オリックス時代の仰木彬監督(左)とイチロー【写真:共同通信社】

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1998年、イチロー氏は憧れだったケン・グリフィーJr.の打撃フォームに変更

 現役時代は南海、近鉄で通算2038安打を放ち、指導者としてはイチロー氏(マリナーズ会長付特別補佐兼インストラクター)の恩師としても知られる新井宏昌氏。オリックス時代のイチロー氏が見せた数々のプレーには驚きの連続だったという。本人の証言をもとに振り返っていく連載の第6回は「イチロー、変化し続けた打撃フォーム」。

 1994年に210安打を放ち、一躍、スター選手の仲間入りを果たしたイチローは、メジャーに移籍する2000年まで7年連続首位打者という偉業を成し遂げた。“振り子打法”でブレークしたものの、変化を恐れない天才打者は毎年のように打撃フォームは試行錯誤し、変えていた。

「打撃フォームをオープンにしたり、右足の上げ方に強弱をつけたり。振り子打法を少しずつアレンジしていたが、全て結果を出していた。どれだけ研究されても、投手に勝つことを考えていたのでしょう。ですが、1つだけ仰木監督から『あれはやめさせてほしい』と、お願いされたことがありました」

打率.358と結果を残すも「彼の良さでもあった、しなやかさが消えて全体的に固さがあった」

 新井氏が振り返ったのは1998年のことだ。イチローが憧れとしていたケン・グリフィーJr.のフォームを真似た年だった。背筋を伸ばし、グリップの位置を通常より高く構える打撃フォームで、この年は、135試合に出場して打率.358、13本塁打71打点、11盗塁をマークした。

 イチローがメジャー志向を抱き、そして球団もそれを容認していることを知っていた新井氏は「あまり良い打ち方じゃないと分かっていたが、本人が納得いく打ち方、思うようにやらせてあげていいのではと、黙認していた」と明かす。

 チームは1995、1996年と連覇を果たし、悲願の日本一にもなった。ただ、その後は徐々に低迷。そんな中でも、当たり前のように試合に出続け、当たり前のようにヒットを放ち、当たり前のように首位打者を獲る――。イチロー氏の姿にファンの感覚も麻痺し始めたのが、ちょうどこの年だった。

「彼の良さでもあった、しなやかさが消えて全体的に固さがあった。打撃スタイルも外のボールをセンターからライト方向へ飛ばすことも多く、力強さを求めていたように感じました」

イチロー氏は「本当に人を驚かすのが得意な人間」

 阪神・淡路大震災のあと、常に満員だった本拠地グリーンスタジアム神戸(現ほっともっと神戸)、そして“エリア51”を間近に見ることができた右翼席にも空席が目立ち始めていた。メジャー挑戦を見据えていたこともあり、自分自身との戦いを強いられていたイチロー氏の葛藤が見られたシーズンだったともいえる。

「私が1番好きだったシーズンは1995年。首位打者、打点王、盗塁王を獲得してホームランも25本打った。内角を攻められ、相手投手が詰まらせるために投げたボールをスタンドに放り込む。理想的なスタイルだった。後に本人に『あの時の打撃が好きだ』と伝えたことがあったけど、キョトンとした表情を見せていた。やっぱりヒットを積み上げる方がいいのかなと感じましたね」

 新井氏は1999年まで1軍コーチを務め、イチローのオリックス最終年となった2000年から2軍監督に配置転換されている。最後の年を一緒に過ごすことはできなかったが、共に過ごした6年間は今でも財産となっている。

「メジャーでも上手くいけば、打率3割は打てるかなと思っていたけど、初年度にいきなり首位打者やMVPを獲得した。この男は何なんだと(笑)。本当に人を驚かすのが得意な人間ですね」。イチローが衝撃のメジャーデビューを飾った2001年を最後に、新井氏は仰木監督と共にオリックスを去ることになった。(橋本健吾 / Kengo Hashimoto)