甲子園は行けないぞ」という監督からのメッセージなのかなと。1番をつけられなかった高屋敷さんは泣いていたそうです。
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和泉監督は「斎藤と高屋敷の関係を逆転させることで、斎藤の自覚と高屋敷の悔しさから生まれる化学反応に期待した」と話していた。しかしこの2年の夏、斎藤にとってはあまりに高い壁が立ちはだかっていたのである。
(第8回へ続く)